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第5章 触手
第5話~羽化~
しおりを挟む膝の上に置かれたファッション雑誌に目もくれず、叶子は鏡の中に映ったしかめっ面をした自分をただじっと見つめていた。
やっと肩まで生え揃った髪。それがこの美容師の女性によってパラパラと切り落とされていく。多分、彼は「僕はどんな君でも好きだよ」と言ってくれるだろう。けれど、今までの彼の仕草を思い起こすと、女性の髪は長い方が好みなんだろうと聞かなくてもわかった。
彼の大きな瞳に見つめられながら、黒くて長い髪を手の甲でスッと撫で始める。一度視線を外し、そのまましばらく自分の手の動きにあわせて、滑りの良い髪を目を細めながら見つめている。それを幾度か繰り返すと、男性にしては細くて綺麗な手が叶子のこめかみを掠め、スッと耳の上の髪を梳いていた。
ジャックの一連の動作を目で追っていると、ふと、視線がぶつかってしまう。何となく気恥ずかしくて顔を上げられなくなった叶子に、彼は決まって満足したかの要にふっと笑顔を零してそっと抱き締めてくれる。彼女もまた、彼にそうされる事によってより一層深い安心感を得ていた。
――なのに。
こんな事になった原因である鏡に映りこんだ相手は、足を組んで呑気に雑誌を読んでいる。恨めしくて、鏡越しにギロリと睨み付けた。
◇◆◇
「本日はどのような感じになさいますか?」
にっこりと営業スマイルで鏡越しに尋ねてきた美容師に、今日一日必死で練っていた小悪魔計画をかいつまんで伝えた。
「少し髪を巻いて大人っぽくして欲しいんです。カットは無しで」
「わかりました」
美容師がニッコリと頷くと、鏡に映った自分の顔の横からにょきっともう一つの人影が現れた。
「ダメダメ! 巻き髪なんてユイの真似のつもり? カナちゃんには似合わないよ。第一、歳が違い過ぎる。」
あろうことか、勝手に着いてきた健人にバッサリと切り捨てられた。
叶子は明らかにむっとした表情に変わり、人前だと言うのも忘れて声を荒げた。
「っな!? 何よっ! 歳は関係ないでしょ、歳は!」
しかも、似合う似合わない以前に、よりにもよってあの瞬き一つで風を起こすユイの真似をしているのかと言われると、無性に腹が立つ。
もう相手にするもんか。「彼の言うことは気にしないで下さい」と美容師に告げるが、健人は聞いていないのかわざと無視しているなか、つらつらと自分が思うことを語り始めた。
「カナちゃんには、カナちゃんらしい髪型があるんだよ。カナちゃんがあんな髪型したら台無し。まっ、水商売のお姉さんと間違えられてもいいんだったら別だけど?」
さも、わかった風にモノを言うこの男は叶子の反論に耳を貸さず、鏡越しの美容師に次々と注文をつけ始めた。
「あー、全体的に軽く鋤いてください。で、顎のラインで揃えて。……そうだ、ここってメイクもしてくれるんですよね? メイクもお願いします。清潔な感じで仕上げてください。あ、リップはオレンジ系で。それ以外はお任せしますから」
「かしこまりました」
美容師はにっこりと笑顔で微笑むと一旦その場を離れ、なにやら準備を始めだした。
「っ!? 切る!? って、な、な……!」
「何であんたが勝手に!」と言い切る前に、健人はさっさと後方の待合席に戻っていった。
「どうぞこちらへ」
「あ、は、はい」
シャンプー台に連れて行かれた後、カット台へと再び戻る。やっと肩まで伸びたというのに、何故に切らなきゃならないのだろう。
「あっあああ、あのっ!」
首にケープを巻き、ブロック分けをしてハサミを手にした瞬間思い切って声をかけたが、準備を全部終えてから変更の申し出をするのが心苦しくて、思わずどもってしまった。
「はい?」
「きっきききき、切るの……本当はい、い、い、嫌なんです」
ムッとされたらどうしようと上目遣いで鏡越しの美容師を覗き込むと、一瞬ポカーンとした顔をしてすぐにニコッとまた穏やかな顔になった。
「あら? そうでしたか。伸ばす予定で?」
「は、はい」
「では、一応彼氏に伝えておきますか?」
「かっ!? 彼氏じゃないです! いいんです! 承認なんて取らなくて!!」
「あはは、そうでしたか」
手にした鋏を一旦下ろし、彼女の髪を指で掻き分けると名残惜しそうにブロック分けをしたピンを一つ外した。
「でも、彼の言った通り、顎のラインで揃えるのってお客様に良くお似合いじゃないかと私も思いますよ?」
「え? 本当ですか?」
切りたくないといったものの、プロにそう言われては気持ちが揺らぐ。叶子が意外な反応を見せたことで、もう一つのピンをとろうとしていた美容師の手がピタリと止まった。
「はい。お客様の感じだと顎のラインで揃えても子供っぽくはならないと思います。彼の言われた通り、巻き髪だと逆効果になるかも知れません」
眉尻を少し下げ、言いにくそうに話し出した美容師の顔を見ると、面倒だからと言って嘘をついている訳ではなさそうだ。健人に言われるならまだしもプロにそう言われると、つい考え直してしまう。その美容師は焦らせることなく、優柔不断な叶子をそのまま手を止めて待っていた。
「う、ううう、じゃあ……やっぱりお願いします」
「はい。かしこまりました。任せてください」
ニッコリと微笑むと、再び鋏を手にした。
◇◆◇
「はい、お疲れ様でした。メイクもバッチリです。どうですか?」
得意気に微笑んでいる美容師。実際、鏡に映りこんだ自分は、今まで見たことの無い雰囲気の仕上がりになっていた。何故メイクや髪型が変わるだけでこれ程までに変身出来るのだろうかと思うほど、満足した仕上がりだった。
「あ……ありがとう、ございます」
「ね? 随分感じが変わったんじゃないですか? メイクもそうですが、彼氏さんの言うとおり顎で揃えて正解でしたね」
「かっ、かかか彼氏じゃないです!!」
「あははは! でも、あの方はお客様の事良く見てらっしゃるのでしょうね。そうでないと、これ程的確にお客様の魅力を引き出すことは難しいでしょうから」
「いや……」
チラッと鏡越しで健人に目をやる。健人はまだ雑誌を読みふけっていて、叶子の変身ぶりに気づいていないようだった。
「では早速、彼氏さんにも見てもらいましょうね」
少し悪戯っぽくそう言いながら、美容師は後ろのソファーへ向かった。
「だ、だから違いますって!」
健人が美容師に呼ばれ、雑誌を片付けるとポケットに両手を突っ込みながら近づいてきた。鏡越しでその様子をじっと見ていると、健人の顔が明らかに変わっていく様が何とも新鮮でおもしろい。
「――」
「ち、ちょっと! お世辞の一つでも言わなきゃでしょ。あんたの言う通りにしたんだからね?」
健人が言葉を失っているのが見てとれたので、照れ隠しでぶっきらぼうにそう言い放つ。
「――あ、ごめん。マジ綺麗。……見惚れた」
赤面してギャーギャー言ってる叶子に対し健人は至って冷静
で、瞬きもせずに彼女を真っ正面で直視していた。
例え相手が健人だとしても、言われて嬉しい筈の褒め言葉。いざそれを聞かされるとありえないほどこそばゆく、そのせいか妙に意地を張って可愛くない言葉を言ってしまう。
「な、何よ、その言わされた感!」
こういう時は「あ、ばれた?」とかふざけて言ってくれると、このバクバクうるさい心臓もひきつる口角も、少しは落ち着いてくれるのだけれど、「いや、マジで。連れ回したい」と言われてしまい、叶子はとうとう真っ赤に縮こまってしまった。
店を出て、そのまま駅まで歩き出す。健人は相変わらず叶子の顔をじっと見つめていた。
「あ、あの、今日はその、ありがとね」
ガン見している健人に、視線を向けることが出来なくて落ち着かない。
「いや、こっちこそ。いいもん見せてもらって」
「オレンジのリップなんて私初めてだよ? 絶対似合わないって思ってたもん。でも結構いいねこの色」
「だろ?」
「今度、何かお礼しなきゃね」
「いいよ、んなもん」
お調子者らしからぬ返答に、少し健人を見る目が変わった。見返りを求めない優しさに触れ、健人の心の成長を素直に喜んだ。
「――。……あっ!」
何かを思い出したかのように、左手にした時計をくるりと回す。バッグの中から携帯電話を取り出し着信がなかったかを確認すると、はーっと大きなため息をついた。
小さな手でぎゅっと携帯電話を握り締め、くるりと健人に体を向けた。
「?」
「あ、じゃあ、私そろそろ」
「ああ、そっか」
健人の顔が曇り始める。その表情からして、自分が彼女を綺麗に変身させたのに、彼女はあいつに会いに行くのかと、納得いかない様子が伝わった。
「ん、わかった。――あ、っとカナちゃん、口紅はみ出てる」
「え? 嘘……ぁ」
「見してみ」
ズボンに突っ込んでいた左手を彼女の顎に置き、右手で唇の端をなぞる。ポカンと少し開き気味の唇の隙間から、かわいい2本の前歯が見えていた彼女の唇が真っ直ぐ一文字に結ばれた。健人は眉をしかめ「うまく取れないなぁ」とでも言いたそうだった。徐々に近づき、そのまま彼女のオレンジ色の唇にチュッとリップ音を立てて健人の唇が触れる。ゆっくりと顔が離れると、ポカンと口を開けている叶子を見てぷっと吹き出し、今度は自分の唇をぬぐった。
「はぁっ!?」
事の事態がやっと掴めたのか一気に顔が引きつり、キョロキョロと辺りを見回した。キスされた事に怒り狂うことより、周りの目の方が気になって仕方が無い。慌てている彼女を見て更に健人は吹き出した。
「ぶっ! くくくっ……。おんもしれーなカナちゃん。てか油断し過ぎだろ? マジ単細胞」
「なっ? たっ……単細!?」
「今のは今日のお礼ね。サンキュ! んじゃあまた明日。遅くまで出歩いて、明日の朝の会議遅刻すんなよ?」
動揺している叶子は言葉が上手く出せず口ごもっていると、手をひらひらさせながら健人はさっさとその場を去っていった。
(さ、サイテーー!!!!)
しばらく健人の背中を睨み付けていたが、こんな事をしてる場合じゃないと慌てて携帯電話を握り締めた。
何度も深く息を吸ったり吐いたりして心を落ち着かせ、彼の番号を探す。少し震える手で発信のボタンを押すと、彼の声を待ち侘びた。
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