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第01章――飛翔延髄編

Phase 91:疑心の目覚め

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《W1700マスク》第二次南北戦争時に北軍で広く使われたガスマスク。各素材にSm由来のものが使用され、Sm製品の初期を飾るものでもある。当時はSm技術が普及し始めたばかりであり、そこから製造された製品に対する信頼性を疑う論調も少なくなかったため、物資不足の代替品ほどの評価しかなかった。しかし、予想を上回る効果と素材の耐久性と生産コストが認められ、終戦後は中央政権軍に正式採用されるに至り、今でも払下げ品が出回っている。











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『双方の作戦の折衷を図りたい。それと、ソーニャの法的立場も明確にしないとな。だがその前に聞くが、あなたは……』

「逃げねえよ」

『……こちらが用意できる最終手段では、関係各所への許可と賛同を取り付けることを前提とした爆破で機体を破壊し、重力牽引で人のいない場所に落とす案もあるのだが?」

「だからおっさんが子供を差し置いて逃げても大丈夫、って言いたいのか? 本気で言ってないよな?」

『子供と一緒に逃げる、というのはどうだ?」

「そりゃソーニャと直接会ってないから言えるんだ」

『だが、爆破自体は決して非現実的な作戦ではない。最終局面に至れば実行に移されるだろう』

「それの準備にどれくらい時間が必要だ?」

『同意と許可をもらうのに一両日かかると見越している』

「了解……冗談として受け取って……。ナスと俺たちが交代で入ることを提案しないあたり、そっちは難しいのか?」

『ああ、ナスに搭載した受信機と我々の設備は、屋外でSmや対外機体にアプローチすることを念頭に置いている。だからナス自体が屋内に入れば途端に通信量が制限される。勝手に動く機体の中、急速な状況変化に対応するとなると、技術者に負けるだろう。現に我々は君たちのSmに抗うこともできず一機を破壊された』

「それが分かってて、なんでナスを突っ込んだんだ?」

『支援と通信感度の試験のためだった。攻撃されるのは想定外だったのだよ。だからこれ以上、無駄な損耗を増やしたくない。爆弾を抱えてない状態では』

「となると、注射で燃料を投入する時間稼ぎも、任せられないか……」

 それを肯定するつもりか、それとも排斥のつもりか、機内が歪んだ音を響かせた。操縦席のランプや画面は見慣れた警告を表示し続けるも、機体の異変事態は停滞している。そう願って通話に集中するベンジャミン。

「それと……野暮だとわかってるが……。ソーニャと何を話したんだ? その、申し訳ないが途中から盗み聞ぎしてよ」

 どうしても、我慢できず、質問してしまう。 
 メイは穏やかにそれでいて困ったように笑う。

「大人げなく、覚悟だの責任だのと偉そうな言葉を垂れただけだ。それで言い包められると高をくくったら、とんだカウンターを食らったよ」

 ベンジャミンは頷き、相手が悪かったな、と言って振り向く。
 話しかけようとした相手はすでに鞄から離れ、人型Smの足元で容器を並べている。
 懊悩に顔をゆがめるベンジャミンはヘッドフォンのマイクに告げた。

「本当に申し訳ないな。頼みの綱とはいえ子供を巻き込んで。あんたらに迷惑をかける……」

「……子供はもちろん民間人を巻き込むのは不本意だ。けど、こころざしのある仲間はどんな苦境でも得難い。ならば手を貸してもらうし、こちらも手を貸そう。そして、もしもの時は必ず救出する」

 どいつもこいつも頼もしいな、とベンジャミンは窓の向こうや後ろにいた少女に目を配る。
 見られているとも知らず、信じられていることも念頭にないソーニャは、スロウスの膝を掴んだ。

「お前を使ってお父さんを殺したやつがいる。変な薬を使って今まで働いていたSmを台無しにしたやつがいる」
 
 ――そしてソーニャ、お前もまたソイツらを、物言わぬ存在を意のままに使って自分の目的を達成しようとしてるんだぞ?

 胸に響く声は、諭すにしては冷淡で高圧な印象を与え、そして間違いなくリックの声をしていた。
 よく知る厳しくも優しい心根が隠せない老人とは乖離かいりした口ぶりに、恐ろしさでソーニャの心臓が委縮する。

 ――お前がしようとしていることは、お前の父を殺したヤツや今回の事件の犯人共と同じじゃないのか? 自分の勝手を押し通すために力を振るう。そのことにお前は何も感じないのか? 

 自分が作った幻想の声が近づいてくる。

 ――今だけは正しいと信じられるかもしれない。だが、この後、お前の行いが失敗したとき、お前は多くの犠牲を生むだろう。その時に、お前は奴らと違うといえるのか? いやむしろ、資格を持った正義のために働く人々を巻き込んだ分、もっと悪辣あくらつじゃないのか?

 さいなまれるソーニャ。痛みが表皮を撫で、寒気に骨が凍てつき。血管を苛烈な熱が流れる。呼吸が重くて辛くなる。

 ――身を引くべきなんじゃないのか? お前が手を出さなくても、もっと経験と力のある大人のほうがうまくできるんじゃないのか? むしろお前が手を出すことで、みんなを危険に曝すことになると思わないのか? 

 勇気をくれた声が今では自分を苛む。いやリックの声を借りて誘うのだ自分自身が、本性が、楽なほうへと、責任を放棄する、ある意味で正解といえる逃げ道に。言葉巧みに引っ張り込もうとしている。
 求める理想とあり得る現実の天秤に体が傾き、虚無の口に真っ逆さまに落ちていく気がした。そうなれば後はうずくまってすべてから目を逸らして、ことが終わるのを待つのだろうか。
 まぶたの裏には、すでに暗い世界が手招きしている。
 強く拳を握りしめているのは、そうしないと、明言するなら恐怖そのものに手を取られると思ったからだ。
 その瞬間、握りしめた手から動きが伝わる。
 目を開けて、自分がスロウスのズボンを握っていたことを理解した。
 骨を張り付けた大きな手が頬に迫る。ソーニャはとっさに一歩引く。
 見上げると、スロウスが屈んで手を差し伸べていた。
 白骨化した顎を頭蓋につなぎ留める剥き出しの筋繊維。えぐれた頭部を覆う血のような組織。死を連想する醜い顔をソーニャは睨む。

「逃げねえよ」

 断言する彼女の後ろから呼び声がした。
 振り返ったソーニャに、ベンジャミンが手招きする。
 皆がヘッドフォンを共有したところで、メイが告げた

「それでは作戦の最終確認だ。まず、ソーニャがスロウスとともに機内の肉を切削し、深部を暴く」

 ベンジャミンは手帳にざっくりと機体の全体像を書き。
 ソーニャは、そっちで腹を切るのは無理なんだね? と最後に聞く。

『ああ、下腹部になった部分は羽毛に覆われているものの、わずかに腹腔の痕跡はうかがえる。だが、Smの骨格に置換しており、構造は予想がつくものの、硬い組織や金属組成によってX線では解明できず、動いているので超音波検査もうまくいっていない。加えて痛覚があるとなると……。総合的に判断して、内部からの働きかけのほうが成功の可能性は高い」

 アレサンドロが。 

「なんだったら、そっちのナスを機内に入れられないか? そっちが作業すれば二人だって逃げられるんじゃ」

『機内に入った瞬間、通信機能がどれほど遮られるかわからない。単純な映像のモニタリングだけなら可能だろうが、作業となると、状況判断に必要な五感も低減し、誤った認識と間違った処置などで機体に悪影響が出る恐れがある』

「あと、ナスが壊れて中身が出たら、それに含まれる化学物質のせいで、Sm組織が変な反応を引き起こしたりする可能性があるしね」

 少女の捕捉にグライアは。

『そうだな。無論、我々の機体は不法な投薬などはしていないが。すでにそちらは一機、異種のSmを積んでいるのだ。これ以上汚染のリスクは避けるべきだし、それに現状、外での活動を継続したほうがナスは最大のパフォーマンスを発揮できる。中に入るくらいなら、外から穿孔を始めるほうが無難だ』

 どうやら指摘されたらしいソーニャは振るった武器を奪われて反撃された心地となり、細めた目を逸らす。その視線の先にあったベンジャミンの手中のメモには、大雑把に描いたミニッツグラウスの概要が記されていた。
 彼は言った。

「ならナスには、外からのアプローチと観察を頼む。ただ、Smの体内に入っていくのは危険な行為だ。部位によっては毒性が高い場合もある。それは知ってるだろうソーニャ」

「もちろん。だから、ちゃんと防護服を装備します」

 そう言ってソーニャは鞄から予め取り出していた服装を掲げる。

「よろしい。ゴミフォアグラのように廃棄腫瘍として発達した臓器もあるから。スロウスの監督は俺に任せて、ソーニャは俺の後ろで俺の出す情報をもとにスロウスに指示を……」

 ベンジャミンは少女を探して隣を見るが、求めた姿がいないので探し回って振り返る。
 皆の注目を集めたスロウスが、カラフルなシャワーカーテンを降ろすと、中から防護服に身を包んだソーニャが現れた。
 注目を奪った少女は、防護服の目視できる範囲を隅々まで確認し、両手を挙げてその場で回って見せる。

「ねえ、服にほつれとかないよね? どお?」

「あ、うん。ほつれも穴も見当たらないぞ。大丈夫だ」

 OK! と元気に言ってソーニャは無線機のイヤホンを耳に押し入れ、頭をフードに包み、スロウスから受け取った防毒マスクも額にセットする。

「行くぞスロウス!」

 進みだすソーニャが平手で催促すると、スロウスも随伴する。
 Smの手に握られた鉈はよく研がれている。そして少女もまた大型のメスを装備して、鏡のような刃で光を跳ね返す。

「焼き潰しは難しいし、燃料脂肪も怖いから、やっぱりヘルジーボで細胞の再生を阻害するぜ。えへっへ」

 と彼女はガンスプレーを見せびらかし、振り返った。
 座席では親子と整備士がガスマスクを装着する。
 犯人二人も布製ではあるがちゃんとフィルターのついたマスクをベンジャミンにつけてもらった。
 準備はいい? と少女が聞けば、親子がOKと答える。
 それじゃあスロウスいけ、とメスを標的へ指示するソーニャもマスクを顔に装着する。機内を占領する肉に一刀が入る。
 ベンジャミンが後ろから言う。

「ソーニャ、肉はできるだけ削ぎ落さないように頼めるか?」

 鉈で肉を切開するスロウスを監督していたソーニャ。

「わかってる。この肉はただの肉じゃない。脂肪であってミニッツグラウスの燃料なんでしょ。これを下手に切り落としたら栄養不足で……」

 タイムリミットが早まる、とベンジャミンが付け加えた。
 ソーニャはいったんスロウスを止めて、自分が小さく切った脂肪をドアのように船尾のほうへめくった。それを文字通り拡大解釈して、スロウスは大きくコの字に壁面を切り裂く。








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