寡黙な消防士でも恋はする

晴 菜葉

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「お前もさあ、あいつのこと気に食わへんやろ」
 報告書に自分の名前を書き終えたところで、待ち構えていたように橋本が俺の机に手をついて、体を斜めにして詰め寄ってきた。
「あいつや、あいつ。日浦」
 橋本は親指を突き立てて、背後の日浦の机を示す。
 あんなのでも、一応は特救の副隊長を務める男。今の時間は署内の偉いさん方の会議に隊長と一緒に出席して席は空っぽなので、橋本が親指を立てようが立てまいが、取り敢えず文句は出ない。
「そんなことありませんよ」
 本心で応えれば、物珍しそうに橋本の目が瞬く。
「へええ。意外やなあ。日浦が何言うても、いっつも無視しとったから。俺はてっきり」
 日浦の陰口かよ。この俺がこの世で一番嫌いなやつだ。
 黙れ。ジロリと横目で睨みつけると、びくびくっと肩を揺すり、そそくさと橋本は自分の席へ逃げ帰った。やつは黒いファイルで顔半分隠し、猫背になって、怯えた視線をこちらに向けてくる。やたらめったら見せない俺の睨みに、完全に白旗を上げている。
 当然だ。今でこそ黒髪短髪の地味なナリをしているが、かつての俺は大黒谷界隈で幅をきかせる、所謂不良の元締めの真似ごとをしていた。
 ちょっと睨めば、そこら辺で粋がる派手なシャツ姿の肩で風切る強面オニイサンでも道を空けてくれる威力は、未だに残っている。
 そんな相当の破壊力を持つ俺の眼力が通じなかったやつを、ただ一人、知っている。
 日浦だ。
 遡ること、十三年前の五月二十日。忘れもしない、俺と日浦の初めての対面の日。
 当時、頭の出来があまりよろしくないことで有名な商業高校に在籍していた俺は、ベリーショートの髪を真っ黄色に染め、両耳、鼻、唇、臍とおよそ思いつく限りの場所にピアスの穴を開け、首から金の鎖を垂らし、だらしなく胸元を広げたブランド物のシャツといった、擦れ違う一般人百人が百人とも目を背けるような出で立ちだった。当然、素行も見てくれを裏切らない。つまらない授業に出るつもりなどハナからなかったので、その日も免許取り立ての先輩と幼馴染みのマサシの悪友三人組で連れだって、朝から優雅にドライブだった。
 県道から湾岸線に出て、海に沿って悪趣味な黄色のオープンカーが走る。潮風を受け、そよそよした穏やかな心地で「あ~、たまらん」「ナンパでも行くか」などと呑気に言い合っているときだった。
 いきなり真後ろからクラクションが鳴った。
 物凄いスピードで、誰もが知るエンブレムの赤いスポーツカーが右車線から追い抜いて行った。左ハンドル。だから、運転している茶髪野郎の、不敵に見下す笑みをはっきり捕らえてしまう。
 カーッと頭に血が昇ったのは、俺だけではない。
 ハンドルを握る先輩が、アクセルを踏み込んだ。
 びゅんびゅんと風をまともに食らって、心地良いなどというレベルの話ではなくなった。擦れ違う車を器用にひょいひょいっと避けて、先輩はひたすらアクセルをふかす。風と、排気ガス。抜きつ抜かれつの嫌味ったらしい外車野郎。三重苦だろうと、何ら気にせず、俺は後部座席から先輩に「もっと行け行け」と囃し立てた。
 そんな俺らの押せ押せコールのおかげか、ついに外車野郎は諦めた。だんだんスピードが落ちていく。
「ざまあねえな」
 中指を突き立て、へっと鼻を鳴らす。それに気を取られ過ぎて、完全に前方不注意だった。
 重低音のクラクションに、はっと前を向いたときには、トラックが今まさに目の前だった。
「ぎゃあ」
 先輩は雄叫びを上げ、大きくハンドルを切る。
 瞬間、斜めを向いた車体はガードレールを擦り、キイイイイイイとブレーキが尾を引いた。ぶつかった弾みでタイヤが路面を斜めに滑り、またぶつかって、を何度か繰り返し、ようやくガードレールに突っ込んで停止した。
 フロントガラスはぐちゃぐちゃ、運転席では先輩がハンドルに体をもたげ、ぴくりとも動かない。助手席の悪友も頭からどくどくと血を流して、顎を上向かせて気を失っていた。
 俺と言えば、オープンカーから放り出され、アスファルトを飛び越えてガードレール脇の雑草に体を打ちつけ、一回バウンドして、どさっと倒れ伏した。死んだ。マジで思った。
「しっかりしろ!」
 どのくらい時間が経ったのかわからない。呼びかけられて瞼を開けると、オレンジの作業服姿の男が覗き込んできた。
「い……」
「い?」
 俺の言葉を男が復唱する。
「い……痛えええええええええ!」
 腹の底から声を出していた。
 そうだ。先輩は。マサシはどうなった。起き上がろうとしたら、ズキーンと痛みが全身を駆け抜け、その場に突っ伏する。
「お、おい。おっさん。先輩は?マサシはどうした?」
「救急搬送中だ」
「た、助かるんだろうな。あ、あんな血ぃだらだらで。本当に助かるのか」
 今しがた俺を呼んだオレンジの制服を着た野郎に大声で文句を言うと、
「当然だろ」
 などと素っ気なく返され、ムキーッと頭に血が昇った。
 その不遜な態度を取った特別救助隊員が、当時、布袋山ほていやまに配属されたばかりの日浦である。
 他の連中よりも明らかに若い日浦は、見た目からして経験値が浅いのは明白で、新米の分際で偉そうにとか何でそう自信満々なんだとか、ちゃんと責任持てんのかコラとか何とか、罵詈雑言を吐いてやった記憶がある。
「絶対、助かる!信じろ!」
 恫喝された。
 そのときの俺の頭の中は、俗に言う『真っ白』だった。
 親父は俺が三つの頃の交通事故でとっくにこの世にはおらず、唯一俺を叱り飛ばした父親代わりの爺ちゃんも、中三のときに癌で死んだ。以来、俺の強面もあって、怒鳴りつけるチャレンジャーはいない。
 だから、怒鳴られるなんて久々だった。
 爺ちゃんが降臨したのかと思った。
 救急搬送された俺は全治一カ月の重傷で、危うく停学になりかかったが、事故直後からの俺の一変した態度により何とか免れた。
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