君と国境を越えて

朱村びすりん

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第一章

助けてくれたのは

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 開いた口が塞がらないとはこのことか。 

 ……なんだよ、この先生。こっちの事情なんて聞かないってか?
 腹立たしいにもほどがある。
 胸中で呆れつつ、ガチ鬼の圧に負けて主張できない俺自身も情けないけどな。
 深い深いため息が漏れた。

 こんな俺の振る舞いが気に入らなかったのか、ガチ鬼は顔を真っ赤にして「なんだ、その態度はっ!」と吠え出す。
 ありえないほどの迫力で、足がすくんだ。

 ああ、もう終わりだ……この先生に目をつけられたら最後。俺の輝かしかったはずの高校生活は、毎日恐怖の色で染められてしまうんだ。
 俺が絶望に陥っている、そんなときだった。

「先生、待ってください」

 背後から、女性の冷静な声がした。俺とガチ鬼の目線が、ほぼ同時に彼女の方へ移る。

「……あれ?」
 
 声の主を確認した瞬間、俺の胸が高鳴った。

 黒くて艶やかなショートボブヘア。深い感情を秘めたような、切なさが紛れているような、それでいてとても綺麗なブラウンの瞳。
 ──風紀委員の生徒の中に紛れて立つ「彼女」の存在を、俺はここにきて初めて認識した。
 驚きのあまり、二度見、どころか三度見してしまう。
 彼女が、目の前に立っていた。以前マニーカフェで、巧みな中国語で俺のことを救ってくれたあの彼女が!

 赤いリボンを首から下げ、ベストを着用していた。チェック柄のスカートは膝より少し上で、足のラインが綺麗に見える。
 まさか、同じ高校に通っているだなんて。
 思いも寄らない展開に、俺は言葉を失う。

 そんな中ガチ鬼は、彼女を睨みつけて大きな口を開くんだ。

「なんだ、玉木! こいつをかばうつもりか? お前も生活指導の対象になりたいのか!」
「なにを仰います? 先生は彼の事情を知らないんですか」

 釈然とした態度で、彼女は怯む様子もなく抗議をはじめた。
 ……ガチ鬼に向かって、よくビビらないな。

 だが、ガチ鬼だって引けを取らず。大声を出し続けた。

「この学校では髪を染めるのは禁止しているんだぞ! お前、それでも風紀委員なのか!」
「先生こそ、そんなんでよく生活指導をやっていますね? 他人の話を全く聞かないのも問題です」
「なんだとっ。どういうことだ!」

 ガチ鬼が威嚇するように騒いでも、彼女は一切表情を変えない。冷静沈着な彼女は、俺の顔をチラッと見てきた。落ち着いた口調で、こう問いかけてくるんだ。

「あなた、イヴァン・ファーマーよね?」
「えっ? そ、そうですけど」

 戸惑いながらも頷いてみせる。

 どうして彼女は俺の名を……?
 もしかして、マニーカフェでネームプレートを見られていたのか。だとしても、ファミリーネームしか記されていないから、フルネームを知られているのは不思議だ。

 疑問符を浮かべる俺をよそに、彼女はもう一度ガチ鬼に身体を向ける。

「彼のこの髪色は自然なものですよ。決して染めたわけではありません」
「……なんだと?」
「イヴァン・ファーマーは入学時に地毛証明書を提出しています。生まれつきのものですから、染めているわけではありません、と。保護者の方のサインもちゃんとされていますよ。風紀委員会と生活指導担当が共有しているファイルに挟んでありますが、先生はもちろんご覧になりましたよね」
「……え」

 今まで凄んでいたガチ鬼の表情が、一変した。口をパクパクさせて、反論をしようとしているのだろうが、言葉が出てこないようだ。
 彼女は更にまくし立てる。

「まさか、確認してないわけないですよね? よければ職員室からファイルを持ってきましょうか。まあ、いち風紀委員である私なんかが知っているのに、指導担当の先生が把握してないことは絶対にありえないはずですので、必要ないとは思いますが」

 なんとも皮肉を込めた言いかただ。ガチ鬼を狼狽えさせるなんて、ただ者じゃない。
 他の風紀委員たちも、アカネも、空いた口が塞がらないと言った様子でやり取りを眺めている。

 張り詰めた空気の中、ガチ鬼は先ほどよりも遙かに声量を落とした。

「そ、そんなものは必要いらん。いや、そうか……君はファーマーくんだったか。一年生の名前と顔がまだ一致していなくてな。わはは」

 渇いた声で誤魔化すように笑うが、ガチ鬼は一切謝罪の言葉を口にしない。
 あーあ……この人、生徒たちに嫌われる先生の典型なんだな、と俺は密かに思った。

 彼女はさりげなく俺にアイコンタクトを送り『もう行っていいわよ』と伝えてくれる。
 彼女に軽く会釈してから、俺はアカネと共にそそくさと下駄箱へ向かった。

 また、助けられてしまった。俺が出した届け出を、彼女はしっかり目を通して、覚えていてくれていたんだ。
 朝のイライラした気持ちがいつの間にか消え去っていた。

「よかったね、イヴァンくん。生活指導なんて受けたくないもんね」

 上履きに替えてから、アカネは俺の顔をぐいっと覗き込んでくる。

「それにしても……あの風紀委員の人と知り合いなの? イヴァンくんの名前、知ってたよね」
「え? ああ……」

 知り合い、か。そうだと答えるのは微妙だな。
 階段の前に移動して、教室がある二階へとのぼっていく。

「彼女、この前俺のバイト先にお客さんとして来店してきたんだよ」
「ふーん? それってただのお客と店員ってだけでしょ。そんなんでよくお互い覚えてるね?」

 アカネは訝しげにそう問いかけてくる。
 まあ、たしかに。普通なら・・・・忘れるものだよな。

「彼女に、助けられたんだよ」
「どういうこと?」
「うちの店さ、海外からのお客さんもけっこう来るんだ。中には丸っきり日本語が通じない人がいて。中国語しか話せないお客さんが来店して俺が対応に困ってるとき、たまたま居合わせた彼女が通訳してくれたんだ」
「……へぇ」

 アカネは低い声で頷く。
 流暢な中国語を話していた彼女の姿を思い浮かべながら、俺はあることに気がついた。

「そういうこともあって、覚えていたわけなんだが……そういえば、俺、彼女の名前を知らないな」

 記憶の中を探ってみるも、俺は彼女に名前を聞いた覚えがない。
 あのときは同じ高校に通っているだなんて、夢にも思わなかった。「せめて、お名前だけでも!」と、どこかで聞いたことのある台詞をあの場で口にしていればよかった。

 俺が胸中で頭を抱える隣で、アカネは急に声を明るくする。

「じゃあ、あの人とは他人なんだね! バイト中に助けてくれた人が、たまたま同じ高校だっただけで」
「まあ、そういうことだな」

 他人……か。否定しようがないが、ちょっと切ない。二度も世話になったというのに、俺は彼女のことをなにひとつ知らないなんて。名前どころか、学年すら分からない。
 彼女の見た目や大人びた雰囲気からして、一年同級生ではないだろう。そもそも風紀委員をやっているということは、二年生以上だ。村高では、二年になってからでないと委員会には入れないから。

 話しているうちに、あっという間に一年の教室に到着した。クラスは一組。俺とアカネは雑談もそこそこに、自分たちの席に各々着いた。
 すでに何人かのクラスメイトが登校していて、雑談したり、授業の準備をしたり、スマートフォンを弄ったりしながら時間を潰していた。

 俺の席は一番前の窓側だ。鞄を机に置き、ふと外の景色を眺めた。ここからは、昇降口の様子がよく見える。
 まだ風紀委員はいるのかと、目が勝手に彼女の姿を探していた。だが、すでに活動時間は終わったらしい。昇降口には風紀委員もいなければ、ガチ鬼もいなくなっていた。

 一年の教室からは、二年生の棟がよく見える。しかし、そこにも彼女の姿は見当たらなかった。

 また校内で彼女に会えるだろうか、と淡い期待を抱く俺がいる。
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