『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

11.姉と弟(9)

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 暗い公園に荒い呼吸音と激しく地面を蹴る靴音、時に速く時にリズムを保って叩きつけられるボールの音が響き続ける。
「は…っ」
 どれぐらい時間が経ったのかわからない。
「んっ、つっ」
 びしりと走った脚の痛みに顔を歪めながら、京介はひたすらボールをフォローする。
 前へ後ろへ、右へ左へ、体を盾に突き進む明の侵攻を食い止めるたびに、がんっ、と骨に堪える振動を受け止める。
 最初に投げ上げたボールはゴールへのんびりと近付いていった。それを見た明がすぐに身を翻してゴールの下へ走り寄る。軌跡から入らない、と判断したのは京介も同じ、元より入るとは思ってなかったから、駆け出したタイミングはコンマ数秒、明より早かった。コーナーにあたって跳ね落ちてくるボールにジャンプしたのはほぼ同時、落下地点と捕まえられる高さを読み合ったのは互角、着地を考えた明と体勢考えずに身を投げ出した京介の競り合いはわずかに京介が勝って、けれども姿勢の不安定さにボールは京介の指を弾かれて飛ぶ。
「くっ」
 明は素早くてしかもしなやかだった。不規則な動きをしたボールを一瞬にして掌に納め、自分の懐に入れようとする。
 綺麗だな。
 熱に浮かされた頭の隅で、こちらを見遣ってきた明にそう思った。
 どこもかしこも、綺麗なやつ。
 生き方も、愛し方も、守り方も攻め方も、これまでの人生で十分に力を貯えて成長してきたことが見てとれる。
 叶わない。
 歯を食いしばって体を捻り、明の懐に襲いかかる。指先が触れることなく奪われるボール、空中でバランスを崩してみっともなく転がり落ちながら、またどこかを強く打ったけれど、その痛みさえもう温いと感じるほど胸が痛くて。
 京介は上がる息に喘ぎながらなおも地面を蹴る。
 間に合わない。
 京介がどれほど頑張って成長しても変化しても、きっと明には叶わない。なぜなら、京介の頑張った分だけ明はなおも努力を続けるだろう。京介よりも豊かな土壌を与えられた男は、京介よりも鮮やかな花を付け、香り高い実を成らせるだろう。
 時間は惨い。
 それが間違った方向に浪費されたと気付く瞬間、人は自分の存在意義を見失う。
 京介が生き延びるためだけにもがいていた時間、大輔に蹂躙され恵子に弄ばれて耐えていただけの時間を、明は自分の可能性を育てるために使っていた。
 その、歴然とした差。
 その、圧倒的な差。
 失ってしまって取り戻せない時間を、これほどの絶望で思ったことはない。
「ちっ」
 ボールが明の指を離れる一瞬にかろうじてジャンプして遮り、明がステップを踏み変えて身を翻す。
 今は防げた、けれど次は?
 次は防げるかもしれない、けれどその次は?
 京介の頭の中に、大石の、高崎の、赤来の顔が次々と過る。
 伊吹を望む男は一杯いるだろう。
 二番目は嫌だ。
 一番多く、一番強く、京介が伊吹を受け取りたい。
 誰かとの逢瀬の合間ではなく、京介の逢瀬のために笑って駆け寄ってきてほしい。
 けれど。
 けれど。
 それを可能にする何が、京介にある?
「お、いっ」
 明が投げつけようとしたボールの前に顔を突き出した。フェイクに引きずられて体が戻ってくれなかったから。
「ばかっ、やめろっ」
 明が舌打ちしながらボールを操る。
 もうボールを奪えるなんて考えていない。
 ただゴールされることを阻止するだけ。
 この一本さえ入らなければ、まだ伊吹と居られる。
 今さえしのげば、数秒は伊吹のことを望んでいい。
「お前っ」
「っっ!」
 掠ったボールに眼鏡が飛んだ。
 それでも立ち塞がる、両手を広げて、見えない視界で動く明に飛びかかる。
「こ、らぁっ」
 どすん、と明にまともにぶつかった。さすがに体重は成人しきった男とようやく大人になった男の差があった。今にも伸び上がろうとしていた明にのしかかるように押し倒す。ボールがばんっ、と鈍い音をたてて頭を殴って一瞬視界が真っ暗になった。とっさにしがみついた手に触れる布の手触り、握りしめたそれを一気に交差する。
「う、ぐっ」
 体の下で明が大きく跳ねた。相手に馬乗りになっていると気付くのに数秒、今何をやっているのか理解するのに数秒、自分が薄い靄に包まれて遠い感覚になっているとわかるのにまた数秒。
「はな、せっ」
「君には、ゲームなんだろうけど」
 すう、と顔を降ろして、明の顔がはっきりわかるところまで近寄せた。相手がぎょっとした顔で瞬きするのに淡々と続ける。
「僕には、違う」
「あ」
 自分が笑ったのが不思議だった。おかしくなんかないのに。
 明が目を見開いて瞬きする、その頬にぽたり、と何かが音をたてる。
「君には、たくさんチャンスがあるだろうけど」
「ちょ」
「僕には、もう、何もないんだ」
 脚の下の体は温かい。びくびく波打っている筋肉が気持ちいい。ランニングシャツを思いきり引き寄せて、その布の交差で明の首を締めていると、自分が大輔そのものになっている気がする。
「今度は違う種類のゲームをしよう」
「お、い」
「僕は君に勝てないけど、伊吹さんも諦めたくないんだ」
「ぐ、う」
「狡いよね?」
 くすくす笑って、布を引き寄せる。明が狼狽した真っ赤な顔で見上げてくるのに、頭の中に霞がかかって自分で自分を襲っているような気がしてくる。
 だって。
 脚の間に熱い体があるからね。
 何度か跳ね上がってくる感覚は、よく知ってるからね。
「死ぬかい?」
「っ」
「どっちがいい? 天国にイキたい? それとも地獄?」
 首を締められてもがくのは自分だった。泣きながら貫かれて、喘いで悲鳴を上げて助けてくれと叫んだのに何度も何度も揺さぶられて、そのうちうるさいと首を締められて、そうすると締まりもよくなると笑われて。
「…助けて…」
 囁くように呟いた。
「く、」
「助けて、伊吹、さん」
「く、そっ」
 頬を次々熱い感覚が伝う。
「たす、けて」
 いつか京介が吊るし上げた『くま』もそう呻いていたんだろうか。
 京介。
「伊吹…?」
 遠いところから呼ばれたような気がして、顔を上げる。空耳だろうか。
 けれど、どこかの闇から厳然とした声が命じた。
 戻りなさい。
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