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白雪姫の元継母、恋を自覚する
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アデリーは、呆然と見上げた。
シュガー・アンド・サムは老舗のチョコレート専門店だ。
煉瓦造りの二階建ての外観は通り一遍、軒並み同じだが、シンプルな鍍金の施された鋳物製の看板が他店と比べて目を惹く。
陳列硝子には、色とりどりのチョコレートが宝石のように飾られ、訪れる者を釘付けにしていた。
それが今や、跡形もない。
「あんたもチョコレートを買いに来たのかい? 」
通りがかりの男は気の毒そうにそう言うと、肩を竦めてみせた。
「これは。一体」
「三日前だ。ボヤだよ」
シュガー・アンド・サムの外観は真っ黒に焦げ、一階の柱以外全て壊され、隙間風が吹き抜けていく。
絹地のカーテンも、大理石の床も、マホガニー製の陳列棚も、何もない。
真っ黒の空間。
「店主は無事だが。店がこれじゃあな、商売はしばらくは無理だな」
「そんな。月一の楽しみが」
メイドに雇われた頃からの、アデリーの楽しみ、いや、原動力でさえあったのに。
大事に残してあった給金の紙幣が、ぎゅっと握りしめたせいで皺くちゃになる。
悪いことは重なる。
「ちょっと。元メイド」
聞きたくもない声が真後ろに響いた。
「あんた。生きてたの? 」
子爵家の令嬢が、シャペロンを連れて仁王立ちしていた。
彼女とは、金の髪に翠緑の瞳が同じだが、服の好みまで似通っている。
淡いピンクの絹地に、胸元に施された小さなリボン飾り。
だが、一目で生地の違いがわかる。
裾のレース刺繍の繊細さが顕著だ。
令嬢はそのことにいち早く気づいて、鼻息を荒く捲し立てた。
「あんた、白雪姫の継母になって、処刑されたんじゃないの? 何で、こんなとこにいるのよ。それに、何よ、そのドレスは。メイドの分際で生意気ね。あんた今、何してんの」
そこへ、警護を兼ねた御者がアデリーを庇うように立ち塞がる。
令嬢はその御者の胸元の刺繍に、目を見開いた。
「ちょっと、ちょっと。この紋章は、もしかして」
百合が象られた紋章を、貴族ならば知らない者はいない。
「私の妻に何か用かな? 」
不意に第三者の声が割って入る。
濃紺の上着が、銀髪と銀の眼差しをひきたてる。すらりと背の高い、若い令嬢の憧れの代名詞。
「オーランド公爵閣下」
うそ、本物? と令嬢が呆然と呟く。
上位貴族の中でも筆頭の存在。夜会でも、同じ貴族を名乗ろうとも、下位になる者は声すら掛けることが許されない男。
「妻、ですって? 」
ムキーと、令嬢の目が吊り上がる。
「まさか、あんた、本当に? 」
王宮にいるはずが、町に唐突に現れた夫に、アデリーは目を丸くし、令嬢のことは頭から消えた。
「どうして、ここに? 」
ランハートは、馴れ馴れしくアデリーの肩に手を回して引き寄せる。
「王宮からの帰りだ。見覚えある馬車を見かけてね」
さっと脇に控えた御者が一礼する。
「買い物は済んだのか? ならば、私の馬車へ」
「え、ええ」
買い物は肩透かし。目的は潰えた。アデリーは力なく頷く。明らかに元気がない。
ランハートは不思議そうに翠緑の瞳を覗き込む。
それは、まさに新婚夫婦らしい甘さ。
放置された令嬢は足を踏み鳴らすと、拳を握り、一歩前へ出る。
「公爵。この娘は、本当は私とは何の血縁もない、ただのメイドです」
いきなり叫んだ令嬢の顔は、興奮して真っ赤だ。
「この娘は、あなたに相応しくありません! 」
周囲を憚ることなく、堂々と宣言されては、さすがにアデリーの顔が曇った。
何も公衆の面前で暴露することないじゃない。
令嬢の後先考えない行いに、辟易する。
通行人は、何事かと過ぎていった。
「面白い冗談だね」
ランハートは表情を変えず、笑顔で応対する。
「いえ。冗談ではありません。この娘は孤児です。閣下には不釣り合いです」
ふと、ランハートの眦が吊り上がった気がする。
「へえ。どの辺りが? 」
「え? 」
「どのあたりが、私と不釣り合いだ? 」
垂れ目がちな瞳は、気づけば斜めに尖っている。
アデリーには見せなかった顔。
銀の瞳は獲物を見定めた獣のように、冷酷さが露わとなり、見る者を一瞬で凍らせる。
氷の公爵とは、まさに彼のことだ。
確実に周囲の温度が下がる。
「冗談も程々にしろ」
いつになく低音の響き。
「ひっ」
令嬢は蒼白となり、冷や汗をダラダラ垂れ流す。
「私の妻を侮辱する者は、誰であろうと許さない」
ランハートは言って、アデリーの肩に回す手に力を込めた。
彼の手は、氷の公爵との形容とは真逆で、やけに熱さを帯びている。触れられた部分から、じわりと熱が浸透していき、アデリーの頭のてっぺんから爪先までを満遍なく火照らせた。
帰りの馬車は、ランハート所有のものに同乗する。
座面の柔らかさに居心地の悪さを感じながら、アデリーは、もじもじと膝を擦り合わせた。
真向かいの男は、機嫌良さそうに、窓の外のを眺めている。
やるなら、今しかない。
アデリーは拳を握る。
「ランハート様」
「何だ? 」
こちらに顔を向ける。
いきなり、視線がぶつかった。
「あの、その」
まともに目が合い、アデリーは焦る。
「あ、あの。これは、鏡が提案したのであって。私はこのようなふしだらなことは、考えにも及ばないのですが。でも、鏡が、こうしろと」
「鏡? 何の話だ? 」
「で、ですから」
「何だ? 珍しく、言葉に詰まっているが」
「あ、あの……失礼します! 」
ええい!こんなもの、勢いだ!
アデリーは深呼吸すると、ランハートの唇に己の唇をぎゅっと押し付ける。
柔らかな感触。
目を見開いたまま、ランハートは固まっていた。
「あ、あれ? 無反応? 」
深呼吸し、もう一度押し付ける。
すぐに離して、銀色の瞳を覗き込んだ。
唖然とするランハート。
やがて、彼は顔を片手で隠し、肩を震わせる。
「アデリー。これでは、人工呼吸だよ」
笑いを堪えながら、指摘する。
アデリーは、顔を真っ赤にして俯いた。
「礼なら、これくらいしてもらいたいな」
ふと、後頭部に手を回された。かと思えば、すでに唇はランハートの唇に重なっていた。
引き結びを強引に割って入ってきた彼の舌先は、歯列を舐め、口腔を舐める。
あっと上げそうになった声は、深い口付けのせいで喉奥に止まる。
吐く息さえ吸い込まれ、アデリーは咄嗟に瞼を閉じた。
アデリーは手慣れたランハートに身を任せ、甘やかな感触を堪能した。
「やったわよ。鏡」
頬を上気させた自分の姿が映る。
アデリーは拳を突き上げた。
「何がですか? 」
訝しげな返事。
「お礼よ。ランハート様への」
鏡の提案通りに、上手くいった。
そっと唇の輪郭をなぞれば、まだ彼の感触が残っている。
「彼に惚れましたか? 」
ズバリ、と鏡が尋ねる。
「ほ、惚れた? 」
「恋する目ですよ」
「こ、恋? 」
これが、恋?
「そ、そんな。待って。私があの方を。本当に? これが恋? 」
急に心臓が早鐘を打つ。
村の娘達がきゃいきゃいとうれしそうにはしゃいでいた、これが恋?
「もしや、初恋ですか? 」
「は、初恋? これが? 」
「可愛らしい方ですね、あなたは」
いつになく優しい鏡の声。
アデリーは初めての感覚に戸惑い、顔中から湯気を吹き出した。
シュガー・アンド・サムは老舗のチョコレート専門店だ。
煉瓦造りの二階建ての外観は通り一遍、軒並み同じだが、シンプルな鍍金の施された鋳物製の看板が他店と比べて目を惹く。
陳列硝子には、色とりどりのチョコレートが宝石のように飾られ、訪れる者を釘付けにしていた。
それが今や、跡形もない。
「あんたもチョコレートを買いに来たのかい? 」
通りがかりの男は気の毒そうにそう言うと、肩を竦めてみせた。
「これは。一体」
「三日前だ。ボヤだよ」
シュガー・アンド・サムの外観は真っ黒に焦げ、一階の柱以外全て壊され、隙間風が吹き抜けていく。
絹地のカーテンも、大理石の床も、マホガニー製の陳列棚も、何もない。
真っ黒の空間。
「店主は無事だが。店がこれじゃあな、商売はしばらくは無理だな」
「そんな。月一の楽しみが」
メイドに雇われた頃からの、アデリーの楽しみ、いや、原動力でさえあったのに。
大事に残してあった給金の紙幣が、ぎゅっと握りしめたせいで皺くちゃになる。
悪いことは重なる。
「ちょっと。元メイド」
聞きたくもない声が真後ろに響いた。
「あんた。生きてたの? 」
子爵家の令嬢が、シャペロンを連れて仁王立ちしていた。
彼女とは、金の髪に翠緑の瞳が同じだが、服の好みまで似通っている。
淡いピンクの絹地に、胸元に施された小さなリボン飾り。
だが、一目で生地の違いがわかる。
裾のレース刺繍の繊細さが顕著だ。
令嬢はそのことにいち早く気づいて、鼻息を荒く捲し立てた。
「あんた、白雪姫の継母になって、処刑されたんじゃないの? 何で、こんなとこにいるのよ。それに、何よ、そのドレスは。メイドの分際で生意気ね。あんた今、何してんの」
そこへ、警護を兼ねた御者がアデリーを庇うように立ち塞がる。
令嬢はその御者の胸元の刺繍に、目を見開いた。
「ちょっと、ちょっと。この紋章は、もしかして」
百合が象られた紋章を、貴族ならば知らない者はいない。
「私の妻に何か用かな? 」
不意に第三者の声が割って入る。
濃紺の上着が、銀髪と銀の眼差しをひきたてる。すらりと背の高い、若い令嬢の憧れの代名詞。
「オーランド公爵閣下」
うそ、本物? と令嬢が呆然と呟く。
上位貴族の中でも筆頭の存在。夜会でも、同じ貴族を名乗ろうとも、下位になる者は声すら掛けることが許されない男。
「妻、ですって? 」
ムキーと、令嬢の目が吊り上がる。
「まさか、あんた、本当に? 」
王宮にいるはずが、町に唐突に現れた夫に、アデリーは目を丸くし、令嬢のことは頭から消えた。
「どうして、ここに? 」
ランハートは、馴れ馴れしくアデリーの肩に手を回して引き寄せる。
「王宮からの帰りだ。見覚えある馬車を見かけてね」
さっと脇に控えた御者が一礼する。
「買い物は済んだのか? ならば、私の馬車へ」
「え、ええ」
買い物は肩透かし。目的は潰えた。アデリーは力なく頷く。明らかに元気がない。
ランハートは不思議そうに翠緑の瞳を覗き込む。
それは、まさに新婚夫婦らしい甘さ。
放置された令嬢は足を踏み鳴らすと、拳を握り、一歩前へ出る。
「公爵。この娘は、本当は私とは何の血縁もない、ただのメイドです」
いきなり叫んだ令嬢の顔は、興奮して真っ赤だ。
「この娘は、あなたに相応しくありません! 」
周囲を憚ることなく、堂々と宣言されては、さすがにアデリーの顔が曇った。
何も公衆の面前で暴露することないじゃない。
令嬢の後先考えない行いに、辟易する。
通行人は、何事かと過ぎていった。
「面白い冗談だね」
ランハートは表情を変えず、笑顔で応対する。
「いえ。冗談ではありません。この娘は孤児です。閣下には不釣り合いです」
ふと、ランハートの眦が吊り上がった気がする。
「へえ。どの辺りが? 」
「え? 」
「どのあたりが、私と不釣り合いだ? 」
垂れ目がちな瞳は、気づけば斜めに尖っている。
アデリーには見せなかった顔。
銀の瞳は獲物を見定めた獣のように、冷酷さが露わとなり、見る者を一瞬で凍らせる。
氷の公爵とは、まさに彼のことだ。
確実に周囲の温度が下がる。
「冗談も程々にしろ」
いつになく低音の響き。
「ひっ」
令嬢は蒼白となり、冷や汗をダラダラ垂れ流す。
「私の妻を侮辱する者は、誰であろうと許さない」
ランハートは言って、アデリーの肩に回す手に力を込めた。
彼の手は、氷の公爵との形容とは真逆で、やけに熱さを帯びている。触れられた部分から、じわりと熱が浸透していき、アデリーの頭のてっぺんから爪先までを満遍なく火照らせた。
帰りの馬車は、ランハート所有のものに同乗する。
座面の柔らかさに居心地の悪さを感じながら、アデリーは、もじもじと膝を擦り合わせた。
真向かいの男は、機嫌良さそうに、窓の外のを眺めている。
やるなら、今しかない。
アデリーは拳を握る。
「ランハート様」
「何だ? 」
こちらに顔を向ける。
いきなり、視線がぶつかった。
「あの、その」
まともに目が合い、アデリーは焦る。
「あ、あの。これは、鏡が提案したのであって。私はこのようなふしだらなことは、考えにも及ばないのですが。でも、鏡が、こうしろと」
「鏡? 何の話だ? 」
「で、ですから」
「何だ? 珍しく、言葉に詰まっているが」
「あ、あの……失礼します! 」
ええい!こんなもの、勢いだ!
アデリーは深呼吸すると、ランハートの唇に己の唇をぎゅっと押し付ける。
柔らかな感触。
目を見開いたまま、ランハートは固まっていた。
「あ、あれ? 無反応? 」
深呼吸し、もう一度押し付ける。
すぐに離して、銀色の瞳を覗き込んだ。
唖然とするランハート。
やがて、彼は顔を片手で隠し、肩を震わせる。
「アデリー。これでは、人工呼吸だよ」
笑いを堪えながら、指摘する。
アデリーは、顔を真っ赤にして俯いた。
「礼なら、これくらいしてもらいたいな」
ふと、後頭部に手を回された。かと思えば、すでに唇はランハートの唇に重なっていた。
引き結びを強引に割って入ってきた彼の舌先は、歯列を舐め、口腔を舐める。
あっと上げそうになった声は、深い口付けのせいで喉奥に止まる。
吐く息さえ吸い込まれ、アデリーは咄嗟に瞼を閉じた。
アデリーは手慣れたランハートに身を任せ、甘やかな感触を堪能した。
「やったわよ。鏡」
頬を上気させた自分の姿が映る。
アデリーは拳を突き上げた。
「何がですか? 」
訝しげな返事。
「お礼よ。ランハート様への」
鏡の提案通りに、上手くいった。
そっと唇の輪郭をなぞれば、まだ彼の感触が残っている。
「彼に惚れましたか? 」
ズバリ、と鏡が尋ねる。
「ほ、惚れた? 」
「恋する目ですよ」
「こ、恋? 」
これが、恋?
「そ、そんな。待って。私があの方を。本当に? これが恋? 」
急に心臓が早鐘を打つ。
村の娘達がきゃいきゃいとうれしそうにはしゃいでいた、これが恋?
「もしや、初恋ですか? 」
「は、初恋? これが? 」
「可愛らしい方ですね、あなたは」
いつになく優しい鏡の声。
アデリーは初めての感覚に戸惑い、顔中から湯気を吹き出した。
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