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白雪姫の来訪
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その日、ランハートの帰りは遅かった。
いつになくぐったりとしており、メインルームに備えられたソファに、どっかりと座り込んだ。肘掛けに凭れ掛かかるように、頬杖をつく。
眉間には皺が寄り、険しさが顕著だ。
アデリーは心配ながら、話しかけられない雰囲気で、柱の影からしか様子を伺えない。
「そんなところに隠れていないで、こちらに来なさい」
ランハートはとっくにお見通しで、目を細める。
アデリーは、バツが悪そうに頬を赤らめながら、おとなしくランハートの真横に腰を下ろした。
「随分、お疲れですね」
言って、アデリーは横顔を伺う。
ランハートは苦笑いで頷くのみ。公務か私事か、何やら不味いことが生じているのは明白だ。
「旦那様」
控えていたロベルトが、見計らったかのようにランハートに耳打ちした。
「……それで、どこにいる? 」
たちまちランハートの銀色の目がギラリと光った。目つきが変わる。
「応接間にお通ししております」
「無下にも出来ないしな。仕方がない」
溜め息をつくと立ち上がった。
「あ、あの? 」
何かしらの事態が起こっている。
「君は自室に戻っていなさい。指示があるまで、決して出て来ないように」
早口で指示を出すと、ロベルトを連れてランハートはずかずかと大股で応接間へと向かった。
大人しく聞き分けの良い妻を演じている場合ではない。
何かが起こっているのは確か。
屋敷を守る妻として、知らんぷりなど出来ない。
アデリーは、薬指の指輪を片方の手で覆う。
屋敷を守るなんて、本当はただの建前。
ランハートの身が心配。理由は一つ。
はしたないのは、承知している。
アデリーは、ランハートの後をこっそり追いかけた。
「叔父様! お久しぶり! 」
ソプラノの声が弾む。
ドレスの衣擦れの音。続いた、パタパタ走る靴音。
「スノウ・ホワイト。何故、ここに? 」
いかにもの戸惑いを隠しもせず、ランハートが問いかける。
「だって叔父様ったら、全然会いに来てくださらないもの」
「なかなか王宮には行けないよ」
「嘘。馬車が停まっているでしょ、毎日」
「仕事が忙しくてね」
「宰相様と、何の密談? 」
間があった。
扉の外で聞き耳をたてるアデリーにまで、室内の空気の重さが伝わってくる。
びりびりと痺れ不要な感覚に、アデリーは唾を飲み下した。
「スノウ・ホワイト」
ぞくり、とするほど冷たいランハートの声。
「君は私を探りに来たのか? 」
決してアデリーには聞かせない響き。
氷の公爵。忘れていた呼び名を思い起こさせる。
「誤解よ。私は、あの女が叔父様を独り占めするのが、許せないだけ」
「アデラインは、私の妻だよ」
「でも、元は私の継母よ」
「今は違うだろう」
またしても、間が出来る。
「もう、いいわ。帰ります」
嘆息と共に近づいてくる靴音。
まずい!
寸前で、アデリーは部屋の真向かいの掃除用具庫に滑り込んだ。
ほどなくして、扉の開く音。
間一髪。
いらいらしたような速足の靴音。
それが聞こえなくなってから、やや重みのある靴音。ランハートだ。彼の音も聞こえなくなった。
ほっと息をつき、ようやくアデリーは掃除用具庫から出られた。
「奥様。お水をお持ちしました」
ノックを三回し、メイドが寝る前の水差しを持って来るのが日課だ。
いつもと変わりない夜。
しかし、アデリーはベッドから起き上がるや否や、マットレスを蹴り、一足飛びで真後ろの床に着地する。
貞淑な妻の顔ではない。
毒りんごを演じるときと同じ、警戒心剥き出しの厳しい相貌だ。
「ス、スノウ・ホワイト? どうして? 」
メイドではない。
この場にいるべきはずのない少女。
「馬鹿ね。空の馬車を帰らせたのよ」
窓から王宮の馬車が帰る様を確かめた。
まさか、誰も乗っていなかったなんて思いも寄らない。
油断した。
「あんただけは、許せない」
白雪姫は腰紐を引き抜くと、素早くアデリーの首に巻きつけた。
アデリーとて、十何年と稽古を続けて、反射神経も鍛えている。
それが、こんな小娘に隙をつかれてしまった。
やはり、ランハートの元へ嫁いでから、まともに稽古しなかったからか。
「お父様だけでなく、叔父様にまで色目を使って」
「い、色目なんか使ってない」
「よく言うわ。野暮ったかったくせに。今の格好は何よ。色仕掛けなんて、姑息な真似して」
「し、失礼な」
「本当のことでしょ」
「く、苦し……」
巻き付いた腰紐が、皮膚に食い込む。
本気だ。本気で白雪姫は命を奪いにかかってきている。
さらに皮膚を喰む腰紐に力が加わる。
紐は細すぎて、取り払えない。首を掻きむしっても、虚しく空を踠くだけ。
頭がくらくらする。
「アデリー! 」
不意に扉が開き、飛び込んで来たのは、ランハートだ。
息を切らし、荒く肩を上下させながら、額にびっしりと汗の粒を浮かせて、彼は物凄い目で睨みつけている。
普段の垂れた目はそこにはない。
視線で殺せるなら、そうしてやりたい。
国王に匹敵する冷酷さ。
「スノウ・ホワイト! 何の真似だ! 」
怒鳴り声は、ア アデリーが屋敷に来て初めてだ。
「わ、私は叔父様をたぶらかす悪魔を成敗しようと」
あまりの剣幕に、白雪姫も怯んでいる。
「アデリーに手出しするなら、たとえお前でも許さない」
「な、何よ。怖い顔して」
アデリーに巻きつけた紐を外し、白雪姫は気まずそうに唇を噛み締める。
大好きな叔父に叱り飛ばされるとは、予想していなかった。そんな顔だ。
「今すぐ城へ帰れ」
容赦なくランハートは言い放つ。
「わ、わかったわよ。馬車を用意してよ」
「言われなくとも」
ランハートは白雪姫の襟首を掴み上げると、廊下に放り投げた。
いつになくぐったりとしており、メインルームに備えられたソファに、どっかりと座り込んだ。肘掛けに凭れ掛かかるように、頬杖をつく。
眉間には皺が寄り、険しさが顕著だ。
アデリーは心配ながら、話しかけられない雰囲気で、柱の影からしか様子を伺えない。
「そんなところに隠れていないで、こちらに来なさい」
ランハートはとっくにお見通しで、目を細める。
アデリーは、バツが悪そうに頬を赤らめながら、おとなしくランハートの真横に腰を下ろした。
「随分、お疲れですね」
言って、アデリーは横顔を伺う。
ランハートは苦笑いで頷くのみ。公務か私事か、何やら不味いことが生じているのは明白だ。
「旦那様」
控えていたロベルトが、見計らったかのようにランハートに耳打ちした。
「……それで、どこにいる? 」
たちまちランハートの銀色の目がギラリと光った。目つきが変わる。
「応接間にお通ししております」
「無下にも出来ないしな。仕方がない」
溜め息をつくと立ち上がった。
「あ、あの? 」
何かしらの事態が起こっている。
「君は自室に戻っていなさい。指示があるまで、決して出て来ないように」
早口で指示を出すと、ロベルトを連れてランハートはずかずかと大股で応接間へと向かった。
大人しく聞き分けの良い妻を演じている場合ではない。
何かが起こっているのは確か。
屋敷を守る妻として、知らんぷりなど出来ない。
アデリーは、薬指の指輪を片方の手で覆う。
屋敷を守るなんて、本当はただの建前。
ランハートの身が心配。理由は一つ。
はしたないのは、承知している。
アデリーは、ランハートの後をこっそり追いかけた。
「叔父様! お久しぶり! 」
ソプラノの声が弾む。
ドレスの衣擦れの音。続いた、パタパタ走る靴音。
「スノウ・ホワイト。何故、ここに? 」
いかにもの戸惑いを隠しもせず、ランハートが問いかける。
「だって叔父様ったら、全然会いに来てくださらないもの」
「なかなか王宮には行けないよ」
「嘘。馬車が停まっているでしょ、毎日」
「仕事が忙しくてね」
「宰相様と、何の密談? 」
間があった。
扉の外で聞き耳をたてるアデリーにまで、室内の空気の重さが伝わってくる。
びりびりと痺れ不要な感覚に、アデリーは唾を飲み下した。
「スノウ・ホワイト」
ぞくり、とするほど冷たいランハートの声。
「君は私を探りに来たのか? 」
決してアデリーには聞かせない響き。
氷の公爵。忘れていた呼び名を思い起こさせる。
「誤解よ。私は、あの女が叔父様を独り占めするのが、許せないだけ」
「アデラインは、私の妻だよ」
「でも、元は私の継母よ」
「今は違うだろう」
またしても、間が出来る。
「もう、いいわ。帰ります」
嘆息と共に近づいてくる靴音。
まずい!
寸前で、アデリーは部屋の真向かいの掃除用具庫に滑り込んだ。
ほどなくして、扉の開く音。
間一髪。
いらいらしたような速足の靴音。
それが聞こえなくなってから、やや重みのある靴音。ランハートだ。彼の音も聞こえなくなった。
ほっと息をつき、ようやくアデリーは掃除用具庫から出られた。
「奥様。お水をお持ちしました」
ノックを三回し、メイドが寝る前の水差しを持って来るのが日課だ。
いつもと変わりない夜。
しかし、アデリーはベッドから起き上がるや否や、マットレスを蹴り、一足飛びで真後ろの床に着地する。
貞淑な妻の顔ではない。
毒りんごを演じるときと同じ、警戒心剥き出しの厳しい相貌だ。
「ス、スノウ・ホワイト? どうして? 」
メイドではない。
この場にいるべきはずのない少女。
「馬鹿ね。空の馬車を帰らせたのよ」
窓から王宮の馬車が帰る様を確かめた。
まさか、誰も乗っていなかったなんて思いも寄らない。
油断した。
「あんただけは、許せない」
白雪姫は腰紐を引き抜くと、素早くアデリーの首に巻きつけた。
アデリーとて、十何年と稽古を続けて、反射神経も鍛えている。
それが、こんな小娘に隙をつかれてしまった。
やはり、ランハートの元へ嫁いでから、まともに稽古しなかったからか。
「お父様だけでなく、叔父様にまで色目を使って」
「い、色目なんか使ってない」
「よく言うわ。野暮ったかったくせに。今の格好は何よ。色仕掛けなんて、姑息な真似して」
「し、失礼な」
「本当のことでしょ」
「く、苦し……」
巻き付いた腰紐が、皮膚に食い込む。
本気だ。本気で白雪姫は命を奪いにかかってきている。
さらに皮膚を喰む腰紐に力が加わる。
紐は細すぎて、取り払えない。首を掻きむしっても、虚しく空を踠くだけ。
頭がくらくらする。
「アデリー! 」
不意に扉が開き、飛び込んで来たのは、ランハートだ。
息を切らし、荒く肩を上下させながら、額にびっしりと汗の粒を浮かせて、彼は物凄い目で睨みつけている。
普段の垂れた目はそこにはない。
視線で殺せるなら、そうしてやりたい。
国王に匹敵する冷酷さ。
「スノウ・ホワイト! 何の真似だ! 」
怒鳴り声は、ア アデリーが屋敷に来て初めてだ。
「わ、私は叔父様をたぶらかす悪魔を成敗しようと」
あまりの剣幕に、白雪姫も怯んでいる。
「アデリーに手出しするなら、たとえお前でも許さない」
「な、何よ。怖い顔して」
アデリーに巻きつけた紐を外し、白雪姫は気まずそうに唇を噛み締める。
大好きな叔父に叱り飛ばされるとは、予想していなかった。そんな顔だ。
「今すぐ城へ帰れ」
容赦なくランハートは言い放つ。
「わ、わかったわよ。馬車を用意してよ」
「言われなくとも」
ランハートは白雪姫の襟首を掴み上げると、廊下に放り投げた。
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