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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ

小川のほとりで

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 無事ブラキスト滞在中の予定を固めた後、ゼータは愛獣グラニを連れて集落を出た。目指すは集落から徒歩で10分ほどの場所、山中を流れる小川の畔だ。その場所は、集落の者が馬の沐浴に頻用するのだという。集落で保有する馬の頭数の関係上、明日の荷馬車市にはグラニも同行させることになる。人の多い場所に連れて行くのならば、今日のうちにグラニの沐浴を済ませるべきとの意見が上がったのだ。ゼータも愛獣の身体の汚れは気に掛けていたところだから、沐浴の提案は2つ返事で快諾した。そうして今、ゼータは先導者シーラと共に山中の小川を目指している。

「俺は集落の家畜担当なんだ。家畜担当は俺を含めて3人。子どもが2人と大人が1人だよ。騎乗用の馬と、食用の鶏の世話が主な仕事。あと、時々森で捕らえてきた兎や猪の世話もする」
「兎や猪は食用ですか?」
「食べることもあるし、干し肉にして荷馬車市の商品にすることもある。日持ちのする食料は、ブラキスト内の集落では重宝されるからね。良い値段で売れるんだ。あと牙や毛皮も商品になる。こっちはブラキストの街に住む人がよく買っていくかな。襟巻にしたり、ぼたんに加工したりするんだって」
「へぇ…」
「家畜担当の他に、狩猟担当、備蓄担当、農耕担当、家屋担当…ブラキストの街への伝令担当なんてものあるかな。村人は皆、集落の中で何かしらの役割を請け負っているんだ。子どもだって関係ないよ。ミムは農耕担当だから、農繁期には大人と一緒に種蒔き作業。結構働き者なんだよ、ミムは」

 ゼータの脳裏に、畑に種を撒くミムの姿が思い浮かぶ。小さな指先で南瓜の種を摘み上げ、畑にしゃがみ込んでは土の中へと埋めてゆく。指先を土の中に埋め込むたびに、ひょいと持ち上がる小ぶりの尻が愛らしい。

「ブラキストでは、子どもが働くのは当たり前ですか?」
「どこの集落でも当たり前なんじゃない。荷馬車市で他の集落の子どもと話すことがあるけれど、皆農作業や家畜の世話を手伝っているみたいだよ。でも昔はそうじゃなかったんだ。俺はよく知らないけど、もうずっとずっと昔の話。この集落は、村人が200人もいる結構大きな集落だったんだってさ。その頃には集落の中に商店があって、診療所があって、義塾があったんだよ。農耕や狩猟は全部大人がやってくれるから、子どもは義塾に通う以外は遊んでいられたんだ。小川で泳いだり、こまを回したり、物語を読んだりさ。夢みたいだよね」
「それはもしかして、ブルタス旧王の時代でしょうか」
「そうそう。ゼータはドラキス王国の人なのに良く知っているね。ブルタス旧王が斃れて、この国はおかしくなっちゃったんだよ。王宮軍は魔獣討伐を行わないし、盗賊の処罰も行わない。凶暴な魔獣と凶悪な盗賊ばかりが増えて、村人はどんどん減っていった。それでもこの集落はよく持っていたんだよ。ブラキストの街の人がさ、ゴルダに向かう途中にここを通るでしょう。不要になった馬を置いていったり、宿を貸す代わりに土産を貰ったりしてさ。一体の集落では恵まれた方だったんだよ」

 ブルタス旧王は、およそ1700年間に旧バルトリア王国を建国した人物だ。彼の統治は厳格そのもの、数万の警備兵を国内各所に配置し、些細な盗人行為までをも厳しく取り締まった。民の間では暴王と名高い人物であったが、少なくともブルタス旧王の在位時国土はそれなりに平穏であったのだ。凶暴な魔獣が出没すれば王宮軍が出兵したし、盗賊行為には重罰が下された。各集落には一定の補助金が配布されたし、道や橋も整えられ、大雨や日照りによる不作があれば国家の名の元で食糧庫が解放された。犯罪行為に手を染めさえしなければ、飢えることも理不尽な暴力に怯えることもない生活が約束されていたのだ。しかしブルタス旧王が崩御の後、旧バルトリア王国の頂には1200年もの間国王が立たずにいた。民にとっては長く苦しい時代が続いたのだ。垂れ下がる小枝を潜り抜けながら、シーラの語りは続く。

「恵まれた方だったんだけどね。4年前に、魔獣の群れに集落を襲われたんだ。俺はまだ3つだったから、当時のことはよく覚えていない。畑を荒らされ家屋は壊され、当時だけで10人以上の村人が亡くなったんだってさ。俺の父ちゃんが死んだのもその時だよ。力のある者が戦いに敗れ死んでしまえば、残された弱者は力を合わせて生き抜くしかない。種蒔きでも家畜番でも、子どもなりにやれる事はやらないとさ」

 力強いシーラの言葉に、ゼータは歩みを止めた。左右に草木の生い茂る小路、数歩進んだところにシーラの小さな背中がある。真新しい家屋と満足な食事、今この集落の人々が満ち足りた生活を送っていることに違いはない。しかしほんの少し時間を巻き戻せば、日々食うに困った時代が確かにそこにあったのだ。戦える者は命を賭して村を守り、戦えぬ者は必死に知恵を絞り、そうしてぎりぎりの所で生を繋いできた。守り切れずに零れ落ちた命も無数にあった。シーラが大人びた話し方をするのは、単に口達者という言葉では済まされない。7歳の少年は、千余年を生きたゼータよりも遥かに多くの辛苦を知っている。
 ゼータが歩みを止めたことに、シーラは気が付いたようだ。新緑に囲まれ、振り返るシーラの顔には柔和な笑みが浮かんでいる。

「ゼータは感情がすぐに顔に出るなぁ。そんな辛い顔をしなくてもいいのに。昨晩マリーが言っていたけど、辛い時代はもう終わったんだよ。レイバック国王様のご決断により、ブラキストの地は確実に良い方向に向かっている。この集落はゴルダとブラキストの街を繋ぐ道中にあるから、ブラキストの地が豊かになれば立ち寄る人はどんどん増えるよ。そうすればほら、村人の数も増えるでしょう」
「この集落に移住する者が増えるという事ですか?」
「違う違う。リーニャやゴルダからやって来た人が、こんな寂れた集落に住みたいわけがないでしょ。たくさんの種を貰えれば、集落は豊かになるってこと」
「…種?」

 種とは、作物の種子のことだろうか。涙誘う昔話から一変し、ゼータはシーラの話の流れを掴み取ることができない。

「えーとね。ブラキスト内の小さな集落では、旅人から子どもの種を貰うことが普通なんだよ。集落内の男の人が、あまり種を撒きすぎるのは良くないんだって。血が濃くなる、と言うのかな。だから旅人が集落にやって来たときは、子どもを産める女の人の家に旅人を泊めるんだ。そうして夜のうちに種を撒いてもらえば、生まれた子どもは外部の血が混じっているでしょう。たくさんの旅人に立ち寄ってもらって、たくさんの種を撒いてもらえば、集落の子どもはどんどん増える。子どもが皆大人になれば、また子どもを作ることができる。そうやって集落は大きくなっていくんだ」
「…シーラ。その話は誰に聞いたんですか?」
「ダミアンだよ。ダミアンは、今年14歳になる俺の親友。この集落では15歳を迎えたら成人と見なされる。ダミアンは身体も大きくて働きぶりも良いから、一足早く大人の仲間入りをしているんだ。お酒はまだ飲まないけどね。俺は親友特権で、ダミアンから情報を横流ししてもらっているってわけ」
「へぇ…」

 シーラが歩みを再開したので、ゼータとグラニもそれに続く。5日間に渡る山越えですっかり山道に慣れてしまったのか、道中のグラニは大人しいものだ。鼻先にあたる枝葉にも、鳴き声一つ零さない。

「旅人から種を貰うって話も、ダミアンからこっそり教えてもらったんだよ。どうやらこれは大人の事情ってやつらしくてね。本当は子どもには教えられないことなんだって。だからゼータも、俺が種の話をしたってマリーに言わないでよね。情報を横流ししたダミアンにも迷惑が掛かるからさ」
「宿を借りている身で余計な密告はしませんよ。でもその…一つ聞きたいんですけれど、シーラにはダミアンの話が理解できるんですか?」

 まさかたった7つの少年が、旅人から種を貰うという話を根底から理解しているのだろうか。恐る恐る問い掛けるゼータに、シーラは悔しそうな表情を返す。

「…それがよく分かんないんだよね。大人の事情ってやつは、子どもには理解し難いんだ」

 幼気な少年はもうしばし幼気であれ。ゼータはほっと胸を撫で下ろすのだ。

 集落を出発してから10分弱、2人と1頭はのどかな小川の畔に辿り着いた。生い茂る新緑の中を、澄んだ水がゆったりと移動している。ここに小川があるのだと言われなければ、見落としてしまうような小さな川だ。小川の周囲は背の高い木々に囲まれているが、ある一部分だけぽっかりと拓けた場所がある。切り口の新しい切り株や、枯草の束があちこちに置いてあるから、馬の沐浴のために集落の者が整備したのだろう。薫る空気を胸いっぱいに吸い込むゼータの目の前で、銀色の小魚が水面を跳ねた。

「じゃあ俺は魚を採ってくる。沐浴用のバケツやブラシは向こうの木に掛けてあるからね。使い方がわからなかったら呼んで」

 そう言い残すと、シーラは靴を脱ぎ捨て小川へと飛び込んでいった。少年の手には湯張りに使ったブリキのバケツと、手作り感満載の手網。あけび蔓を編み上げた網部に、鹿角から削り出した持ち手が付いている。不格好で使いにくそうな手網だが、シーラはその手網を使い器用に小川の小魚を救い上げるのだ。ゼータがグラニの馬具を外す間にも、シーラは10匹もの小魚をブリキバケツへと放り込んだ。今日の夕餉は小魚の揚げ物か、それとも塩焼きか。

 くつわに手綱に鞍、あぶみまで、全ての馬具を外されたグラニは、身軽になったと嬉しそうだ。銀のたてがみを揺らし、ゼータの周囲を軽快と周る。はしゃぎ回るグラニをその場に残し、ゼータは沐浴用の道具を取りに向かった。先ほどシーラが指さしたのは、小川の周囲で一際存在感を放つ桜の大樹だ。ごつごつとした木枝の一本に、確かに木製のバケツが掛けられている。バケツの中身は鉄爪や豚毛のブラシ、木製の櫛といった沐浴道具一式だ。バケツを木の枝から下ろし、ゼータは見事な桜の大樹を見上げる。生い茂る枝葉は緑一色、薄桃色の花弁はすでに散ってしまった後なのだ。しかし花盛りはさぞかし美しかろう。澄んだ水面に舞い落ちる花嵐を想像し、ゼータは一人満足げに笑う。

 仔馬のようにはしゃぎ回るグラニを宥めつつ、ゼータは小川へと足を踏み入れた。一晩休んだからといって、山越えの疲れはそう簡単に癒えはしない。重だるい両足に冷たい小川の水が染み渡る。ゼータは手始めに、バケツで掬い上げた水をグラニの全身にたっぷりと浴びせた。銀毛の表面に付いた泥汚れはみるみる落ちて、グラニは本来の輝かしい毛並みを取り戻してゆく。続いてたてがみに絡まった木の葉や小枝を取り除くべく、ゼータは木製のブラシを手に取る。魚の跳ねる水音に、シーラの手網が魚を掬い上げる音。グラニの鼻息に、こおろぎの鳴き声、小鳥のさえずり。のどかな時が過ぎる。

***

「シーラは、ドラゴンが空を飛んでいるのを見たんですよね。何か特別に気になったことはありました?例えばどちらかのドラゴンが怪我をしていたとか、争いを逃れようとしているようだったとか」

 ゼータがそう尋ねたのは、グラニの沐浴がすっかり終わった頃だ。艶々毛並みを取り戻したグラニは木陰で草を食んでいるところ、ゼータとシーラは小川の畔に並んで腰を下ろしている。芝生の上には、綺麗に洗った手網とバケツ、ブラシ、鉄爪に櫛、それにグラニの馬具。さながら店先に並べられた商品のようだ。
 小川に下ろした小さな両足を水中で揺らしながら、シーラは唸る。

「気になったことかぁ。何かあったかな」
「何でもいいですよ。シーラが感じたことでも良いです。苔色のドラゴンの方が強そうだったとか、緋色のドラゴン方が理性的に見えたとか、何かあります?」

 グラニの沐浴へと赴く前に、ゼータは村人への一通りの聞き込みは済ませている。丁度良い具合に人々が広場に集まっていたから、ドラゴンの目撃者に挙手を求め一人一人に聞き取りを行ったのだ。しかし「2頭のドラゴンはブラキストの街の方へ向かった」という以外に目ぼしい情報は無い。そもそもブラキストの上空に飛行獣が現れるのは珍しいことではないし、2か月も前の出来事を見たままに話せというのも無理な話だ。子どもを含む数人の村人に聞き取りを済ませるも、結局2頭のドラゴンが高山地帯を超えたのかどうかすらわからない。ゼータの旅路の行く先は、未定。

「…何となくだけどさぁ。緋色のドラゴン頑張れ、って思ったんだよね」
「ふぅん?」
「言葉にしにくいんだけど、格好よく見えたんだよ。緋色のドラゴンの方が。興奮して暴れ回る苔色のドラゴンを、緋色のドラゴンが必死で宥めている。何となくそんな風に見えたんだよね。ドラゴン同士の喧嘩なんだから、そんなこともないと思うんだけどさぁ」

 シーラの両脚が、小川の水面を蹴り上げぱちゃぱちゃと音を立てる。少年の証言は、ゼータにとって何よりも嬉しい知らせだ。
―そりゃあ格好良いに決まっているじゃないですか
 あの日ブラキストの地を横切った緋色のドラゴンは、この世界にたった一人のゼータの番。ドラキス王国を安寧に導いた神獣の王なのだ。

「…ちょっと、笑わないでよね。何でもいいから話せって言ったのはゼータだよ」

 言葉を伴わぬゼータの微笑みに、シーラは気分を害した様子である。

「すみません。馬鹿にしたんじゃないですよ。嬉しかったんです」
「嬉しかったの?何が?」
「実は私も、緋色のドラゴン派なんです。喧嘩の決着はまだわからないですけど、緋色のドラゴンが生きていてくれたらいいなぁって思うんですよ」
「へぇ、そうなんだ。何で?」

 シーラの問いに、ゼータは答えない。
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