十歳で運命の相手を見つけた少年は小さな幸せを夢見る

永江寧々

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優しき者

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「お兄ちゃん、大丈夫?」
「しんどいんじゃない?」

 今日は朝からあまり体調が良くない。起きた瞬間からそう感じた。妹たちに心配されるほど顔に出ているのだろうが、それでもディルは起き上がって朝食を用意する。

「自分でできるよ」
「シーナがジルヴァにお休みのこと言ってあげる」
「いいよ、大丈夫。寝不足なだけだから」

 自分たちが心配してもいつもそう言う兄に妹たちは呆れていた。
 最近の兄は一日中家にいるということがまずない。毎日仕事に行っている。ランチから出勤する日もあればディナーだけの日もあるらしく、出る時間は日によって違うが、帰りが遅いのは毎日だ。
 どのぐらい眠っているのかはわからない。本人の口から寝不足と語られればそれをどうにかしてほしいと思う気持ちはあれど、兄のおかげで生活が持ち直したのは確か。今は母親がいたときよりもずっと良い暮らしができている。

「だってお兄ちゃんずっと──」
「引っ越したくないか?」

 いつもなら話を遮って他の話題を出すことに文句を言うが、想像もしたことがない話の内容に思わずつられた。

「どこに?」
「ここより安全な所。毎日入れる風呂が家の中にあって、ガスも水道も電気……はわからないけど、不便なく暮らせる家」

 理想的な家ではあるが、双子は顔を見合わせて浮かない顔を見せる。

「どうやって?」
「探せばいくらでもあるさ」

 ミーナが聞いたのは「そんな良い家に引っ越すためのお金をどうやって手に入れるのか」ということ。生きるためには金がいる。食事はもちろんのこと、寒くなれば冬用の服が必要で、厚手の毛布もいる。夏になれば夏用の服が必要で、薄手の毛布がいる。靴だって揃えてくれた。
 兄の給料がどれほどの額なのかは知らないが、どれも安くはないはずだ。毛布一枚買うのに母親がいつも言っていたから。『お前たちに一枚ずつ買ってやる余裕はないからね』と。それを兄は二人に一枚ずつ買ってくれた。
 裕福と言えるほど余裕があるわけじゃないことはわかっている。夜中に帰ってきた兄がテーブルの上でペンを走らせて何か計算しているのを何度か見た。嬉々とした顔ではなく難しい顔。そんな状況なのに引っ越しなどどうやってするのか。
 あの家で生まれ育った二人には引っ越しの経験はない。あれば母親がいくらかかったと脳に焼きつくほど言っただろうが、それがなかったためいくらかかるかわからない。それを兄だけに負担させるのは嫌だった。

「ここでいい」
「シーナもここでいい」

 二人の意見は同じだった。心の中も同じ。兄にこれ以上の負担はかけたくない。

「金の心配ならしなくていい。兄ちゃんは仕事頑張ってそこそこ稼いでるんだ。そりゃ大きな家はムリだけど、三人で暮らす小さな家なら引っ越せるよ」
「でも引っ越したらジルヴァのお店が遠くなっちゃう」
「昼休みに兄ちゃんが夕飯を持って帰って来るから心配しなくていい」
「お兄ちゃんのお昼休みがなくなっちゃうよ」
「お昼食べなきゃダメ」
 
 妹たちが優しく育ってくれたことにディルはいつも感謝する。自分は育てたと言えるほど立派なことはできていない。むしろ妹たちを置いて自分の幸せを優先していた。それなのに二人は恨むことも嫌味を言うこともなくこうして気遣ってくれる。だから余計にしてやりたくなるのだ。

「兄ちゃんは来年成人だから大人になるんだ。大人になれば親のサインなしで契約ができる。引っ越しだってできるんだ」
「お金は置いておこうよ」
「兄ちゃんは夜帰ってくるのが遅いだろ? だからお前たちには少しでも安全な場所にいてほしいんだ」

 じゃあ早く帰ってきてよ。その言葉を飲み込んで困った顔を見せるミーナを抱きしめるとシーナが二人を抱きしめる。

「なんのギュー?」
「お前たちが大事で可愛いってギューだ」
「シーナもミーナとお兄ちゃんが大事だよ」
「私も」

 大丈夫。ここは安全だからと言えたらどんなにいいだろう。でもここは安全とは程遠い場所にある。幼児だった頃は外を歩くことに不安はなかったが、最近は二人であっても不安になる。大通りに出るためには路地を通らなければならなくて、その路地にはいつも酔っ払った男がいる。一人ならまだいい。でも二人三人と集まっているときは引き返して家にこもる。それを兄に話してからは必ず迎えに来てくれるようになったのだが、その手間さえ申し訳ないと思う。それなのにまだ負担をかけなければならないようなことを追加したくはない。兄が提案したことであっても二人はそれに両手を上げて賛成できなかった。

「兄ちゃんは安心を買いたいんだ」
「わかってる。でもそれは来年になったらの話でしょ?」
「そうだよ。だから今のうちに考えておいてほしい」
「わかった」

 昼間でも男たちの横を通るのが怖いと感じる日々を脱したい。通り過ぎ様に髪を一束持ち上げられるのが嫌だ。引っ張られることはないが、まるで何かの意図を伝えようとしているようで怖い。

『デカくなって。もう少しか?』

 笑いながら言われた言葉にゾッとした。家の前を男たちが笑いながら達ることも増えた。自分たちの名前を笑い混じりに呼びながら通りすぎる気持ち悪さに何度二人で息を殺したかわからない。そんな日々から脱出できる機会があるならきっと何を捨ててでも縋りつくだろう。ただしそれは兄が犠牲にならないことが最低条件。兄が犠牲になるのなら嫌だと拒否する。
 だが、そう強がれるのもあとどれぐらいだろう。二人は兄には言わないが、そう考える日が日に日に増えていっている。

「今日も朝から?」
「明日はディナーからだから朝はゆっくりするよ。一緒にどこか出かけよう」
「「寝て」」

 二人声を揃えて言う迫力にたじろぎながらディルは頷いた。顔を見合わせて三人で笑う幸せが大事だと噛み締める。
 食事を胃に詰め込んだら立ち上がって玄関へと向かう兄を妹たちが見送りに行く。

「戸締り──」
「しっかりする」
「大丈夫」

 毎日言い続けている言葉に二人はわかってると告げると外に出た兄がちゃんと安心できるように鍵を閉めた。この家に鍵なんて物はなかったが、ジルヴァがオージたちと相談して三個も付けてくれた。だからまだ大丈夫だと、この鍵を閉めるとそう思える。
 ちゃんと鍵が全て閉まる音を聞いてからディルは店に向かう。いつもなら走って行くのだが、今日は歩いて行く。走ると目眩がしそうだったから。

「おはようございます」

 店に入ってすぐスタッフルームで着替える。

「おはよう、ディル君」
「おはようございます」

 アルフィオがこの店に来て今日で五日目。今日、明日、明後日と働けば自国に帰ると言っていたからそれまでの我慢だとディルは自分に言い聞かせて毎日出勤している。
 この男を見ると劣等感に押し潰されそうになるから嫌いだ。何もかもが違いすぎて気分が落ちる。
 コイツのせいで連日大忙してシェフたちの疲労もピークに達しているのにジルヴァとアルフィオだけが平然としていた。

「顔色悪いんじゃないかい?」
「寝不足なだけです」
「今日は休みにしてもらったらどうだい?」
「妹たちがいるんで稼がないと」

 大丈夫と言うとジルヴァに相談して帰らされるため金を理由にした。

「少し早めに休憩を取るといい」
「ありがとうございます。でも今日も忙しいだろうからランチ終わるまで頑張ります」
「あまりムリはしないように」
「はい」

 優しく背中を叩いて出ていったアルフィオのことはどうしても好きになれない。笑顔で対応するようにはしているが、疲れている日はそれが異常なほどストレスに感じる。

「さっさと帰れ」

 そう吐き捨てたくなるほどに。

「ディル、お前はホールだ」
「……はい」
「返事が小せぇ。やる気ねぇなら帰れ」
「はい!」

 この五日間ずっとホール。それは厨房では必要ないと言われているも同然だった。当然だ。まだ料理を教えてもらっていない雑用係と有名シェフの力量など比べるまでもない。アルフィオがいればディルはいらない。それは自分が一番よくわかっている。アルフィオにバカにされたくないからと張り切ると空回りして邪魔になる。ジルヴァの判断は間違っていない。
 
「いらっしゃいませ」
「お待たせしました」

 この五日間、常連じゃない人間のほうが多く、中にはアルフィオを見るためだけにやってきた金持ちもいた。アルフィオを呼べと言われ、できないとやんわり断るも傲慢な態度で命令してくるのを厨房からジルヴァが『お前のその目玉が偽物じゃねぇなら忙しいのわかんだろ!』と怒鳴る。そうすると金持ちは『こんな汚らしい店にまで出向いてあげたのに!』と捨て台詞を吐き捨てて出ていく。それにアルフィオは苦笑して『忙しすぎて出られないんだ』と柔らかい声で謝る。それで女性客がキャアキャア言うのも鬱陶しかった。
 オージたちのように『イケメンは良いよなぁ』と笑えればいいのだが、そこまで出来た人間ではない。今日はアルフィオに対する感情と自己嫌悪によるストレスで吐きそうだった。

「ふぃー! 終わったなー!」
「ディナーまであっという間だぞ……」
「年寄りを労われよな」
「労わってほしけりゃ施設にでも入れよ」
「看護師の姉ちゃんのケツ触り放題なとこなら今すぐにでも入るぜ」
「指折られて終わりだろうな」
「俺のテクニックを知らねぇだろ」
「知るかよ! 知りたくもねぇわ!」

 普段ならこの会話に入って一緒に笑うのだが、今日はそういう気分になれない。目が回りそうで何度も目を細める。そうしている間に眉が寄り、立っているのが辛くなった。椅子に腰掛けてテーブルに伏せる。大きく吸い込んだ息を一気に吐き出す。それでも気分は落ち着かない。

「さすがにディルも疲労困憊ってとこか」
「よく動き回ってるほうだぜ」
「若いからな」
「ディル、飯食っとけ。もたねぇぞ。休日だからお前がいねぇと回らねぇからな。頼むぜ」

 夜は昼より忙しい。今日は休日だからディナーの来客数は予想もつかない。体調を崩している場合ではないと賄いを取りに行こうと立ち上がり一歩踏み出した瞬間、膝に入っていた力が抜けて身体が落ちるのを感じた。

「ディルッ!?」

 揺れる景色の中でシェフたちが驚いた顔をするのが見えたが、それに反応することもできず、床に倒れると同時に意識を手放した。
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