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.12 呪いの解き方
75 予想外の反応
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――沈黙が、長い。重い。痛い。刺さる。
えっ――と、これ、どうなん? どんな反応なん?
じゃっかんうつむきかけた姿勢で凍り付いたまま、額に背中に冷たい汗がにじむのを感じる。あまりの恐怖に泣きそうになる。
どうしよ……礼奈、ドン引いとるんやないか……? 三十路すぎて童貞なんてキモいて思われてたら……もう、触らないでとか言われたら……いや近づかないでとか言われたら……
走馬灯みたいに今までの思い出がよみがえる。俺に告白してきてくれた礼奈。俺の告白を受け止めてくれた礼奈。つき合い始めてからのはにかんだような笑顔。触れ合いを求める潤んだ目。俺に微笑む白無垢姿。青空の下の袴姿。俺を呼ぶ、弾んだ声。
その愛おしさと――これから先、それを失うかも知れん恐怖に、じわりと目の前が歪んだ。
不意に、礼奈が息を吸う音が鼓膜を震わせた。思わず息を止め、死刑宣告を覚悟して顔を上げる。
ようやく見た礼奈の顔は――なんとなく、嬉しそうにも見える。
「じゃあ……栄太兄も、私が、初めてなんだね?」
言葉に次いで浮かんだ、はにかんだような、でも心底嬉しそうな……間違いなく、笑顔で。
ど……どういうこっちゃ? 俺の目が変になったか? 幻想か?
喜んで……はる?
困惑しながらうなずくと、礼奈はまたふふっと笑った。
笑っ……やっぱり、笑ってるな?
「そっか、そうなんだ……そうだったんだ」
礼奈は呟きながら、喜びを抑えきれないというように頬を押さえる。
……え、なんやこの子。
やっぱり……俺が童貞やて聞いて……喜んではるの?
――ほんま天使か?
そんな、相手の童貞喜ぶ女の子なんてこの世にいるんか? いや、もっと若いうちやったらともかく、俺もう三十三やで?
あかん――とにかく嫌われへんかったのわかったら、ほっとしすぎて涙腺が緩む。
礼奈が気づいて、まばたきした。
「やだなぁ、栄太兄、なに泣いてるの?」
「な、泣いてへん……泣いて、へんもん……」
語尾が子どもじみるのは仕方ないやろ。
想像もしてへんかった。こんなん話して、受け止めてもらえるなんて……むしろ、嬉しそうにしはるなんて。
背中を向けて顔を拭く俺の背中を、礼奈の手がなだめるようにたたく。ふふふ、とこほれるような笑いが、母親みたいに柔らかくて、女っちゅうのはどんな年齢でも母性みたいなものがあるんかなぁて、鼻すすりながら妙な感心をする。
不意に、するり、と背中側から、礼奈の手が伸びてきた。腕が俺の腹に絡まって、腰を優しい重みと温もりが包む。
知らず、安堵の吐息が漏れた。
昨晩から縮まらへんかった距離が、ようやくいつものそれに戻ったのが分かった。
――あ、あかん。ほっとしたらまた涙腺が……。
俺よりもふたまわりは小さな手が、華奢な指が、俺の前で組まれてる。力強くは見えないそれは、でも確かに俺を支える大事なもので、こういうとき、俺より遥かに逞しく思える。
「……栄太兄、苦しんでたんだね」
俺の背中に頬を寄せた礼奈がささやく。
柔らかな声がすっと胸に入ってきて、喉元に嗚咽がこみ上げた。
「話しにくいこと、話してくれて、ありがとう。……よかった、話してくれて。栄太兄が……私の知らないところで、ひとりで無理、しなくてよかった」
礼奈の言葉が、心の中にすぅっと落ちてくる。
そうや――俺は、俺の力で乗り越えへんとあかんて、ただそればっかり思うてた。礼奈に話すなんて考えもしてへんかった。
それが余計、プレッシャーになってたのかも知れん。
「栄太兄がひとりで苦しんでるのは、嫌だから」
本心からほっとしたような声に、胸が締め付けられる。
あれだけ傷つけたのに……それでもこの子は、俺の心配をしてくれる。
「礼奈……」
おずおず、腹に回された手に自分の手を重ねて、振り返る。
そこには、天使っちゅうより女神みたいな笑顔があった。
窓から差し込む朝日を受けて、キラキラ輝く……俺の、女神。
「少しずつ、ふたりで一緒に、練習しよ。私も、栄太兄に気持ちよくなってもらえるように、がんばるね」
照れ臭そうなその笑顔が、かわいすぎて苦しい。たまらんでぎゅうと抱きついたら、「うぇ、苦しい」と冗談めかしてうめいて、俺の肩をバシバシ叩いてきた。
「ちょっと、出ちゃうよー。さっき朝ご飯、食べたばっかりなんだから」
その冗談に俺も笑って、腕の力を緩めた。ふと合った目は自然と近づいて、唇が静かに重なる。
その口元から漂う、コーヒーの香り。
「……礼奈、コーヒー飲んだっけ?」
「飲んだよ。栄太兄もいるか聞いたけど、いまいちちゃんと答えてくれなかったじゃない」
わざとらしく唇を尖らせて、礼奈は俺を叱るように人差し指を立てた。
「もう。せっかくの新婚旅行なんだからね。色んなところ、ちゃんと見て、ちゃんと覚えててよ。何年経っても、こういうことがあったねって話せるように。……分かった?」
ビシッとそう言ったあと、礼奈は俺の手をぎゅっと握った。
そして、うつむきがちに、私ね、と口を開く。
「部屋に案内されるとき、奥さまって言われたの……ちゃんと夫婦に見えてるのかなって、すごく嬉しかった」
ぽつり、告白みたいなささやき。胸がいっぱいになって、答えに詰まる。
言葉の代わりに、その身体をぎゅうと抱きしめた。
「礼奈」
「うん」
「好きやで」
めっちゃ好きや。愛してる。言葉じゃ足らんくらい。一緒に溶けてしまいたいくらい。どうやったら伝わるやろ、どう伝えたらええんやろ、分からんくらい、好きや。
腕の中で、礼奈が笑う。
「……私も」
答えて、顔を上げた礼奈と目が合う。視線が重なって、互いを映した瞳をゆっくり閉ざして、唇がもう一度、触れ合う。
ああ……離れたくない。
「……今日、このまま部屋でいちゃいちゃせぇへん?」
「えー。せっかくなんだから、観光しようよ」
俺の言葉に礼奈が笑う。ぱしぱし肩をたたいた手が俺の背中に回って、ぎゅうっと抱きしめ返された。
「栄太兄」
「うん」
「大好きだよ」
何のためらいもない言葉と笑顔が、俺の幸せの塊で、息苦しいくらいに嬉しくて笑う。
「うん。俺もや」
「ふふ。さっき聞いたよ」
「そうやけど……何度言うても足りへんような気がする」
「あはははは」
礼奈の笑う震えが、腕に、胸に伝わって、俺も笑った。
あー、なんやろもう……ほんと単純やな、俺。つい数秒前まで絶望のふちをさ迷っていた気分が、あっという間に夢心地まで戻ってる。
俺が笑うも死ぬも、礼奈の一挙一動次第っちゅうことや。
顔を上げると、視線の先には大きな窓。その先に見える空は青い。うん、よかった。今日もいい天気や――そんなことすら、今の今まで確認する余裕がなかった。
気分は一気に浮き立ってきた。ゆっくり礼奈から離れて、でも名残惜しくて手を繋ぐ。
「礼奈。今日は、どこ行こうな」
「うん、どこ行こうね」
うなずいた礼奈は、からりとしたいつもの笑顔で俺を見上げた。
「でも、栄太兄となら、どこでも楽しいよ」
敵わんなぁ、ほんまに。
そう言う代わりに、柔らかな頬にキスをした。
えっ――と、これ、どうなん? どんな反応なん?
じゃっかんうつむきかけた姿勢で凍り付いたまま、額に背中に冷たい汗がにじむのを感じる。あまりの恐怖に泣きそうになる。
どうしよ……礼奈、ドン引いとるんやないか……? 三十路すぎて童貞なんてキモいて思われてたら……もう、触らないでとか言われたら……いや近づかないでとか言われたら……
走馬灯みたいに今までの思い出がよみがえる。俺に告白してきてくれた礼奈。俺の告白を受け止めてくれた礼奈。つき合い始めてからのはにかんだような笑顔。触れ合いを求める潤んだ目。俺に微笑む白無垢姿。青空の下の袴姿。俺を呼ぶ、弾んだ声。
その愛おしさと――これから先、それを失うかも知れん恐怖に、じわりと目の前が歪んだ。
不意に、礼奈が息を吸う音が鼓膜を震わせた。思わず息を止め、死刑宣告を覚悟して顔を上げる。
ようやく見た礼奈の顔は――なんとなく、嬉しそうにも見える。
「じゃあ……栄太兄も、私が、初めてなんだね?」
言葉に次いで浮かんだ、はにかんだような、でも心底嬉しそうな……間違いなく、笑顔で。
ど……どういうこっちゃ? 俺の目が変になったか? 幻想か?
喜んで……はる?
困惑しながらうなずくと、礼奈はまたふふっと笑った。
笑っ……やっぱり、笑ってるな?
「そっか、そうなんだ……そうだったんだ」
礼奈は呟きながら、喜びを抑えきれないというように頬を押さえる。
……え、なんやこの子。
やっぱり……俺が童貞やて聞いて……喜んではるの?
――ほんま天使か?
そんな、相手の童貞喜ぶ女の子なんてこの世にいるんか? いや、もっと若いうちやったらともかく、俺もう三十三やで?
あかん――とにかく嫌われへんかったのわかったら、ほっとしすぎて涙腺が緩む。
礼奈が気づいて、まばたきした。
「やだなぁ、栄太兄、なに泣いてるの?」
「な、泣いてへん……泣いて、へんもん……」
語尾が子どもじみるのは仕方ないやろ。
想像もしてへんかった。こんなん話して、受け止めてもらえるなんて……むしろ、嬉しそうにしはるなんて。
背中を向けて顔を拭く俺の背中を、礼奈の手がなだめるようにたたく。ふふふ、とこほれるような笑いが、母親みたいに柔らかくて、女っちゅうのはどんな年齢でも母性みたいなものがあるんかなぁて、鼻すすりながら妙な感心をする。
不意に、するり、と背中側から、礼奈の手が伸びてきた。腕が俺の腹に絡まって、腰を優しい重みと温もりが包む。
知らず、安堵の吐息が漏れた。
昨晩から縮まらへんかった距離が、ようやくいつものそれに戻ったのが分かった。
――あ、あかん。ほっとしたらまた涙腺が……。
俺よりもふたまわりは小さな手が、華奢な指が、俺の前で組まれてる。力強くは見えないそれは、でも確かに俺を支える大事なもので、こういうとき、俺より遥かに逞しく思える。
「……栄太兄、苦しんでたんだね」
俺の背中に頬を寄せた礼奈がささやく。
柔らかな声がすっと胸に入ってきて、喉元に嗚咽がこみ上げた。
「話しにくいこと、話してくれて、ありがとう。……よかった、話してくれて。栄太兄が……私の知らないところで、ひとりで無理、しなくてよかった」
礼奈の言葉が、心の中にすぅっと落ちてくる。
そうや――俺は、俺の力で乗り越えへんとあかんて、ただそればっかり思うてた。礼奈に話すなんて考えもしてへんかった。
それが余計、プレッシャーになってたのかも知れん。
「栄太兄がひとりで苦しんでるのは、嫌だから」
本心からほっとしたような声に、胸が締め付けられる。
あれだけ傷つけたのに……それでもこの子は、俺の心配をしてくれる。
「礼奈……」
おずおず、腹に回された手に自分の手を重ねて、振り返る。
そこには、天使っちゅうより女神みたいな笑顔があった。
窓から差し込む朝日を受けて、キラキラ輝く……俺の、女神。
「少しずつ、ふたりで一緒に、練習しよ。私も、栄太兄に気持ちよくなってもらえるように、がんばるね」
照れ臭そうなその笑顔が、かわいすぎて苦しい。たまらんでぎゅうと抱きついたら、「うぇ、苦しい」と冗談めかしてうめいて、俺の肩をバシバシ叩いてきた。
「ちょっと、出ちゃうよー。さっき朝ご飯、食べたばっかりなんだから」
その冗談に俺も笑って、腕の力を緩めた。ふと合った目は自然と近づいて、唇が静かに重なる。
その口元から漂う、コーヒーの香り。
「……礼奈、コーヒー飲んだっけ?」
「飲んだよ。栄太兄もいるか聞いたけど、いまいちちゃんと答えてくれなかったじゃない」
わざとらしく唇を尖らせて、礼奈は俺を叱るように人差し指を立てた。
「もう。せっかくの新婚旅行なんだからね。色んなところ、ちゃんと見て、ちゃんと覚えててよ。何年経っても、こういうことがあったねって話せるように。……分かった?」
ビシッとそう言ったあと、礼奈は俺の手をぎゅっと握った。
そして、うつむきがちに、私ね、と口を開く。
「部屋に案内されるとき、奥さまって言われたの……ちゃんと夫婦に見えてるのかなって、すごく嬉しかった」
ぽつり、告白みたいなささやき。胸がいっぱいになって、答えに詰まる。
言葉の代わりに、その身体をぎゅうと抱きしめた。
「礼奈」
「うん」
「好きやで」
めっちゃ好きや。愛してる。言葉じゃ足らんくらい。一緒に溶けてしまいたいくらい。どうやったら伝わるやろ、どう伝えたらええんやろ、分からんくらい、好きや。
腕の中で、礼奈が笑う。
「……私も」
答えて、顔を上げた礼奈と目が合う。視線が重なって、互いを映した瞳をゆっくり閉ざして、唇がもう一度、触れ合う。
ああ……離れたくない。
「……今日、このまま部屋でいちゃいちゃせぇへん?」
「えー。せっかくなんだから、観光しようよ」
俺の言葉に礼奈が笑う。ぱしぱし肩をたたいた手が俺の背中に回って、ぎゅうっと抱きしめ返された。
「栄太兄」
「うん」
「大好きだよ」
何のためらいもない言葉と笑顔が、俺の幸せの塊で、息苦しいくらいに嬉しくて笑う。
「うん。俺もや」
「ふふ。さっき聞いたよ」
「そうやけど……何度言うても足りへんような気がする」
「あはははは」
礼奈の笑う震えが、腕に、胸に伝わって、俺も笑った。
あー、なんやろもう……ほんと単純やな、俺。つい数秒前まで絶望のふちをさ迷っていた気分が、あっという間に夢心地まで戻ってる。
俺が笑うも死ぬも、礼奈の一挙一動次第っちゅうことや。
顔を上げると、視線の先には大きな窓。その先に見える空は青い。うん、よかった。今日もいい天気や――そんなことすら、今の今まで確認する余裕がなかった。
気分は一気に浮き立ってきた。ゆっくり礼奈から離れて、でも名残惜しくて手を繋ぐ。
「礼奈。今日は、どこ行こうな」
「うん、どこ行こうね」
うなずいた礼奈は、からりとしたいつもの笑顔で俺を見上げた。
「でも、栄太兄となら、どこでも楽しいよ」
敵わんなぁ、ほんまに。
そう言う代わりに、柔らかな頬にキスをした。
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