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波乱の結婚生活幕開け

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「もう用は済んだでしょう? 一人にさせてもらえませんか? 」
 アデリーは壁に押し付けられたまま、翠緑の瞳を吊り上げた。
 ランハートは、微動だにしない。
 相変わらず人を食ったように、垂れがちな目を細めて、冷や汗をかくアデリーを見下ろしてくるのみ。
「妻の寝室を訪れた夫を拒むのか、君は? 」
 妻、と言う聞き慣れない単語にいちいち頬を赤らめるアデリー。
 その反応を、ランハートは明らかに楽しんでいる。
「ま、まだ夜ではありません」
「真昼間では都合が悪いか? 」
「あ、当たり前よ! 」
 ヒステリックに怒鳴るアデリーに、ランハートは喉を鳴らし、彼女の耳に掛かる眼鏡の蔓を指先で弄った。
「触らないで! 」
 ただ眼鏡の蔓を指先でちょいちょい触るだけの仕草だが、この男だと物凄く卑猥なことをされているようで。アデリーの顔へ向けて血液が集中する。
「これは飾り物だろう? 」
 ランハートに眼鏡を外される。
 伊達眼鏡であると見破られた。
 ジャケットの胸ポケットに眼鏡を引っ掛けるや、今度は後ろで纏めたピン留めに指を伸ばす。
「や、やめて」
 咄嗟に逃れようと顔をずらせば、壁と髪の間に隙間を作り、ますますピンを取らせやすくしてしまった。
 ランハートの思惑通り、団子が解かれ、ふさりと波打つ髪が腰元まで垂れた。
「美しい」
 臆面なく言ってのけ、アデリーの髪を一筋掬うや、口付けする。
 そんなランハートの手慣れた動作に、アデリーは一気に血圧値を高めた。
「よ、よくも、そんな思ってもみないことを! 」
 美しいなどと形容される言葉と無縁であることは、とっくに理解している。
 アデリーも年頃の娘。御伽話の王子様に焦がれ、夢のような結婚を待ち侘びる、ごく普通の少女だった。
 だった……。過去形。
 誰一人としてアデリーに声を掛けてくれる殿方はいなかった。
 己の境遇のせいでもあるが、こうも声が掛からなければ、きらきら輝いていた夢は、硝子を割るように粉々だ。
 自分には魅力がない。二十歳になり、ようやく咀嚼して、諦めがついた。
「美しい」
「思ってもみないこと、繰り返さないで」
「言われたことはないのか? 」
「悪かったわね! 」
 ランハートは悪びれず古傷を抉ってくる。
「そうか。君の美しさに気後れした軟弱者ばかりだったんだな」
 再度、髪の毛にキスが落ちる。
 ランハートは、都合よく解釈している。
「何故、そのような美しさを隠しているんだ? 」
「別に、美しくもなければ、隠してもいません」
「何故、美しさを隠す? 」
 ランハートは答えを促す。
 口を尖らせ、渋々とアデリーは答えた。
「子爵のお嬢様と同じ髪と瞳だからよ」
「どういうことだ? 」
「自分と同じ色が気に入らないんですって。だから、極力目立たなくしろと」
「自分より美しい輩が気に入らなかったんだな」
「買い被りすぎ」
 そんなわけで、アデリーの容姿は固定した。近寄りがたさはますます酷くなり、お陰で未だにがない。
「君はもう私の妻だ。メイドではない」
 言いつつ、ランハートは指の腹でアデリーの唇の形をなぞる。その仕草の意図を理解するには、経験が浅すぎた。いや、むしろ皆無と言っていい。
 アデリーは、ランハートの魔力のせいで、いつもなら平手打ちして逃れるところを、ただ棒立ちしてなすがままにされていた。
「眼鏡も、纏め髪も、その燻んだドレスも、君の意志ではないんだろう? 」
「え、ええ」
「なら、素顔に戻りたまえ」
 丁寧に爪が切り揃えられた指は、手荒れなど知る由もなく、細長く形が良いものだとばかり思っていた。
 しかし、ランハートの指は爪の形は整いこそすれ、ごつごつと節が張り、一本一本が長くがっしりしている。手を広げれば、アデリーの顔より大きいだろう。
 まさに、剣士の手。
 剣など握る必要のない王族なのに。
 イメージとの相違に戸惑っているうちに、顎を掴まれ、上向けさせられた。
「ちょっと」
 何するつもり?
 疑問は、ランハートの唇へ吸い込まれてしまった。
 唇の形をなぞり終えた舌先が、アデリーの口内へ易々と侵入する。熱を含み、まるで一つの個体となって、アデリーの歯の裏や口腔の粘膜あたりを蠢き、一通り舐り終えると舌先を絡ませた。
 水音が鼓膜を刺激する。
 初めてのキスは、御伽話のような甘くてふわふわとしたものだとばかり思っていた。例えるなら、スイーツのような甘さ。
 現実は真逆。
 生肉を貪るような激しさで、口内がどろどろに溶かされていく感覚。獣同士のぶつかり合い。
 ランハートは顔を傾け、繋がりが一層深まった。
 息苦しさに身を捩れば、逞しい腕が腰に巻きつき、動きを封じられる。密着の度合いが増して、互いの心音が聞こえる。脈動は速く、アデリーの首筋の血管が大きく跳ねた。
 もっと彼の唇を味わいたい。
 その欲を相手に悟られてはいけない。浅ましい女だと思われてしまう。
 アデリーは必死に理性を保とうと、頭の中で聖書の一文を復唱した。
 冷静さを取り戻そうと試みていることを見抜かれたのか。
 深く重なっていた唇が、潮が引くようにゆっくりと離れていった。
 乱れた吐息が、だんだんと落ち着いていく。
「まさか、兄上とは清い関係だったのか? 」
 最初に口を開いたのは、ランハート。
「あの方は、娘と寝室を共にされているわ」
 未だぼんやりと脳内に霞をかけたアデリーが答えた。
「まさか」 
「その、まさかよ」
 国王の、娘への執着ぶりは異常だ。
 まさか、実の娘以上の関係を持っていることはないだろうが。疑いたくなる関係の深さではある。
「そこまで娘を溺愛しているとは」
 忌々しそうに、ランハートは舌打ちする。
「まあ、その方がいい」
 ニタリ、と人を食った微笑みに変わる。
「兄上と比較されるのは、いい気がしない」
 彼が何を言わんとしているのか。アデリーには思考が追いつかない。
 その反応に、さすがにランハートも気づいた。
「まさか、経験ないのか? 一度も? 」
「関係ないでしょ! 」
「いいや。大いにある」
 満足そうに頷くと、ランハートはアデリーの顎を掴み、その瞳に彼女の姿を映した。
「今まで手付かずだったとは。奇跡だな」
 たちまち耳まで赤くなったアデリーは、悔しさに奥歯を噛み締め、ぶるぶると拳を震わせる。
「見た目と随分と違うな」
「悪かったわね。ご期待に添えなくて」
「いいや。ますます期待値が上がった」
 頬を膨らませてそっぽむくアデリーに、ランハートはニタリといやらしく口端を吊る。
 今度こそアデリーは彼の真意を正しく読んだ。
「何故、私を娶ろうとしたの? 」
 獣のようなぶつかり合いになっては、次は魂ごと引き抜かれてしまう。まだ唇がジンジンと痺れている。
 アデリーは話題がそちらには流れないよう努めた。
「あなたは結婚する気はないって、専らの評判だったじゃない」
「別に独身主義ではない」
 ぶっきらぼうにランハートは言い切る。
「嫁にしたいと思う相手に巡り合わなかっただけだ」
 今しがたのキスは、相当に手練れている。心を通わせた女性は枚挙に暇はないはずだ。
「私は? 」
「暇潰しだ。他意はない」
「は? 」
「冗談だ」
 無表情にランハートが言ってのける。
 何故、アデリーだったのか。
 その答えははぐらかされ、返ってはこなかった。
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