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第五章 幸せの刻限

44 父の思惑【2】

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 予想外の反応に、父が何を考えているのか、さっぱりわからなくなる。
 黙って見つめていると、組長はしきりに何か考えこんだのち、口を開いた。

「俺も方々に情報筋は持ってる。貴の呼ばれた北方がどんなとこかは、噂程度に聞いてたってことよ」

「え……ど、どんな噂ですか!?」

 初耳の情報に、みゆきは思わず組長ににじりよってしまう。
 組長は顔色一つ、声色一つ変えずに続けた。

「北から帰ってくる鉄道にゃ、尋常じゃねえ死に方をした軍人の死体ばっかり乗ってる、って噂だな。お上が北の戦況に関してだんまり気味なのとあわせて考えると、残念ながらガセとも思えなかった」

「そ、そのこと、貴明さんには!?」

 あらかじめ貴明がそれを知っていたら、地獄へ行かずに済んだのではないだろうか。
 そんな思いがかすめたが、組長の答えは素っ気ない。

「言ってどうする。脱走でも勧めるのか? 戦場で手柄立てて、晴れててめえを嫁にもらうって啖呵切ってる野郎に? そんな野暮ができるかよ」

「それは……」

 あの物静かな貴明が、父にそんなことを言っていたのか。
 そう思うと、こんなときでも胸が熱くなってしまう。みゆきはほんのりと赤くなった顔をうつむける。
 組長は煙管を取り出し、煙草を詰め込み始めながら続けた。

「俺に出来たのは、刀を預けることだけだったな」

「刀。貴明さんの、軍刀ですか」

 聞き返しながら、みゆきはあの刀のことを思い出す。
 貴明は常に軍刀を持ち歩いていた。死神を追い払ったときもあの刀だったし、ふと触れたとき、不思議なくらい温かく感じたことも覚えている。
 貴明はあれにみゆきの渡したお守りをつけ、戦場では眠るときも抱えていたという……。

(あれは、お父様が渡したものだったんだ)

 そう思えば、中身が刀でも、恐ろしいというより安心の源のような気がしてきた。

「知り合いの神社に、なんか御利益のある刀はねえかって相談してよ。それで譲ってもらったのがあの刀よ。死神に魅入られたとはいえ、多少の御利益はあったってことなんだろうな」

 組長はつぶやき、ぱっと煙草の煙を吐く。
 そうして少し考えこんだのち、組長はみゆきに向き直った。

「よし。てめえの願いは叶えてやるが、ちょっと待て。同じ神社に守り刀を頼んでやるから、そいつを抱いて交渉に行きな」

「守り刀……ありがとうございます。でも、私たちには時間がなくて……」

 みゆきはためらいがちに言う。
 組長の申し出はありがたいことなのだが、果たしてもう一度家から抜け出すことができるだろうか。
 みゆきには自信がない。

 貴明のあの目に見据えられ、優しく声をかけられてしまったら最後、みゆきはいつも動けなくなる。
 今日ここへ来るのだって、ずいぶんと勇気を振り絞ったのだ。
 言いよどむみゆきを前に、組長は、ばしん、と膝頭を叩いた。

「まだ十日あんだろ? だったらそれには間に合わせる。ってことで、この話はしまいだ! 無事に刀が届いたら、六朗にでも呼びに行かせるからよ」

 組長がひときわ大きな声で叫ぶと、庭のほうから聞き慣れた声がかかる。

「オヤジ、呼びましたぁ?」

「まだ呼んじゃいねえよ! みゆきが帰る。俥でも呼んでやんな!」

「はぁい、ただいま」

 六朗は庭の手入れでもしていたのだろうか。
 顔は出さずに、わざわざ間延びさせた声で答える。
 その調子がなんだか無性に懐かしくて、みゆきはほっとした。

「わかりました。それじゃ、お父様。どうぞよろしくお願いいたします」

「おう。気をつけて帰りな。あとなんか、土産に持って帰りたいもんがあれば、なんでも持ってけ」

「大丈夫です。貴明さんが、何もかも用意してくださいますもの」

 みゆきは微笑み、客間を辞して玄関に向かった。

 三和土にはいつもの派手な羽織姿の六朗がいて、にこっと笑う。

「俥はもうすぐ来ますよ、お嬢……じゃねえ、奥さん、がいいかな?」

「お嬢でいいわよ、くすぐったい」

「だよな? じゃ、お嬢。こいつは今ひとっ走りして買ってきた近所のまんじゅうで、洋風の卵餡が入ってるんですって。持って帰って貴にも食わせてやってください。それと、これもね」

 菓子折の上にぽん、ぽんと置かれたのは皮の分厚そうなみかんだ。
 温かな色に気分がふわりと持ち上がる。みゆきは微笑み、ぎゅっとお土産を抱きしめた。

「ありがとう、六朗。これ、庭で取れたみかんでしょ?」

「そうそう。昔は三人で実を落としましたよねえ」

 おっとりと笑われると、みゆきはなんだか泣きそうになってしまう。
 そうだった。自分たちはこの家の庭で、いつも一緒だった。
 実がなる季節には実を拾い、花が咲く季節には縁側で花を見ながらおやつを食べた。

 あの幸せな日々が、今はあまりに遠い。

(貴明さんがいなくなったら、もう、永遠に戻らない)

 喉を熱いものがせり上がってきそうになって、みゆきは無理矢理笑った。

「懐かしいわね。……いつか、また、この庭で三人でお花見でも出来たらいいわね」

「……大丈夫? お嬢」

 ふと、六朗の声が低くなる。
 いつも明るい表情がぐっと暗くなり、みゆきの顔をのぞきこんできた。
 そうすると、意外と彫りが深くて整った顔立ちなのがよくわかる。
 そうして、底なしに暗い黒い目をしていることも。

「大丈夫にきまってるでしょ。またね、六朗」

 みゆきは言い、玄関をくぐって外に出る。門の外には、もう人力車が待っていた。
 六朗はみゆきが人力車に乗るところまでを見届けて、最後にみゆきの手を軽く握る。

「いいですね、お嬢。ここはあんたの家なんだ。いつでも帰っていらっしゃい。大丈夫じゃねえときは、いつでもね」

「……うん。ありがとう」

 みゆきは声が震えないように押し殺して、視線を逸らす。
 人力車はすぐに走り出し、みゆきと貴明の新居へと向かった。
 背後でぐんぐんと実家が遠ざかる。

(貴明さんのもとへ戻るのは、嬉しい。それは、本当。でも……)
 貴明と共に愛の巣にこもって過ごす日々は間違いなく幸せだが、あそこにこもっていては、確実に終わりの日が来てしまう。それがあまりにも恐ろしいのだ。
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