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蒼き櫻の満開の下

2・病院に行く1

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「……っ!」
 由真は布団を跳ね上げるようにして飛び起きた。首筋を嫌な汗が伝っていく。寧々と花見に行って、アズールに触れたあの日から嫌な夢を見るようになった。アズールが見せた景色の中で死んだのは或果の母親だった。夢ではそれが或果に入れ替わっている。所詮夢だとわかっていてもそれはあまりに鮮明で、夢の後は決まって眠れなくなる。由真は溜息を吐いて、体を丸めながら目を閉じた。眠れなくても寝ているフリをするだけで体をある程度は休ませられる。かつて寧々に教えられた通りに無理に体を休めてはいるけれど、最近寝不足になっているのは事実だった。
歩月ふづきのところに行ってみるか……」
 枕元の携帯を引き寄せて、ブックマークに登録しているサイトを呼び出す。もう日付が変わって今日の夜の最後の時間が空いていたのでそこに予約を入れた。歩月に対処できるものかどうかはわからないけれど、相談してみる価値はある。由真は近くにあったメンダコのぬいぐるみを引き寄せて再び目を閉じた。朝までまだ時間はある。それまではせめて眠っていたい。本当は体調は万全にしておかなければならないのだ。今日、何かが起きないとは限らないのだから。



「嫌いでも放っておいてくれた方が暴走の危険性もないのに、なんで殴ったりするんやろ」
 その日は何もないまま時間が過ぎていって、喫茶店の仕事だけで終わるかと思った閉店間際に通報が入った。無能力者ノーマの集団による能力者ブルームへの暴行。よくある話で、由真たちと悠子が駆けつけていった結果、戦闘になることもなく逃げ出そうとしたのでそのまま傷害罪の現行犯で捕まえた。それだけなら、残念ながら良くある事件だ。けれど星音のバイクの後ろに乗りながら、由真が考えているのは全く別のことだった。
「由真さん?」
「……あの子、アズールを使ってた」
 主に出回っているのはカラーギャングを中心とした、いわゆる不良の若者たち。けれど今回の被害者は全くそういうところとの関わりがないようだった。被害者である少年を保護した悠子にはそれを教えておいたし、まだ侵蝕がほとんど起きていなかったアズールの根は取り除いた。けれど嫌な感覚がまだ体に残っている。
「相当出回ってるみたいやな、あれ。私も学校で噂を聞きましたけど」
「あんなん使って何がいいのかわからないけど……触れるたびに最悪の気分になる」
「それって、正規の触れ方じゃないからバッドトリップ起こしてるんやない?」
「寧々にも言われた。だからなるべく触れないでって」
「……いや思いっきり触れとるやん」
 軽度だから放っておくということができるものではなかった。一度摂取したらあの根は普通に消すことはできない。再びの摂取なしに放置していたとしても根は広がり、最後に種の方が乗っ取られる。しかも寧々の調査によると、根が成長する過程でどうしてもまたあの薬が欲しくなるような物質が出るらしく、一度でやめられる人はほとんどいないという。
「仕事は仕事やけど、見ず知らずの人間なんやで?」
「でも……私にしか取り除けない」
「それはそうやけど、由真さんが具合悪くなってまでやることやない」
「……死ぬかもしれなくても?」
 今日の少年は軽度だった。おそらく一度しか使っていないのだろう。しかもごく最近の話だ。すぐに何かが起きるというほどでもないというのは事実だった。けれどここで何もしなかったことで、例えば数ヶ月後の未来が変わってしまうのだとしたら――。どれだけ心身を削ったとしても指の隙間から砂が溢れていくように、助けられないものは多くいる。その事実はいつも由真の心に重くのしかかった。
「こんな仕事してるから仕方ないのかもしれへんけど……うちらまだ子供なんやで? 全部背負い込む必要なんてない」
「……じゃあ、見捨てろって言うの?」
「そこまでは言ってへん。でももっと自分のことを気にかけてほしいって言ってるんや」
 星音の言うことは理解できる。自分を大切に思ってくれているのだということも、ここで自らを犠牲にするようなことをしたら星音を傷つけてしまうこともわかってはいた。星音だけではない。寧々をはじめとするアルカイドの他のメンバーや、悠子などの協力者にも同じ思いを抱いている人はいるだろう。けれど、理解はしていても、どうしても自分の命のために他人を見捨ててしまうことへの罪悪感が消えない。
(誰かに大切にしてもらえる資格なんて、私には――)
 本当のことを言ったあとでも、きっとみんな優しいだろう。誰かの秘密を知ってしまったからといってすぐに掌を返すような人たちでないことは由真にももうわかっていた。けれど、由真を見る目が変わってしまう可能性はある。押し殺そうとしても滲み出てしまう冷たさを含んだ視線。それに耐えられないと思うほどには、今の生活を、アルカイドのメンバーと過ごす日常を心地よいものに感じていた。
「『ずっとここにいたい』、か……」
「ん?」
 由真が思わず漏らした呟きは、星音にはしっかり聞こえていたようだ。首を傾げる星音に由真は淡々と答える。
「この前或果が言ってた。……まあ、あんな家帰らなくていいと思うけどね」
 いきなり話が変わったことを変に思われてしまっただろうか。由真は不安になって星音の表情を窺うが、星音の頭はすっかり新しい話題の方に切り替わっているようだった。
(私もずっとここにいたいよ、或果……)
 いずれ全てを話さなければならないときは来てしまうだろう。けれどそのときが永遠に来なければいいのにと思ってしまう。由真は星音の言葉に二、三言返事をして、星音のバイクの後ろに跨った。
「真っ直ぐ店に戻ればいいですか?」
「もう閉店してる時間だし……このまま歩月のところ直行しようかな」
「歩月?」
「能力者を専門に診る医者。かかりつけ医ってやつ」
「医者って……やっぱり調子悪いんやん。ナビ入れるんで病院の名前教えてください」
「濱野クリニックってところ」
 星音は携帯のナビに目的地をセットして、バイクのハンドルのホルダーに携帯を挿す。場所は喫茶店からそれほど離れてはいない。由真は寧々に電話で病院に直行することを伝えてから、星音にバイクを走らせるように言った。
「でも由真さんが病院自分から行くとか意外やな」
「病院は確かにあんま好きじゃないけど……歩月のとこだから」
「その歩月? って先生どんな人なん?」
 由真は風を浴びて少し目を細めた。歩月とはもう長い付き合いだ。アルカイドで働き始める少し前からずっと由真のことを診ている。
「優しいんだけどバリバリ働いてて、でもたまに変なスタンプとか送ってくる人……あとすごい美人」
「由真さんに美人って言われる人、めちゃくちゃ美人やん……」
「そうなの?」
「由真さん、鏡って見たことあります?」
 星音の発言の意図が掴めず、由真は首を傾げた。星音はそれに気付いて、少し笑ってから話題を切り替えた。
「医者かぁ……ここ5年くらい花粉症からのアレルギー性結膜炎で眼科行ったくらいやな。健康が最大の長所やから……」
「元気なのはいいことだよ。でも、なんか気になるところあるなら歩月に見てもらう? 前に星音のこと話したら『会ってみたい』って言われたし……」
「それなら私も行こうかな。テスト終わって暇やし」
「そういえばテストがあるって言ってたね。どうだったの?」
「私に勉強のことは聞かんといてください……あ、でもカナエの方がひどかった」
「カナエは珍回答ばっかりでしょ確か……」
 一度、寧々がカナエに勉強を教えようとしているところを見たことがあるが、元々のテストの珍回答の嵐に寧々が笑い死にしそうになって、その後どうなったのかは知らない。そして由真も人のことをとやかく言えない成績であることは自覚していた。勉強は嫌いなのだ。
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