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過去のこと

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「……ジル……」

 十歳までの生い立ちを聞いたディルは絶句にも近い状態だったが、何か言わなければと口を開いて出てきたのは名前を呼ぶことだけだった。無理するなと頭を撫でてくれるジルヴァに申し訳なくなりながらも下手なことは言えないと口を閉じた。

「どこでもそうだと思うが、ガキの頃ってのは親が全てなんだよ。親が間違ってると言えば正しいことも間違いで、家庭の常識が世界の常識。おかしいことだとわかっちゃいても外を知らねぇガキが一人で生きられるわけもねぇしな。窓から外を見ることさえ許されなくなったときは早く死んでくれねぇかなって毎日祈ってた。この俺が、神に祈ってたんだぜ」
「信じてない神様にさえ祈らなきゃやっていけなかったんだよ」

 ディルも神様を信じているわけじゃない。神という不確かな存在を貶すつもりもなければ信仰するつもりもない。そんな存在に祈らなければ心が折れてしまいそうなときがあることも、そうしてでも現状を変えたい気持ちもわかる。
 だが、ジルヴァは自分よりずっと苦労している。ディルも親には恵まれなかったが、ひどい暴力や嫉妬はなかった。妹が二人いるから逃げ出せない状況にあったが、妹が二人いたから耐えられたこともあった。ジルヴァはそうじゃない。親によって全てを奪われながら十歳まで生きてきた。自分がどういう目に遭っているのか分かりながらも逃げ出すことさえできず耐えるだけの日々。自分のように誰かが手を差し伸べてくれる環境にない日々というのはどういうものか、ディルには想像もつかなかった。

「お父さんはいつ死んだの?」
「俺が十歳のときだ」
「そうなの?」

 懐かしそうに目を細めるジルヴァの中にある思い出は苦いものではなく母親が死んだとき同様にスッキリとしたものだったのだろう。

「お節介な人間ってのはどこにでもいるもんで、ほとんど誰も近付かなくなった親子に寄り添おうとする人間がいた。ガキのためだけじゃねぇ、親にも良くない状況だと言い続けてた。できることはないか、助けが必要なんじゃないかってな。でもアイツは耳を貸さなかった。妻を殺してからずっとガキと二人だけの世界を作り上げてきたんだ。ガキがテメーをどう思ってるかも知らねぇで脳みそ砂糖漬けにして生きてりゃ周りの声も聞こえねぇわな」
「どうして死んだの?」
「殺したから殺された」
「え?」

 どういう意味だと視線を送るディルを見たあと、ジルヴァは窓の外を見つめる。いつの間にか雨が降っていて窓を叩いていた。静かな空間に響く雨の音。それとディルにしか聞こえない緊張で心臓が速く動く音。

「お節介な奴は鬱陶しいが慕われる。そいつに救われた人間が大勢いたんだろうな。お節介を焼くソイツを殴った際、打ち所が悪くて死んじまったらしい。その翌日、アイツも死んだ。それが本人かどうかも確認できねぇほどグッチャグチャになって死んでたんだとよ」
「誰から聞いたの?」
「サツだよ。身元確認できる物が入ってたから間違いない。だから君は確認する必要はないって言われてな」
「そんな……」
「俺としちゃあ見てやりたかったんだぜ。あのクソ野郎の最後の死に顔だ。どんな顔してんのか興味はあった。でも見られなかったからな。残念だわ」

 悲しくなかったのか、と問いかけたかったが不謹慎だと思った。ジルヴァにとって父親は良い存在だったときもあった。だが、身体が成長するように精神も成長する。父親の中では何も変わらない子供のままだった我が子が自分に嫌悪を抱いていたなど想像もしていなかったのだろう。二人だけで良いと本気で思っていたから誰の助けも必要としなかった。自分が決めた暮らしを、世界を、他人が変えることが許せなかった。
 哀れ。その一言に尽きると思った。

「でもそれって見殺しじゃないよね?」

 ジルヴァは見殺しにしたと言ったが、後から聞いたのであれば見殺しではない。

「アイツが仕事に行ってる間にとある男が裏口にやってきた。戸を開けることはしなかったが、ボロ屋だからな。開けずとも会話できんだわ」
「それで?」
「俺はその男からお前の父親は近々殺されるかもしれねぇと聞かされた。恨みを買いすぎてそういう話が出てるってな」
「どうしてジルヴァにその話を?」
「俺を巻き込むつもりはねぇが、アイツは何するかわからねぇから巻き込まれそうになったら逃げろって伝えに来たらしい」
「逃げたの?」
「まさか。アイツは外で復讐されたし、俺はそれをアイツに伝えなかった。防げたことを防ごうとしなかった。それはもう見殺しも同然だろ。見殺しっつーか共犯か」

 あえて伝えなかった。それはジルヴァの中で父親は死ねばいいという気持ちがあったから。それはジルヴァにとって正解だったし、全てから解放されたことでもあった。だからディルはそれについて何か言おうとはしないし、何か言うなど考えることさえしなかった。

「お母さんは今でもその場所にいるの?」
「掘り返されたぜ。俺がチクったからな」
「あ……」
「家もジンが付けた火が飛び火して何も残ってねぇし」
「近所だったの?」
「まあな。外に出るまで話したことはなかったが」

 父親が築き上げてきたもの全て、ジルヴァは壊して回った。父親が守った家には火が燃え移り、異常な愛を注ぎ続けてきた父親に縋りついて泣くこともせず、父親が隠蔽した事件を暴露した。
 ジンと知り合いのように話していたことも理解できたディルはなんとなく得る安堵に息を吐き出す。

「アルフィオとは?」
「孤児院で会った」

 孤児という言葉にディルは自分たちが行くべきだったかもしれない場所に無意識に身体に緊張が走る。

「アイツが死んだことで孤児院に送られたが三日で逃げ出した」
「どうして?」
「あんな天使の皮かぶった悪魔がいるような場所にいられるかっての」
「どういうこと?」
「表向きは慈善事業みてぇな顔で皆仲良くワイワイやらせてんだよ。子供たちはここでのびのび幸せそうに育ってるように見せる裏では虐待が横行。必要以上に鞭で打たれる子供。性的虐待を受ける子供。躾という名の体罰を受ける子供。でも逃げ出せねぇんだわ、誰も。逃げ出しても生きる術がねぇから」
「でもジルヴァは逃げ出したんでしょ?」
「そこでゴミに従って生きてくぐらいなら野垂れ死んだほうがマシだと思ったからな」

 思い出すのは夜、ひっそりと抜け出して自由を得た日のこと。夜の街を自由に歩き回るだけではなく息が切れて脇腹が痛くなるまで走り続けた日のこと。自由が嬉しかった。誰かに縛られることはもうない。誰かの顔色を伺って生きることもない。本当の自由を手に入れた。

「アルフィオと一緒に?」
「アイツが抜け出そうって言ったんだ」

 優等生ぶったアルフィオが実は猫をかぶっていただけだと知ったとき、ジルヴァはおかしくて三十分以上笑い続けた。

「それからずっと二人で行動し続けた。だからアイツの良いとこも悪いとこも全部知ってる」

 それは十二年もあとに生まれた自分ではどうしようもない差であり、張り合っても仕方のない濃厚な記憶。絶対に壊すことのできない絆だと思い知る。

「アイツはシェフとしては一流だが、人間としては三流だからな」
「そうなの?」
「こんなデッケェ石がついた指輪渡すほど結婚しようと思ってる相手がいんのに他の女にキスしようとする男だぜ。腐ってんだろ」
「そうだね。うん、本当にそう思うよ」

 身を乗り出して頷くディルに笑いながらジルヴァも頷く。

「だからアイツとの結婚なんざありえねぇ話だ」
「……オレとは──いった!」

 放たれた強めのデコピンにギュッと目を閉じて額を押さえるディルに「バーカ」と優しい声が飛んでくる。

「シェフになってもねぇガキが結婚とか笑わせんな」
「シェフになったら結婚してくれる?」

 返事はない。

「あのクソ野郎に抱かれてる間、俺はずっと天上のシミを数えてた。雨が強く降るたびに広がっていくシミが自分の心の負の感情みたいで好きだった。あれが天井いっぱいに広がったとき、俺はコイツを殺すんだろうかってそんな想像ばっかしてた」
「うん」
「俺が消えたところで夫の愛が戻るわけねぇのにアイツはそれを本気で信じてた。最期のその瞬間まで俺を睨んでさ……可哀想な人だった」

 殴られて殺されかけたというのにジルヴァの中で母親は憎むべき対象ではなく哀れむ対象になっている。ディルもそうだ。辛く当たられることばかりだった。愛情は全て妹に向き、自分には兄という責任だけを押し付けた母親を憎む気持ちは微塵もなく、あるのは哀れだったことだけ。ジルヴァの気持ちが痛いほどよくわかるディルは思わずジルヴァを抱きしめた。

「なんだよ。甘えてんのか?」

 後ろから抱きしめられたことにジルヴァは笑みを崩さず、前に回った手を掴む。

「オレはジルヴァのことが大好きだよ。ジルヴァがどんな人でもずっと好きでいると思う。どんな身体だっていい。どんな性格だっていい。結婚してくれなくてもいい。好きでい続けるよ」
「……バーカ。時間がもったいねぇだろ」
「人を好きでいる時間に勿体無いなんてない。だってその瞬間はすごく幸せだから。実らなかったとしてもその幸せは嘘じゃないからいいんだ。ジルヴァがこの店を閉めるまで働き続けるから」

 自分と違って真っ直ぐに気持ちをぶつけることができるディルを直視しないのはジルヴァにとって眩しすぎるから。残酷な日々の中で希望を捨てず掴み続けようとするディルは手放す物が多かったジルヴァには眩しすぎるもので、上手く言葉が返せなくなる。

「ロイクが言ってたことはそういうことかもしれねぇな」
「ロイク?」
「あの墓に入ってる人の名前だよ」

 ジルヴァを救ってくれた人の名前。

「彼はこの店の魂のような人だった」
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