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二人の問題

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「昨日は家から一歩も出てきませんでしたね」
「出る必要なんてなかったからね」
「そのようですね」

 四十代の男の肌がツヤツヤになっている様は見ていて気持ちいいものではないが、最近のうじうじとした鬱陶しさが綺麗さっぱりなくなったのを考えれば何も言うことはない。
 また今日から仕事を頑張ってくれればなんの問題もないのだから。

「そろそろ子供のことを話し合おうと思っているんだ」
「まだ新婚を楽しまれてもよろしいのでは?」
「もちろんそうするつもりだ。だが、僕はもう四十を過ぎている。新婚を楽しんだ後にどうするかと話し合うよりも今話し合っておいたほうがいいんじゃないかと思ってね」
「さぞ利口な子が生まれることでしょうな。奥様に似て」
「僕も賢いつもりだが?」
「ええ、でもいかんせん男らしくない部分がありますのでご主人様に似ると心配ですねぇ」

 いつも一言余計なハンネスには固定した笑顔を向けることで対応するが、嫌味は続く。

「一番は男の子がいいですねぇ」
「女大公も悪くないさ」
「上に立つ女性はまだ少ない。それも我の強い女性は好まれない世の中です」
「二十年もあれば何かしら変わるさ」
「何百年と変わらない貴族たちがたった二十年で変わると?」
「そう願いたいね」

 貴族の世界は男女で生きる場所が違う。男も女も爵位で生きているのに変わりないが、男は自由に闊歩し、女は鳥籠の中で生きるだけ。その中でいかに贅沢ができるか、で自慢できることが変わってくる。
 持っている領地の数や広さ。雇っている使用人の数。持っている馬の頭数。ドレスや装飾品のブランド。家柄の歴史。貴族という生き物は自慢しなければ生きていけないのだ。
 ベンジャミンたちのように貴族に生まれながら使用人のいない生活を望んでしているというのは珍しいこと。周りから嘲笑われようと自分達がそれでいいと思って生きている。
 アーサーも結婚したことは報告しても二人だけで暮らしているとは言っていない。言えばきっと何か言われるのはわかっているから。自分だけが言われるならいいが、貴族は憶測ではなく妄想で物事を語るためきっと『あの貧乏人の男爵令嬢に合わせて暮らしてあげてるのよ』とか『どうせあの娘がわがままを言ったんでしょ』と言うのは想像に難くない。
 直接言ってくるならまだいい。理解してもらえるのなら「違う、そうじゃない」と懇切丁寧に説明するぐらいなんでもないのだから。しかし、陰口を叩く者たちは絶対に理解しない。理解しようとさえしない。だからアーサーは説明しない。言いたいなら言えばいい。貴族の噂話の広がりは風が吹き抜けるのと同じで一瞬。口に戸は立てられないのだ。

「奥様はまだ十七歳、と言いたいところですが、二十歳になるのを待っていたらあなたは四十五歳になってしまいますからね」
「子供が二十歳になる頃には六十半ばか……遊べるかな……」
「体力的に厳しいでしょうね。それはそうと、奥様にお手紙が届いております」
「手紙? マリーに手紙を送ってくる者なんて……」

 いないだろうと失礼なことを口にする前に口を閉じたのは手紙にされた封蝋に押された紋章に身に覚えがあったから。

「ジールマン公爵がマリーに何の用だ?」

 ジールマン公爵とは面識がある。だが、結婚式に呼ぶほど親しいわけではなかった。そんな相手がマリー宛に手紙を寄こしてくるとはどういうつもりかと眉を寄せながら手紙を開けると中には手紙と招待状が入っていた。

「結婚したのか……」
「招待状が届いていましたよ、二年前に」
「……そうだったか?」
「ええ。行かないの一言で終わりましたが」
「じゃあ覚えていないのも当然だ」

 二年前はまだマリーにも出会っていないが、多くの女性が集まる場所に行きたくなかったため欠席の返事をした。ハンネスが代わりに出したため覚えていなかった。
 だからこそ余計に手紙を送ってくる理由がわからなかったのだが、手紙を読んで納得。

「どうやら彼は二十五歳年下の妻を迎えているらしい。私も二十五歳年下の麗しく愛らしい女性を妻に迎えたから互いに自慢し合わないかということだ」

 自分の妻だけ素晴らしい女性だと言わんばかりに表現を加えるアーサーを誰かに会わせるのは危険だとハンネスは感じる。

「ジールマン公爵には会わせたくないな」
「彼は貴族として、というより人間としての品性を持ち合わせていませんからね」
「マリーの清らかさで浄化されればいいが、彼には効かないだろうし」

 すっかり妻を神格化しつつある男がこれからどこまで堕ちていくのか少し楽しみにしているハンネスはあえてツッコまなかった。

「彼は僕より三つ年上だから四十五歳。ということは妻は二十歳か……。マリーとは話が合わないだろう」
「十七歳も二十歳も変わりませんよ」
「マリーは人見知りだし、お茶会なんて出席したこともない。僕はお茶会のルールを知らないが、陰険な小競り合いがあるかもしれない」

 偏見だと言いたいが、偏見とは言いきれないだけにハンネスは黙っていた。
 女は男のように大口を叩いて話すわけにはいかない。だからこそ水面下での戦いが勃発する。マリーがその中に入って勝てるとも思えず、アーサーは行かせないと招待状を破ろうとしたのをハンネスが止める。

「それをお決めになるのは奥様です。もしこのまま何も知らせずどこかのパーティーでジールマン公爵夫人にお会いしたら責められますよ」
「それもそうか……」

 返事を出すのは絶対。もし返事をしなければ仲間には入れてもらえない。大公妃であるマリーより上の人間は王女ぐらいだが、ジールマン公爵夫人が王族と茶飲み友達であることは考えられないため無礼はそれほどないだろうと分かっている。
 恐ろしいのは返事をもらえなかったのはジールマン公爵夫人があることないこと広めてマリーの評価を落とすこと。
 貴族が証拠なしには信じないような立派な生き物であればよかったのだが、実際はその反対。噂話を事実であるかのように広げてしまうだけにマリーが返事をしなかったのをワザとだと言ってそこに悪意ある言葉を付け足すぐらいなんでもない。あとは一人に話せば二人に広がり、それが四人に増え、八人、十六人──と広まっていく。
 そしてマリーの耳に入る頃には『マリー・アーチボルトはとんでもない性悪女』という言葉が事実のように入っているはず。
 アーサーもそれは容易に想像がつく。

「マリーは行くと言ってしまうのではないだろうか。これも外交だと思い込んで」
「でしょうね」
「品定めをされて帰ってこられるだけでしょうけど」
「マリーが行く時はハンネスも行くんだろう?」
「は?」
「僕は外には出ないし、ハンネスの護衛は必要ない。でもマリーには護衛が必要だ。そうだろう?」
「そう、ですが……」

 まさか自分まで駆り出されることになるとは思っていなかっただけにハンネスも驚いてしまう。
 夫人たちが集まるであろうお茶会に護衛としてお供をし、くだらない話を延々と聞かなければならない地獄に陥る事態だけは避けたかったが、手紙を破るのを止めたのは自分。
 
「マリーが断れば済む話だ」
「そうですね。それからもう一通」
「……リタからか……」

 差し出された封筒には真っ赤な紅でつけたのだろう唇の形が残っており、既婚者が既婚者にこんな物を送るのはどうかしていると眉が寄る。
 触れたくもないと思う封筒から素早く中身を抜いて封筒は燃やすよう指示。

「僕は女心には疎い。それは女性と触れ合うどころか関わってこなかったせいだと思っている」
「そうですね」
「だが、これは女心の問題ではなく彼女の問題だ」
「何が書かれてあったのですか?」

 怪訝な表情を見せるアーサーに問いかけるとアーサーは手紙を机の上に放ってため息をつきながら立ち上がり背後の窓に寄った。
 手紙を取って内容を確認するが、おかしなことは何も書いていない。だが、それが逆に怪しいと感じさせる。

「話がある、という手紙はおかしいですね」
「ああ。話があるなら手紙に書けばいい。それなのにそんな書き方をするのは変だ」
「あなたに会いたいのでしょうね」
「僕はもう間違えない。断りの手紙を書くよ」
「それがよろしいでしょうね」

 盗聴される可能性がある電話とは違う。手紙は本人しか読まないもの。そこに内容を書いた上で「話がしたい」と書くのであればまだわかるのだが、リタは「話したいことがあるから時間を作ってほしい」と書いただけ。それも「私のために」と余計な一言まで付け足して。
 マリーじゃなくても不愉快だと思うだろう。使用人が見ても憤怒するのは間違いない。

「私のために、ですか。ご自分をあなたの特別だと思っているのが透けて見えますね」
「僕の特別はマリーだけだ」
「ハッキリさせられなかった関係というのは離れている間に美化されてしまうものなのです」
「僕は結婚したんだ。宝物が妻なのは考えずともわかるだろう」
「妻と親友は別物だと考える者もいます」
「僕はそういうタイプではない」
「なら余計に」

 振り返ったアーサーの眉間にはまだ深い皺が見える。わけがわからないと言いたげな様子にハンネスは手紙を封筒に戻して焼却用の書類入れに入れた。

「妻だけを大切に思っているのならそれでもいい。今の距離で入れば問題ないと思うのでしょう。事実、あなたは先日、彼女を拒まなかった」
「あれは失敗だった……」
「女は男の隙を見つけるのが上手い。まるでハンターです」

 隙があったかどうかは聞かない。自分でもわかっている。昔馴染みだから、既婚者だからと警戒しなかった自分は隙だらけだっただろう。
 リタは昔から懐に入り込むのが上手い女性だった。だから社交界でも年齢問わず人気で常に男に囲まれていた。
 だが、もう二度と同じ轍は踏まないと誓った。リタと二度と会えなくなるとしてもマリーを傷つけることと比べればなんでもない。比べるまでもない。

「リタはマリーに嘘をついた。僕にキスを仕込んだとか、僕がそのキスに夢中になったとか」
「おやおや、それはひどい嘘ですね。マリー様との妄想の中でしかキスしたことがなかった男に仕込んだとは面白い」
「笑えないんだが?」
「ゴホンッ! これは失礼しました」
「なぜそんな嘘をついたのかわからない」
「傷つけたかったのでしょうね」
「性悪め……」

 女性が自分勝手なことは知っている。だが、それに疲れることはあっても苛立つことはなかった。しかし今、アーサーは腹が立っていた。苛立つ自分を抑えるために深呼吸するぐらいには。
 意味のない嘘だ。それをマリーに言うなどどうかしているとしか思えない。もし本当にマリーを傷つけることが目的だったのだとしたら許さないと拳を握った。

「お返事はどうなさいますか?」
「一応出すよ」
「では、用意しておきます」

 そのまま外へと向かうアーサーは窓から見える光景に目を細める。
 これから馬車に乗って国へ戻るベンジャミンたちがマリーと話している。本当はアーサーも入りたかったが、自分がいてはグレンも素直に謝れないのではないかと思ったため遠慮していた。
 自分もあの家族の一員なのだと思うと嬉しいが、不思議とあの家族の中に入らず外から見ているのも好きだった。

「遅くなってすまない」
「お忙しいのにすみません」
「忙しいなんてとんでもない。最後までもてなせなくてすまないね」
「いやいや、静かなアルキュミアを妻とのんびり散歩できてよかったです。ありがとうございました」

 あの賑やかだった一ヶ月が嘘のように人の姿は見えず、静まり返っている。そんな中を散歩している二人を想像するだけでアーサーの表情は緩んでいく。

「ほれグレン、アーサー様に言うことはないのか?」

 グレンの尻を叩いたベンジャミンに促されてグレンが一歩前に出る。もじもじと少し身じろぐグレンにアーサーは笑顔のまま言葉を待った。

「御無礼をお許しください」

 簡素な一言にベンジャミンはまた尻を叩いたが、アーサーは笑ってしまった。

「マリーを心配している君の気持ちは伝わってきたよ。君の心配が現実にならないよう、日々、健康に気を遣いながら生きていくつもりだ」
「よろしくお願いします」

 一人の男が一人の女のために自分の人生を決めるなどなかなかできることではない。帰ってくるのがあと一年早ければきっとマリーはグレンのプロポーズを受けていただろう。
 そしてベンジャミンたちもグレンにマリーを任せていたはず。
 結婚やプロポーズはタイミングだと言うが、アーサーはそれを身に染みるほど実感した。

「また来年、お会いできるのを楽しみにしています」
「そうだね。また来年」

 もうすぐ一年が終わる。来年という言葉は寂しくともすぐにやってくる。
 足の悪いベンジャミンが先に馬車に乗りこみ、続いてカサンドラが乗りこむ。グレンはまだ動かず、マリーを見ていた。

「幸せか?」

 急な問いかけだったが、マリーは笑顔で頷いた。

「とっても幸せよ」

 どこか諦めたような切なげな笑顔を見せるグレンは一歩、マリーに近寄って額に軽く口付けた。

「神の祝福がありますように」

 額へのキスは祝福を意味する。グレンの言葉に嘘はないだろうとアーサーも見守っていた。
 アーサーには軽く頭を下げるだけですぐに馬車に乗りこんでいく。
 窓から顔を出すカサンドラとベンジャミンに手を振り、馬車が見えなくなるまでマリーはずっと手を振り続けていた。

「やっぱり何回経験しても寂しいですね」
「そうだね」

 溢れるほどではないが、じわりと滲む涙を拭うマリーに目を細めながら抱き寄せると頭頂部にキスを落とす。

「僕と結婚して幸せかい?」
「とっても幸せです」
「これからもっと幸せにしていくよ」
「私もです。アーサー様を幸せにしますからね」

 顔を上げたマリーの笑顔に嬉しそうに笑いながら唇を重ねる二人。
 あと一ヶ月もしないうちにクリスマスがやってくる。
 不穏な種を撒き散らす女と共に──
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