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6.聖戦前夜
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鼓膜をかすかに震わす、妙なる調べはモーツァルトか。鼻腔から入り、その芳香で癒やしてくれるのは、ラベンダーか。
ヒーリングミュージックにアロマテラピー。陽の光がふんだんに差し込む大きな窓に、体に一切の負担がかからずくつろげるよう設計されたリラックスソファ。天井は遥か高く、壁も床も家具も、目に優しいアイボリーで統一されている。
周囲の気温と湿度は常に快適な状態で保たれており、室内には埃一つ落ちていない。二百平米はあるだろうこの清潔な部屋には、十名ほどの女たちが集まり、読書や編みものなどを楽しんでいた。年齢や肌の色がそれぞれ異なる彼女たちを、そしてまた別の女たちがかいがいしく世話する。飲みものや食べものを運ぶ世話役たち、こちらの外見は皆、似通っていた。いや――そっくり過ぎるくらいだ。美しく細く若い世話役らは、姉妹なのだろうか。
「今日も、いいお天気……」
そうつぶやくと、稲荷 洋子は、世話役たちの一人が運んできてくれたミントソーダを、一口飲んだ。――今、このように呑気にしている彼女は、実は失踪者なのだが。
三ヶ月ほど前、元の住まいから姿を消した稲荷は、しかし行方不明になった当時とは別人のように、柔和な顔つきになっている。眉間に刻まれていたシワは消え、険のあった目は、昔とは逆に優しげだ。
「あら、動いた!」
腹部に走った刺激に驚き、稲荷は自らのそこを撫でた。見れば彼女の腹は、ふっくらと膨らんでいる。
「うふっ、元気なのね」
隣に座っていた女性が、稲荷に話しかけてくる。その女性もまた、大きな腹をしていた。世話役を除けば、この部屋にいる女たちは皆、妊婦のようだ。
「稲荷さん、何ヶ月でしたっけ?」
「二ヶ月ですの」
妊婦たちは国籍もそれぞれで、当然話す言葉も異なっているのだが、なぜだか会話は成立している。「空間に張り巡らされた魔法のおかげだ」と説明を受けたことがあったが、稲荷には意味がよく分からなかった。
「でも、あと三ヶ月ちょっとで出てきてしまうのね。ちょっと寂しいわ」
稲荷は愛おしげに自分の腹に手をやった。
「そうねー。でもその子を産んだらすぐ、また別の子を宿すのだから、しんみりしている暇はないわ。うふふ」
「そうですよね。それが私たちの――私たちにしかできない、大事なお仕事ですものね!」
「ええ、ええ」
稲荷たちの会話を漏れ聞いたほかの妊婦たちも、ニコニコ笑いながら頷く。
孕んで、産むことを繰り返す。受け取りようによっては人権も尊厳もない立場らしい女たちは、しかしなんの不満も疑問も持っていないようだ。
「オ代ワリは、イカがデスカ?」
空いたグラスを持ち上げ、世話役の一人が稲荷に声を掛ける。
全員同じ顔をした世話役たちは、背丈は百七十cmほど。体に余計な肉がついておらず、顔立ちも中性的だ。見た目では性別が分からないので、「女だ」という彼女たちの自己申告を信じるしかない。
「いえ、もういいわ。――ね、私の子が生まれたら、仲良くしてあげてね」
「ハイ、モチロンです。私タチの大事な妹デスカラ。聖母様」
話す内容と表情、声色が一致していない……。世話役は人形のように美しいが、不気味でもあった。しかし稲荷ら妊婦の世話役を見る目は、慈愛に満ちている。なぜなら世話役全てが、ここにいる妊婦たちが産み落とした子供だからだ。
「聖母……。いつ聞いても、良い響き」
稲荷は恍惚としている。
ここ「天界」の守護者を産む、聖母。それが稲荷たちに与えられた、大切なお役目なのだ。
未熟だった彼女を諭し、導いてくれた美しき講師は、あの日、言った。
『おめでとう、稲荷さん。あなたは見事、最終試験に合格しました。愛だの恋だのといった愚かで邪悪な誘惑に負けず、処女を貫き通した』
そして、ここへ――「天界」へと連れてきてくれた。
稲荷はただの人間より、一歩高いステージに到達したのだ。今となっては、過去の自分はなんと愚かだったのかと、稲荷は反省することしきりである。
「私はもう人を嘲ることなく、そして自分を見下げることもしなくていい。誰とも、なにとも、戦わなくていい……」
安全で安定した世界に、彼女はいるのだ。
「私たちは選ばれたの……」
何百回何千回繰り返した優越感に満ちた台詞を、稲荷はまた口にした。
秋の夜空を、下る者たちがいる。
星が浮かぶ空に溶け込みそうな黒のパンツスーツを纏い、そのうえ彼女は小柄だから、普通ならば宙を浮遊する小さな点にしか見えないだろう。しかしその少女がやけに目立つのは、美しい金色の髪と、その背中で伸びた純白の翼のせいである。
「寒くありませんか?」
頬に当たる風は冷たい。翼ある少女は、その胸に抱え込んだ老婆に、気遣わしげに尋ねた。
――それにしても異様な光景である。非力であるはずの少女が、枯れ木のように痩せ細っているとはいえ一人の老婆を、軽々と持ち上げているのだから。
「……………………」
老婆から返事は返ってこない。少女も分かっていて聞いた。老婆はすっかり耄碌し、もう数ヶ月前から意思疎通ができなくなっているのだ。
待ち合わせの場所は、とある山の中だった。鬱蒼と生えた木々がわずかに拓けた草原に、少女は一台の車を見つけた。黒いワゴンのその脇に立つ人物の手元から、白いもやが浮かぶ。煙草の煙だ。
少女は車の近くに降り立った。
「体に悪いですよ。あなたはともかく、この人の前では吸わないでください」
「そうだね。もちろん吸わない。彼女のためにならないことは、絶対にしないさ」
夜だというのにサングラスをかけた男は、革張りの携帯灰皿に煙草を片づけると、少女の前に車椅子を押し出した。
男との距離が近くなった拍子に、メンソールの香りが漂ってくる。少女は顔をしかめ、「本当にちゃんと禁煙してくださいね」と念を押した。
「それにしても遅かったね」
「すみません。ちょっと立て込んでしまって。このあとも会議があるので、すぐに戻らねばなりません」
男が持参した車椅子に、少女は老婆をそっと座らせてやった。
「感謝する、ガブリエル」
男から礼を言われ、「ガブリエル」と呼ばれた少女は小さく頷いた。
――どういう顔をすればいいのか、分からない。
契約は契約だ。老婆を自分たちの城に招き入れたその手段も、なんらやましいところはない。が――。
この老婆の類まれなる資質に頼り、彼女をまるで家畜のように何度も孕ませ、普通であれば限界を超える数の子供を産ませた。
その事実を思うたび、ガブリエルの胸は痛む。もっともガブリエルが全てを知ったのは、老婆の体力が著しく落ち、彼女の自我が崩壊した後のことだったのだが。
「お任せしていいのですよね……? どうか……」
老婆に残された時間は少ない。せめて永遠の眠りにつくわずかな間だけでも、安寧の時を過ごさせてあげたい。――しかしそんなことを、老婆を苦しめた自分たちが言うのは、あまりに虫のいい話ではないか。
黙ってしまったガブリエルに、男は微笑んだ。
「ああ、安心して欲しい。彼女もきっと君に感謝しているよ。気にかけてくれたことも、喜んでいるだろう。だって君は、彼女の大切な子供じゃないか」
男は車椅子に座ったまま動かない老婆を見下ろし、優しく言った。
「ありがとうございます……」
ガブリエルは自分の髪を縛る、メタリックブラウンのヘアゴムに触れた。長く眩い金髪を二つに分け、頭頂部で結った――いわゆるツインテールは、まだ老婆が若く健在だった頃、幼かったガブリエルに施してくれたものだ。よく似合っているが、仲間からは幼稚な髪型と笑われるこのスタイルを、ガブリエルは変えるつもりはない。――今は老いさらばえた「母」との、大事な思い出なのだから。
そろそろ、帰らなければいけない。今夜は月イチの定例会がある。ガブリエルは車椅子の前に跪くと、老婆の膝の上にある皺だらけの手を握った。
「どうか安らかに……」
「……………………」
老婆のうつろな表情に、変化はない。
「お別れです、お母様……!」
ガブリエルは立ち上がると、大地を蹴った。翼を羽ばたかせ、高くまで上昇したところで、下界を見下ろす。
車椅子に腰掛けた老婆を――ガブリエルの母を、男は後ろから抱き締めていた。
「……!」
胸が、締めつけられる――。
「なんて酷いことを、私たちはしたのだろう……」
愛し合うあの二人を、引き離した――。
お笑いだ。人間たちからは正義の代行者であり、清らかさの象徴だなどともてはやされているのに、自分たちがやっていることはその真逆ではないか。
悪魔たちに「死神」と蔑まされるのも、当然だ。
――どうして、どうして、こうなってしまったのだろう。
しかしもう、戻ることはできない。自分たちは足掻き続けるしかないのだ。
主に創られた、不完全なる完全体――「天使」として。
重たい気持ちを抱えたまま、ガブリエルは住処に帰った。
ヒーリングミュージックにアロマテラピー。陽の光がふんだんに差し込む大きな窓に、体に一切の負担がかからずくつろげるよう設計されたリラックスソファ。天井は遥か高く、壁も床も家具も、目に優しいアイボリーで統一されている。
周囲の気温と湿度は常に快適な状態で保たれており、室内には埃一つ落ちていない。二百平米はあるだろうこの清潔な部屋には、十名ほどの女たちが集まり、読書や編みものなどを楽しんでいた。年齢や肌の色がそれぞれ異なる彼女たちを、そしてまた別の女たちがかいがいしく世話する。飲みものや食べものを運ぶ世話役たち、こちらの外見は皆、似通っていた。いや――そっくり過ぎるくらいだ。美しく細く若い世話役らは、姉妹なのだろうか。
「今日も、いいお天気……」
そうつぶやくと、稲荷 洋子は、世話役たちの一人が運んできてくれたミントソーダを、一口飲んだ。――今、このように呑気にしている彼女は、実は失踪者なのだが。
三ヶ月ほど前、元の住まいから姿を消した稲荷は、しかし行方不明になった当時とは別人のように、柔和な顔つきになっている。眉間に刻まれていたシワは消え、険のあった目は、昔とは逆に優しげだ。
「あら、動いた!」
腹部に走った刺激に驚き、稲荷は自らのそこを撫でた。見れば彼女の腹は、ふっくらと膨らんでいる。
「うふっ、元気なのね」
隣に座っていた女性が、稲荷に話しかけてくる。その女性もまた、大きな腹をしていた。世話役を除けば、この部屋にいる女たちは皆、妊婦のようだ。
「稲荷さん、何ヶ月でしたっけ?」
「二ヶ月ですの」
妊婦たちは国籍もそれぞれで、当然話す言葉も異なっているのだが、なぜだか会話は成立している。「空間に張り巡らされた魔法のおかげだ」と説明を受けたことがあったが、稲荷には意味がよく分からなかった。
「でも、あと三ヶ月ちょっとで出てきてしまうのね。ちょっと寂しいわ」
稲荷は愛おしげに自分の腹に手をやった。
「そうねー。でもその子を産んだらすぐ、また別の子を宿すのだから、しんみりしている暇はないわ。うふふ」
「そうですよね。それが私たちの――私たちにしかできない、大事なお仕事ですものね!」
「ええ、ええ」
稲荷たちの会話を漏れ聞いたほかの妊婦たちも、ニコニコ笑いながら頷く。
孕んで、産むことを繰り返す。受け取りようによっては人権も尊厳もない立場らしい女たちは、しかしなんの不満も疑問も持っていないようだ。
「オ代ワリは、イカがデスカ?」
空いたグラスを持ち上げ、世話役の一人が稲荷に声を掛ける。
全員同じ顔をした世話役たちは、背丈は百七十cmほど。体に余計な肉がついておらず、顔立ちも中性的だ。見た目では性別が分からないので、「女だ」という彼女たちの自己申告を信じるしかない。
「いえ、もういいわ。――ね、私の子が生まれたら、仲良くしてあげてね」
「ハイ、モチロンです。私タチの大事な妹デスカラ。聖母様」
話す内容と表情、声色が一致していない……。世話役は人形のように美しいが、不気味でもあった。しかし稲荷ら妊婦の世話役を見る目は、慈愛に満ちている。なぜなら世話役全てが、ここにいる妊婦たちが産み落とした子供だからだ。
「聖母……。いつ聞いても、良い響き」
稲荷は恍惚としている。
ここ「天界」の守護者を産む、聖母。それが稲荷たちに与えられた、大切なお役目なのだ。
未熟だった彼女を諭し、導いてくれた美しき講師は、あの日、言った。
『おめでとう、稲荷さん。あなたは見事、最終試験に合格しました。愛だの恋だのといった愚かで邪悪な誘惑に負けず、処女を貫き通した』
そして、ここへ――「天界」へと連れてきてくれた。
稲荷はただの人間より、一歩高いステージに到達したのだ。今となっては、過去の自分はなんと愚かだったのかと、稲荷は反省することしきりである。
「私はもう人を嘲ることなく、そして自分を見下げることもしなくていい。誰とも、なにとも、戦わなくていい……」
安全で安定した世界に、彼女はいるのだ。
「私たちは選ばれたの……」
何百回何千回繰り返した優越感に満ちた台詞を、稲荷はまた口にした。
秋の夜空を、下る者たちがいる。
星が浮かぶ空に溶け込みそうな黒のパンツスーツを纏い、そのうえ彼女は小柄だから、普通ならば宙を浮遊する小さな点にしか見えないだろう。しかしその少女がやけに目立つのは、美しい金色の髪と、その背中で伸びた純白の翼のせいである。
「寒くありませんか?」
頬に当たる風は冷たい。翼ある少女は、その胸に抱え込んだ老婆に、気遣わしげに尋ねた。
――それにしても異様な光景である。非力であるはずの少女が、枯れ木のように痩せ細っているとはいえ一人の老婆を、軽々と持ち上げているのだから。
「……………………」
老婆から返事は返ってこない。少女も分かっていて聞いた。老婆はすっかり耄碌し、もう数ヶ月前から意思疎通ができなくなっているのだ。
待ち合わせの場所は、とある山の中だった。鬱蒼と生えた木々がわずかに拓けた草原に、少女は一台の車を見つけた。黒いワゴンのその脇に立つ人物の手元から、白いもやが浮かぶ。煙草の煙だ。
少女は車の近くに降り立った。
「体に悪いですよ。あなたはともかく、この人の前では吸わないでください」
「そうだね。もちろん吸わない。彼女のためにならないことは、絶対にしないさ」
夜だというのにサングラスをかけた男は、革張りの携帯灰皿に煙草を片づけると、少女の前に車椅子を押し出した。
男との距離が近くなった拍子に、メンソールの香りが漂ってくる。少女は顔をしかめ、「本当にちゃんと禁煙してくださいね」と念を押した。
「それにしても遅かったね」
「すみません。ちょっと立て込んでしまって。このあとも会議があるので、すぐに戻らねばなりません」
男が持参した車椅子に、少女は老婆をそっと座らせてやった。
「感謝する、ガブリエル」
男から礼を言われ、「ガブリエル」と呼ばれた少女は小さく頷いた。
――どういう顔をすればいいのか、分からない。
契約は契約だ。老婆を自分たちの城に招き入れたその手段も、なんらやましいところはない。が――。
この老婆の類まれなる資質に頼り、彼女をまるで家畜のように何度も孕ませ、普通であれば限界を超える数の子供を産ませた。
その事実を思うたび、ガブリエルの胸は痛む。もっともガブリエルが全てを知ったのは、老婆の体力が著しく落ち、彼女の自我が崩壊した後のことだったのだが。
「お任せしていいのですよね……? どうか……」
老婆に残された時間は少ない。せめて永遠の眠りにつくわずかな間だけでも、安寧の時を過ごさせてあげたい。――しかしそんなことを、老婆を苦しめた自分たちが言うのは、あまりに虫のいい話ではないか。
黙ってしまったガブリエルに、男は微笑んだ。
「ああ、安心して欲しい。彼女もきっと君に感謝しているよ。気にかけてくれたことも、喜んでいるだろう。だって君は、彼女の大切な子供じゃないか」
男は車椅子に座ったまま動かない老婆を見下ろし、優しく言った。
「ありがとうございます……」
ガブリエルは自分の髪を縛る、メタリックブラウンのヘアゴムに触れた。長く眩い金髪を二つに分け、頭頂部で結った――いわゆるツインテールは、まだ老婆が若く健在だった頃、幼かったガブリエルに施してくれたものだ。よく似合っているが、仲間からは幼稚な髪型と笑われるこのスタイルを、ガブリエルは変えるつもりはない。――今は老いさらばえた「母」との、大事な思い出なのだから。
そろそろ、帰らなければいけない。今夜は月イチの定例会がある。ガブリエルは車椅子の前に跪くと、老婆の膝の上にある皺だらけの手を握った。
「どうか安らかに……」
「……………………」
老婆のうつろな表情に、変化はない。
「お別れです、お母様……!」
ガブリエルは立ち上がると、大地を蹴った。翼を羽ばたかせ、高くまで上昇したところで、下界を見下ろす。
車椅子に腰掛けた老婆を――ガブリエルの母を、男は後ろから抱き締めていた。
「……!」
胸が、締めつけられる――。
「なんて酷いことを、私たちはしたのだろう……」
愛し合うあの二人を、引き離した――。
お笑いだ。人間たちからは正義の代行者であり、清らかさの象徴だなどともてはやされているのに、自分たちがやっていることはその真逆ではないか。
悪魔たちに「死神」と蔑まされるのも、当然だ。
――どうして、どうして、こうなってしまったのだろう。
しかしもう、戻ることはできない。自分たちは足掻き続けるしかないのだ。
主に創られた、不完全なる完全体――「天使」として。
重たい気持ちを抱えたまま、ガブリエルは住処に帰った。
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