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春の宴の後に6

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 『基本的に旅をしておるが、故郷に帰る時もある。ここからは、ほんの少し遠いが、来ると良い。もてなしてやろう。』



 『我は、故郷では、ちょっとした有名人でな。モテモテというやつよのぉ。』


 ああ、そうだったのか、黎の故郷は、この華春なのか。先生も「帰って来ている」と言っていたではないか。そして、有名人であるということは、この街の人に聞けば、すぐに所在はわかるのだろう。

 案内板の前から、周囲を見渡す。店の前に立っている人に聞けば、地の利があるだろう。とりあえず、人があるまるであろう場所を目指す。陽が落ち、街に煌々と明かりが灯り始めた。



 私が到着した繁華街は、とにかく酒場が集まっていた場所だった。目星をつけた場所に向かっているうちに、人が向かう場所に足が向いていた。黎に会うのは、明日にして、まず宿を探さねばならない時間にもなっていた。慣れない場所での時間は、いつも以上に過ぎるのが早い。行き当たりばったりの計画だったのが悪かった。同時進行で、情報を仕入れていこう、そう思い適当に店の前に立っていた若い男に声をかける。



 「すみません。この辺で、黎という人物がどこにいるかご存知じゃないですか。」



 「黎?それって、奇人のことか。今日は、見てないねぇ。まだあの館にいるだろうよ、いつも通り。それよりおねぇさん、ここで飲んでいってよ。それより、働き口とか店探してる。って、その顔じゃあ、店を選ぶだろうね。」



 初対面でそんな言葉を掛けられ、顔が熱くなる。この男をまじまじと見るに、おそらく酔っている。焦っていたとはいえ、聞く相手を大きく見誤ったと思う。普段の私ならきっと嫌味の一言、二言、いや、それどころでは済まないほどの言葉を相手に送っていただろうが、実に耐えたと思う。男に愛想笑いをし、すぐさまその場を去る。店の客引きが、寄って、相手に気を悪くさせてどうするのだろう、程度が知れる。口に出さなかった分、私のもやもやとした感情が胸を覆う。柳の下にあった長椅子に腰をかける。朝から何も口にしていなかった。食欲がなかったが、やっと目的地が見えたところで、急に空腹が襲う。しなければならないことが多いが、思考が追い付かない。こんな時に桃もいれば、お互いに分担し、効率よく進めて行くことができただろうにと考えるが、今そんなことを思案したところで全くの無駄だ。今は、とにかく動かなければどうにもならない。そう思い、重い腰をあげようとしたところに、懐かしい記憶が蘇る香が鼻をかすめる。
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