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荒城の夜半に龍が啼く

クリスの餞別

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「そういえばクリス、最近魔法研究所に通っているんですね。頻繁に姿を見掛けるとビットが言っていました。やりたい研究を見つけたんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど…研究所に通っているのは少し理由があってね」

 そうしてまたクリスは黙り込む。悩ましげな表情で風景のあちこちを見やり、徐に立ち止まる。横を歩くゼータも、つられるようにして歩みを止める。

「まぁいいか。本題を先に済ませちゃおうかな。ゼータ、手を出してよ」
「手?」
「手。渡したい物があるんだ」

 何気なく提供した魔法研究所の話題は、どうやらクリスの本題に触れたようである。言われるがままにゼータは右手を差し出す。物を頂くのだから、当然手のひらが上だ。いくらか間をおいて、クリスの指先がゼータの右手のひらに触れた。握手をするようにして手首を返される。ゼータの心臓はどきりと高鳴る。その光景はまるで御伽話の一コマだ。戦場に向かう騎士が愛しの姫君に愛を誓う。悲しみに暮れる姫君の御手を掲げ、滑らかな手の甲に口付けを落とすのだ。これから起こる出来事に恐れ慄き、ゼータは思わず一歩後退る。しかしクリスは口元に笑みを浮かべたまま、ゼータの手のひらを離さない。
 右手の中指に冷たい感触。何、と呟きゼータは自身の手のひらに視線を落とす。そこにある物は銀色の輪だ。大粒のエメラルドを携えた、美しい銀の指輪。これがクリスの贈り物なのか。しかしそれは、ある意味では口付けよりも解釈に困る贈り物だ。

「…クリス。これは?」
「愛を誓う指輪」
「…えっと」
「というのは冗談でね」

 狼狽えるゼータの耳元に、クリスは唇を寄せる。

「これ、実はね。魔喰蟲が仕込んであるんだ」
「魔喰蟲?」
「そう。宝石の下に魔喰蟲を仕込んだ針が隠れている。試しに宝石を取ってみると良いよ」

 促されるままに、ゼータは指輪にのったエメラルドに指先を掛けた。左右に何度か捻るとエメラルドは銀の輪から外れ、り中からは長さが1㎝ほどの太い針が顔を出す。たかだか1㎝の針とはいえ、刺されるとかなり痛そうだ。

「…本当ですね」
「小さな針だから見えにくいけど、返し針になっているんだ。深く刺されば簡単に抜くことはできない。針は簡単に指輪から外れるようになっているから、敵を刺したら魔喰蟲が魔力を喰い尽くすまで離れて待っていれば良い」

 何だか嫌な記憶を呼び起こされる物言いだ。魔導大学訪問の折、ゼータは好奇心に駆られクリスの研究室を探検し、魔喰蟲の仕込まれた鉄杭に打たれた。返し針の付いた鉄杭を引き抜くときに、痛みに無様な悲鳴を上げたのも良い思い出である。地下研究室の秘密を知ったゼータは、その5日間に渡りクリスに監禁される事となったのだ。指に嵌まる物騒な指輪をしげしげと眺めていたゼータは、ふとある事に思い至る。

「クリス。魔喰蟲はどこから入手したんですか?魔導大学での対魔族武器の研究開発は全て中止になったと聞きましたけど」

 魔喰蟲を利用した武器及びその他の対魔族兵器の開発は、レイバックの密告を受けたアポロの命によりすでに中止となっているはずだ。まさかクリスはドラキス王国の中枢に身を置きながら、密かにロシャ王国と通じ対魔族兵器の開発を続けていたのか。あらぬ想像を巡らせじりじりと後退るゼータに、クリスは不満げに口を尖らせた。

「ちょっと、物騒な事を想像しないでよね。これは僕が魔法研究所で作った物だよ。ロシャ王国との繋がりは一切ない」
「作ったって…んなに簡単に作れる物なんですか?」

 そういえばビットが、最近クリスが研究室に通っていると言っていた。キメラに埋もれたゼータは、打ち込む研究ができたのは良い事だとクリスの前進を喜んだわけだが、まさかこの指輪を作るために研究室に籠っていたのだろうか。

「魔喰蟲自体は自然界に普通に生息する生物なんだよ。魔喰蟲とは研究者が便宜的に呼んでいるだけで、正式な名称は他にある。マッドサイエンティストのゼータには教えられないけどね。死ぬ物狂いで探しに行きそうだし」
「失礼ですね」
「まぁまぁ。だから指輪の中にいる魔喰蟲は僕が個人的に捕まえて、見よう見まねで培養した奴ってわけ。本当はレイさんの分も用意したかったんだけどね。設備が十分じゃないから培養が思うようにいかなかったんだ」

 クリスの説明を聞きながら、ゼータはエメラルドを指輪の定位置に嵌める。少し目立つが、装飾品として何ら違和感のない指輪だ。この指輪が武器であるなどと想像する者はいないだろう。まして一刺しでいかなる強者をも地に沈める圧倒的な武器であるなどと。

「一つしかないなら、レイにあげても良いですか?」

 フィビアスに望む物があるとすれば、それはドラゴンの力だ。レイバックが指輪を持っていれば、万が一フィビアスと2人きりになる事があっても、魔法に掛けられる直前に針を刺す事が可能かもしれない。そう思い指輪の譲渡を提案したゼータであるが、クリスは渋い表情を作った。

「ゼータがそうするというのなら止めないよ。でも僕は、その指輪はゼータに持っていてほしい」
「何で?」
「だってそのために作ったんだもの。寝る時間まで削ってさ。寝不足で公務中に居眠りをしてメリオンさんに張り手を食らわされるし、結構大変だったんだから」

 そういうクリスの目元には、確かに茶色い隈ができていた。メリオンによる張り手の跡はすでに消えているようだが、ゼータのための寝不足で、クリスの頬が打たれたかと思うと居たたまれなくなる。

「…わかりました。私が持っています。クリス、感謝します」
「いいえ。愛は誓えないけど、また逢えるようにと想いは込めたからさ。無事で帰ってきてね」

 クリスはそう言って笑った。

***

 ゼータは徐々に面積を増す血だまりを眺め下ろしていた。切り離された頭部と胴体は、浅ましくも生に縋るように痙攣し、直に動かなくなる。藍色の髪は血だまりに浸かり、薄桃色のネグリジェワンピースは布地の大半が赤黒く染まっていた。
 黒の城を牛耳るサキュバスの女王を討ち取った。服従の魔法の効力は消え、フィビアスの服従下にあった官吏や侍女はこの時を持って自由の身となる。どれ程の者が魔法の支配下に置かれていたのかは検討が付かない。しかし城の中に、ゼータの敵となり得る者が減ったことは喜ばしかった。

 血だまりが足元まで広がりを見せた時に、ゼータは剣を投げ捨て緋色の天蓋に寄った。天蓋を開き、ベッドによじ登り、そこに眠る人の肩に手を掛ける。すやすやと眠るレイバックを目覚めさせるべく、力の限りに裸の肩を揺する。

「レイ、起きてください。帰りますよ!」

 ベッドが揺れるほどに肩を揺らし、それでも目覚めないレイバックに張り手を食らわせるべく、ゼータが手を振り上げた時である。間延びした唸り声の後に、いかにも眠たげな緋色の瞳が開いた。

「…おはよう」
「おはようございます。身体に異常はありませんか?」

 ゼータに問われ、レイバックは目を擦りながら身を起こした。寝ぼけ眼は自らの裸体を見下ろし、ベッドを囲う天蓋を見上げ、そして無残に腫れあがったゼータの顔面で動きを止める。未だ宙を彷徨っていた意識は一気に覚醒へと向かう。

「ゼータ、誰にやられた」
「顔の傷で言えばユダです。腹の焼き跡は別の七指の攻撃によるものですけれど、元を辿ればユダですね。彼が七指を隷属していたようなので」

 無事意識を取り戻したレイバックに、ゼータは事の顛末を簡潔に話す。ユダがインキュバスと呼ばれる伝説上の種族である事、ブルタス前国王の統治を懐かしみ1200年もの間黒の城の時を止めた事、黒百合の痣はユダによる隷属の紋様である事、そしてゼータの反撃により重傷を負ったユダは逃走した事。しかしメリオンの過去に掛かる部分については意図的に伏せた。ゼータ自身の過去に関わる部分もだ。触れられたくない過去は誰にでもある。
 全てを話し終えた時に、レイバックの手がゼータの頬を撫でた。赤黒く腫れあがった頬に交互に触れ、切れた唇をなぞり、血のこびり付いた黒髪を梳く。穏やかな仕草とは裏腹に、レイバックの手のひらは微かな震えを帯びる。

「殺すか。あの男」

 レイバックの声には激情が籠るが、返すゼータの表情は穏やかだ。

「仇討ちなら結構ですよ。ユダがどれほどの傷を負っているかもわかりません。七指の内3人は間違いなくユダの支配下にいますから、追手が掛からない内に逃げましょう」

 レイバックをフィビアスの魔法から解放した今、敵意の所在のわからない城に無闇と滞在する意味もない。一足早く天蓋から這い出たゼータは、床に落ちていたレイバックの衣服を拾い上げ、ベッドの上へと放った。
 ゼータが血だまりの中から剣を拾い上げ、乾き掛けた血潮をシーツで拭っていた時である。着衣を終えたレイバックが天蓋から姿を現し、床にうつ伏す首のない胴体に目を留める。次いでその傍らに落ちた藍色の生首へと。横たわるフィビアスの亡骸をしばし眺め下ろしたレイバックであったが、結局その口からは罵倒の言葉も冥福の言葉も吐き出される事はなかった。一欠けらの未練もなく、亡骸から視線を外したレイバックは、ゼータが差し出した豪華絢爛の剣を左手に受け取った。趣味が悪い剣だ。柄に付いた宝石をつつくレイバックの様子に、ゼータは笑い声を零す。

 鍵の掛かった寝室の扉を壊し、レイバックとゼータは王の居室へと足を踏み入れた。塗装の剥がれ掛けた衣装棚の前を通り過ぎる最中、レイバックは思いついたように足を止める。衣装棚の扉を開け、上半身を突っ込んで内部の衣装を物色する。間もなくして真新しい黒革のコートが、ゼータの腕に押し付けられた。

「夜間の飛行は冷える。極力着込んでおけ」

 レイバックの見やる窓の外では、木々を揺さぶるような暴風が吹き始めていた。雨はまだ降り出していないが、風に雨がつけば嵐になる。飛行に向いているとは到底言えない天気だが、確実にユダを殺していない以上、今夜中にドラキス王国との国境を越えてしまいたかった。昼間であれば、国境までの飛行時間はおよそ2時間。暴風吹き荒れる今、それよりも長い時間ゼータは冷たい雨風に晒される事となるのだ。
 レイバックの助言にゼータは破れたシャツを脱ぎ、衣装棚にぶら下げてあった数枚の衣類を拝借した。女物でも腹部が露出した襤褸切れのようなシャツよりは大分ましだ。服と焼き跡が擦れて痛いと愚痴を零すゼータの横で、レイバックも衣装棚から引っ張り出した分厚い上着を羽織っていた。

 飛行に備えた身支度を整えた2人は、王の執務室を通り過ぎ薄暗い廊下へと出る。ユダが差し向けた刺客が列をなしているかもしれないと警戒していた2人であるが、予想に反し廊下に人影はなかった。左右に長く伸びた廊下を、ゼータは交互に見つめる。

「下階には下りずにお暇したいところですけれど、廊下じゃ変身する場所がないですね」
「無理をすればできない事はないが、建物が壊れるな。無駄な人死にを出したくはない」
「屋上へ続く扉は開いていないでしょうか」

 ゼータが指さす廊下の先には、他の扉よりも大きな鉄製の扉が張り付いている。それは黒の城到着時に通り抜けた、南棟の屋上へと続く扉によく似ていた。上空から見る限り、儀式棟を除く黒の城の各棟にはそれぞれ大きな屋上があった。着陸できたのだから、離陸に不足はあるまい。
 鉄の扉へと歩み寄るレイバックの背を、ゼータはよろめきながら追った。フィビアスを斃した事により緊張感が解け、身体を圧し潰すような疲労が全身を襲っていた。出血が多いだけではなく、絶え間なく襲う焼き跡の痛みが、着実にゼータの体力を奪っていく。叶うならばこの場にうずくまり眠ってしまいたいが、安穏の睡眠はもう数時間先になりそうだ。

「…鍵がかかっている」

 レイバックは鉄扉にぶら下がる巨大な錠前を持ち上げた。剣の柄で何度か叩くが、強靭な錠前には傷一つ付けることができない。錠前に加え、扉にはさらに別の鍵穴が備えられているから、扉を開くには2つの鍵を開けねばならないようだ。

「レイ、どいてください。魔法で壊しますので」

 錠前に手をかざすゼータであるが、魔法を発動する直前に足元がふらつく。起立すら危うくなりつつあるゼータの身体を支え、レイバックは首を横に振る。

「魔法は使うな。魔力切れで倒れられては移動に難儀する。鞍にしがみ付くだけの余力は残しておいてくれよ」
「そうは言っても、下階には七指の私室があります。戦闘になれば今の私は完全にお荷物ですよ。敵との遭遇は極力避けましょう。最悪咥えて運搬してもらえば良いですから」
「いや、それは…」

 錠前を取り合う2人の背後に人影が立つ。硬い靴の踵が石床を打つ音に、まず振り返った者はゼータであった。聞き覚えのある靴音だ。

「マギ」

 歩み寄って来る者の名を呼び、その姿を視認したゼータは慌てて瞳を閉じた。目を閉じろ、傍らのレイバックに促す。遠目に見たマギの両眼は黒布で覆われていない。見た者を石にする悪魔の両眼が、鉄扉に張り付くレイバックとゼータを見据えている。さらに悪いことに、マギの右手には長剣が携えられていた。抜き身の剣を握り込んだマギが、刻々と2人に迫りくる。
 ユダの命令だ、ゼータは確信する。レイバックとゼータの命を狩り取るべく、ユダがマギに命令を下したのだ。自らは安全な地に身を隠したまま、隷属下にいるマギを駒のように操っている。

「ゼータ、下がれ」

 手探りでゼータを背後へと押しやったレイバックは、刀を構えマギに相対した。悪魔の眼を見ないようにマギの足元だけを見て、来るべき斬撃に備える。ドラキス王国随一の剣豪であるレイバックであるが、今の状況は圧倒的に分が悪かった。マギの眼を見ないように目線を下げたままでは、太刀の打ち出される瞬間も見る事ができない。どこから攻撃が飛んでくるか判断が難しいのだ。マギが剣技に長けていれば、レイバックとて打ち負ける可能性は十分にある。
 生唾を飲み込みマギとの戦闘に備えるレイバックであるが、いつまで待ってもマギが手にした剣を振り翳すことはなかった。レイバックの間合いに入らないぎりぎりの位置で歩みを止め、その場にじっと立ち竦んでいる。

「うう…」

 突如呻き声を漏らしたマギは、頭を抱えてその場にうずくまった。抜き身の剣を取り落とし、華奢な身体を小さく丸めて苦しそうに呻く。油断を誘うための演技かもしれないと、レイバックが警戒を解くことはない。しかし想像に違い、マギが再び剣を握ることはなかった。
 やがてはたと唸る事を止めたマギは、おぼつかない足取りで元来た道を引き返して行った。マギの背中が下階へと消えた時に、レイバックとゼータは顔を見合わせた。結局マギは攻撃らしい攻撃をすることなくこの場を立ち去った。

「…隷属の魔法の効力が弱まっているのだろうか」
「そうかもしれません」

 ゼータはユダの傷が如何ほどのものか実際に確認したわけではない。しかし空き部屋に残された血だまりと、廊下に続いた血跡を見るに、かなりの出血をしている事は明らかであった。ユダも必死なのだ。フィビアスがゼータに敗れレイバックが自由の身となれば、神獣の王は間違いなくユダを敵と見なす。愛しい妃の顔を腫れるほどに殴り、その身を魔法の炎をで焼いた憎き仇だ。命が尽きかけ身を守るための魔法が使えないのだとすれば、ユダが身を守る手段は隷属下にいる者を代わりに戦わせる他にない。しかしその隷属の魔法ですら満足に保てぬほどに、ユダは弱っている。
 自らの死を覚悟すれば、ユダは持てる力の全てを使いレイバックとゼータの元に隷下を差し向けるだろう。死することを覚悟しない者の、生への執着は恐ろしい。マギが消えた階段から七指の面々が姿を現すことを想像し、ゼータは身震いした。彼らと戦うのはもう御免だ。

「あれ」

 錠前に手を掛けたゼータの耳に、レイバックの声が届く。まさか本当に七指が来たかとゼータが振り向けば、レイバックの指先は先ほどマギがうずくまっていた床を指さしていた。マギが握り込んでいた刀剣が、石造りの床に横たわっている。そしてその傍らには、マギがいつも腰に付けていた鍵束が落ちていた。



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悪魔の眼を怖がらなかったゼータへの感謝の気持ち
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