ただΩというだけで。

さほり

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春の足音

18.

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「うわっ、律、寝ちゃってんじゃん」

  戻って来た津田が部屋の入り口で声を上げ、女性たちに一斉に「しぃーーっ!」と諌められた。
  乾が目を向けると、律は福本に背中をトントンされながら胸に顔を埋めてうっとりと目を閉じている。普段の就寝時間よりは早いが、緊張が弛んだ上に満腹になり、百戦錬磨のワーキングマザーの温かい腕に抱かれれば眠くなるのは必定だ。

「ほんとに可愛いなぁ。このまま連れて帰りたくなっちゃう」

  律を抱いた福本が、愛しげに腕の中の幼児を覗き込む。津田は戸口に立ったまま苦笑した。

「夜泣きに辟易しても返品不可ですけど、いいですか」
「ダメですよ」

  津田の軽口にそう返したのは、乾だ。部下の視線が集まり、津田も意外そうな顔を向ける。乾は後ろ斜め45度から律のぷっくりした頬を見つめ、目を細めた。

「うちの子ですから」


  津田の送別会は、夜8時過ぎにお開きとなった。金曜日の夜なので二次会に流れたグループもあったようだが、乾と津田はそのまま家路に着いた。
  津田にとっては数年ぶりの飲み会のはずだ。もしも彼が羽目を外して飲みすぎても大丈夫なように、今日の乾は自分の酒量を抑えていた。スーツが汚れるからという津田の制止を無視し、眠ったままの律を抱えた乾は、ほろ酔いの津田と並んでいつもの電車に揺られた。

  駅前から続く桜並木をゆっくり歩く。乾はふと、津田がずっと斜め上を向いているのに気がついた。視線を追うと、まだ固い花のつぼみが街灯に照らされている。

「今年は来月頭ぐらいらしいですよ」

  ニュースで聞いた開花時期を伝えると、津田は
「やっぱ桜かぁ」
  と呟いた。

「部屋からも見える?」

  そう聞かれて記憶を辿るが、覚えがない。窓の下にある川沿いの道にも桜並木は続いているはずだが、それと意識して見たことがなかった。


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