冬に出会って春に恋して

永江寧々

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彼女の部屋

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 部屋は質素なものだった。当然だ。客間として利用するだけだったのだからあるのはベッドと机ぐらい。
 椿が住むようになったといえど、この部屋に物は増えなかった。いや、増えたのは増えた。

「誰が着るってんだよ」

 クローゼットを開けると椿に買った服が入っている。アイロンがかけられたようにピンとしている洋服。もう誰が着ることもない。かといって捨てる気にもきっとなれない。誰かに譲るなどありえないことだ。この先、自分の気持ちに区切りがつくまでこの服はここに眠り続けるのだろう。
 一枚一枚に思い出がある服をハンガーにかかったまま持ち上げては口元に笑みを浮かべる。
 着たことがないからに合わないだろうし恥ずかしいと言っていた。でもよく似合っていた。お世辞でも嬉しいと笑顔を見せてからは何度も着てくれた。ネックレスもそうだ。自分にこんな煌びやかな物は似合わないと言いながらも柊が褒めるとつけるようになった。
 千切られそうになった時、椿はネックレスを守った。あの時、椿はネックレスを千切られるべきだった。千切られてもなんでもないという顔をして指輪も投げ捨てるべきだった。でも咄嗟に守ってしまったことでそれが椿にとってどういう意味のある物かバレる結果となってしまった。
 忘れてもらおうと、嫌ってもらおうと嫌な人間を演じたくせに、あんな風に反応を見せてからでは全てが嘘に見えるのも当然だ。

「バカだよな」

 クローゼットを閉めて部屋を見回す。それほど広くない部屋に椿がいる時間は短かった。眠る時間も短く、起きて動いている時間の方が長い。猫とは真逆の生活。

「ペット見守りカメラ付けたら絶対面白かっただろうな」

 何をしているのか監視するような真似はしないが、昼休みにカメラから声をかけたらきっと驚いただろうと想像するだけでおかしくて込み上げる笑いに肩を揺らす。聞こえるはずのない声が聞こえたことに驚き、辺りをキョロキョロ見回しては声の主を探して家中歩き始める。こっちこっちと呼ぶ声に返事をするも見つからず、カメラを覗き込むように言うとアップの椿が映る。屋上かどこかに行ってからしなければからかわれるほどニヤつきすぎただろう自分が容易に想像できた。
 いなくなってからそんな楽しいことを思いついても意味がない。最近は笑うと椿が一緒になって笑うことが多かったから一人で笑って誰かの笑い声が聞こえないと虚しくなってしまう。
 すぐに消えた笑い。静かになった部屋に時計の針が動く音だけが響いて聞こえる。

「綺麗なもんだな」

 椿が帰ってから一度も入らなかった部屋はまるで清掃が入った後のホテルの一室のように埃もなくシーツもピシッとキレイに張って整えられていた。
 普段からこの部屋に入ることがなかったためいつもこうだったのかはわからないが、二月三日の彼女がこうしたのは間違いなく、それはまるであの日、彼女は迎えが来るのがわかっていたようにも感じた。
 思えばあの日、椿はあんな時間だったというのに着物を着ていた。出会った時に着ていた一番良いお気に入りの着物。
 きっとわかっていたのだ。二月四日になったら迎えが来るということ。確信ではないが、確率の高い予想だったはず。だからあんな時間にあの着物を着て、こんなにも整える必要のない部屋を整えていた。

「嘘つきのくせにわかりやすい部分もあったりしてさ」

 どこまで本音が混ざっていたのだろう。もう帰ると言おうと思っていたという部分だろうか。そんなことを考えていたのならもっとちゃんと話し合うべきだった。彼女が背負う未来への対処法などないのかもしれないが、二人で話し合えばあるはずのない物だって見つかったかもしれない。それなのに自分は何もしようとしなかった。悠二と同じだ。何かできたはずなのに何もしようとしなかった。後悔してると懺悔したところで割れた物は元には戻らないし、月に帰った姫が戻ってくることもない。後になって悔やむから後悔なのだ。今更になって思い知る情けなさに苦笑さえ漏れはしない。

「ペン……?」

 ふと、机の上にペンが一本置かれていることに気付いた。そう言えばと思い出したのは買い物に行った時に欲しい物はないかと聞いて紙とペンをねだられたこと。どうせならペン立ても買うか言ったのだが、ペンは一本あれば充分だからと断られて買わなかった。その一本だ。でも一緒に買ったノートが見当たらない。中かと引き出しを掴んで引くとノートが数冊あった。

「献立表」

 レシピではないのが椿らしいとノートの表にキレイな字で書かれた言葉に表情が緩む。ページをめくると確かにレシピが書いてあった。出会った日からの献立がちゃんと書いてある。懐かしい。

「鯛茶漬けのレシピ」

 あまりの美味さにメモにして冷蔵庫に貼っておきたいと言ったのを覚えていたのか、ちゃんとレシピとして残してくれている。星マークを書いて(旦那様お気に入りの一品)と一言。

「本当に美味かったからな。掻き込みたくなるし、味わいたくもなる。あれが茶漬けって嘘だろ」

 何度味わっても感動するほど美味しかった。簡単に出来ると言っていたが出汁をとるのが面倒だと言うと椿はいつも笑った。粉末を使わず出汁をとるところから料理が始まる椿にとって柊が面倒だというのはわからなかっただろう。
 一つ一つに手間がかけられていて大事に食べようと思わせる料理ばかりだった。
 彼女の料理はただ作るだけではなく食べる相手のことを考えて作られた料理。出来立てであればいい。美しければいい。それも正しい。それも必要。でもそれだけではダメだ。食べる人のことを考えて作ることが一番大事だとそう教えてくれる料理だった。
 
「こんなに書いて大変だっただろうに」

 おやすみなさいと部屋に戻ってから書いていたのか、それとも自分がいない昼間に書いていたのか。どちらにせよ毎日の献立を記録し続けるのは大変だっただろう。献立を考えるのも作るのも。不自由しないだけ稼ぐから家事を完璧になんていう傲慢さを今更ながら恥じた。互いに慣れた仕事といえど苦労が違う。毎日同じ仕事をするよりも毎日同じ内容に見えて実際は違う家事の方が大変だと思った。週に二回必ず休みがある社会人と違って家事を仕事にすれば休みがない。掃除も洗濯も料理も夫が休みの日は妻もしなくていいことにすれば平等だが、そうするところは少ないだろう。事実、柊もそうだった。自分が休みでも椿には食べたい物をリクエストしていた。自分が休みなんだからお前も休めということだってできたのに。
 優しいなんて褒められる人間ではない。思いやりがある優しい人間であればもっと労ったはずだから。

「ん? ……日記……?」

 二月四日の献立が終わり、そのままペラペラと最後のページまで指で弾き流そうとすると文字が見えた。思わずページを開くと日付が書いてあり、そこには日記らしい文章が並んでいた。
 一番最後のページの日付は十一月。日記は後ろ側から書き始めたのだ。日記用として買うのを躊躇ったのか、それとも部屋を突然訪ねた際に書いていた日記を献立を書いていたと誤魔化せるようにか。
 これは読むべきではないのかもしれない。椿の心の中の言葉だ。秘密にしたいからこうしてこっそりと献立の裏側に書いていたのだ。吐き出したくても吐き出せない、いつも飲み込んでいた言葉が書いてあるのだろう。柊には言えないから日記に書いたその言葉を読んでもいいものか。
 だが、彼女はもういない。戻ってもこない。もう二度と会うことがないのなら読むぐらい許されるのではないかと思った。何が書いてあろうと誰にも言わない。全て自分の中に留めておく。そう決めてベッドに腰掛け日記を読むことにした。
 文章はそれほど長くはない。柊に話すような敬語でもない。椿が自分と対話するように独白していた。
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