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第45話

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 結婚式には当然、欠席で返事を出した。常識として、お祝いは包んだけどな。
 高瀬教授にも、毎日講義を受けているから、儀礼的に「おめでとうございます」とは伝えた。
 教授は娘を溺愛していて、学生の俺達から見る「下品で野蛮な行為」を全部、「無邪気で可愛いお転婆」の一言ですませていたから、とても喜んでいたよ。
 そんな空虚な日々を送っているうちに、挙式の前日となった。
 気持ちの整理は依然としてつかず、部屋で一人悶々としていると、ふらりと碓井がやって来た。
 なぜ式に参列してくれないのかと問うので、行けるはずないだろうと答えた。
 すると、「残念だな。披露宴のお色直しは妻の希望で六回なのに」と、苦笑して言う。
 六回とはまあ、ファッションショーでもやるつもりかと嫌味を言ったら、「たったの数時間だ。オレが我慢すればいい事だ。これも高瀬教授を喜ばす作業の一つ。多少の恥とリスクは飲み込んで出世して、大金持ちになってやる。これこそが男の野望だろう」と言い返す。
 だがその直後、あいつは突然、俺を床へ押し倒し、獣のように激しく抱いた。この間、背中越しに嗚咽が聞こえ、泣いているのが分かった。
 そして行為が終わると、「これでお前とは最後だ」と言った。
 俺の目をじっと見つめ、「ある意味、オレは明日死ぬんだ」と、ぽつりと言う。
 俺はどう言葉を返していいのか分らず、ただあいつの顔を黙って見ているしかなかった。
 そして碓井は帰り際、俺にこう言った。
「お前は存在するだけで、周りの者の自信を喪失させる。オレもその中の一人だ。実はそれが一番、我慢ならなかった」と。
 愕然とした。目の前が真っ暗になった。
 俺は自分の愛してやまないもので、碓井や周囲の人間を次から次へと奈落の底へ叩き落としていたのかと。
 確かに、心の中で人を見下したり、碓井と一緒に部屋で他の学生の演奏をこき下ろしてはいたが、一歩外へ出たら、決して口にはしなかった。だからそんな事態になっていたとは考えもしなかったんだ。
 それからしばらくの間、激しく混乱し、悩んだ。
 自分の存在も、また、自分を見る他人の存在をも疎ましく感じた。
 こんなにも苦しいなら、いっそのこと、ピアノをやめてしまおうとまで思いつめた。しかし、あまりにもピアノを愛し過ぎていたので、それはできなかった。
 俺にとってピアノのない人生など死んだも同然。でもこの先の事を思うと途方に暮れた。
 こうして散々悩んだ末、俺はあいつの結婚式の翌日に、建築科への転科を申し出た。
 そこを選んだのには、ちゃんとした理由がある。
 練習室の窓からは、建築科の講義の様子が見えるんだ。
  それを横目にピアノを弾いていたんだが、
いつもなぜか自然に目が行って、面白そうだなって思っていたからだ。
 もちろん親も音楽科の教授達も大反対。引き留められたし、説得もされた。
 でも俺は、あいつの薬指に光る結婚指輪を見ながら残りの三年間を過ごすなんて到底無理な話だったから、自分の意思を押し通した。
 むろん、この件に碓井が絡んでいるとは絶対に言わなかった。
 そして碓井もまた、余計な事は一切言わなかった。
 これには高瀬教授の娘婿だという立場もある。しかもゲイだとバレたら出世どころの話ではなくなるからな。
 だから俺の決断に対して、ものすごく複雑な表情をしていたよ。
 そんな訳で、音楽家への道は自ら絶ってしまったが、俺は今もこうしてピアノと共に生きている。ステージに立つ縁も不思議と続いている。 
 そして、建築科へ移ったからこそフジと出会う事ができたんだ。なのでこの選択に後悔はない――

「それ以降、碓井とは高瀬教授関連の事務的な連絡で電話やメールが時々来るが、個人的には一切会わないようにしている。それがあいつには不服らしいけどな」
 佐賀美さんが小さく笑う。
「お二人で買ったグランドピアノは、どうなされたのですか」
 今の部屋にはないからだ。
「あいつが結婚した後、気持ちを切り替えるために、すぐに別の賃貸マンションへ引っ越したんだ。その時に家具もろとも全部処分した」
「でも、建築科に移ってもピアノは続けていたんですよね」
「ああ。だから即座に電子ピアノを買って、必ず毎日弾いていた。音楽は俺の命の一部だから」
「卒業後も、この前のような演奏会の依頼は来ていたのですか」
「うん。ピンチヒッターでね。転科しても高瀬教授とは、ずっと連絡を取り合っているから。そのせいで碓井にも住所を知られているけどな。それが厄介な点さ」
 そう言って、眉を上げる。
「佐賀美さんって、やっぱり凄い人だったんですね」
「そんなことはない。それよりも――フジ」
「はい」
「俺は……確かに昔は碓井と付き合っていた。でも今は、お前を愛している。お前だけを愛しているんだ」
 真剣な目で僕を見つめる。
「……碓井さんを殴るほど?」
「そうだ。あの野郎、フジを侮辱しやがって。一発どころか千発殴っても足りないほどだ」
「だめです。あんな事はもう二度としないで下さいね」
「うん」
 佐賀美さんはそう素直に頷くも、僕の不安は尽きない。
 碓井に対する劣等感も、この話でさらに増大しただけだ。
 もう遅いが、やはり聞かなければよかった。
 聞き分けの良い顔をして、平然と恋人の過去を受け入れたふりをするのはストレスでしかない。
 でも僕は、この人を信じてみようと思う。「今」は、僕を愛していると言ってくれたこの人を。
 新たな葛藤の存在を自覚しながら、僕は佐賀美さんの腫れた右手にキスをする。
 嫌われるのを恐れて本音を言わないのは止めるけど、そのさじ加減が難しい。
 特に佐賀美さんは、普通の人とはかなり違う。
 繊細すぎて、その反動で暴走する。
 はたして年下の僕が、どこまでこの人を制御できるだろうか。
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