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「連続不審火の犯人探しだよ」
 あっさりと橋本が白状したのは、二度目にバイクを停めたときだった。
 大黒谷地区と隣町の境目である七福川に掛かる橋を渡り、恵比寿川町に入る。大黒谷ほど開発の手は伸びてはいないものの、この町も変化の兆しを迎えていた。
 ハウスメーカーが競って建築する住宅は随分と戸数を増やし、一車線だった道路も余裕で対向出来るほどに広げられている。
 一昨年まで俺が所属していた管轄だ。
 橋本は児童公園の前に停めたバイクのハンドルにヘルメットを引っ掛けた。
「駄目ですよ」
「何がや」
「それは警察と火災調査官の管轄じゃないですか」
 いちレスキュー隊員が踏み込む余地はない。
 橋本の腰巾着の俺なら、同調するとでも思っていたのだろうか。それは、お門違いというものだ。
 とことん常識的な返答に明らかにがっかりしたようで、橋本は目線を斜めにして肩を落とした。
 帰れ帰れと手をひらひらさせ、俺を用無し扱いに転じる。
 この態度の変わり様。
 夏場になれば噴水で涼をとる親子連れで賑わうものの、まだ時期には早く、昼前の公園には未就学児を遊ばせる母親らが数えるばかりで、ひっそりとしている。
 橋本はバックパックのファスナーを開けると、そこからA4サイズの一枚の白い紙を取り出し、ぶつぶつ口中で呟きながら長い指を紙上で滑らせた。恵比寿川町の地図だ。幾ら俺が進言しようと、全く聞く耳を持たないらしい。
「ったく。しょうがないな」
 わざと橋本に聞こえるように大きく呟いたつもりだが、相手は何の反応も示さずに歩幅を大きくさせた。
 公園を横切ると、画一的なスレート屋根の新築の住宅が碁盤の目のように並ぶ路地に出た。元からある古家を取り壊し、建て替えるか、もしくは駐車場に整備し直した土地だ。
「不審火があったのは、ここら辺だよな」
 角地の薄ピンクに塗装された家の前で立ち止まった橋本は、地図と家を交互に見比べた。
「去年の二月やな、確か」
「この先の信号を右手に曲がった、建築資材倉庫が火元です」
 そうか、と橋本は地図上に赤ペンで×を書く。
「行くぞ」
「え?ちょっと?」
 もう橋本はすたすたと歩いている。駆け足で後を追う俺。
 目前の背中はやはり、筋肉の付き方が見事だ。
 嫌でもあの夜がフラッシュバックする。
 そういえば、どさくさ紛れに引っ掻いた背中の傷、どうなったんだろ。
 と、ふと考えて。
 やばい。血が妙な場所へ集中する。
 股間のふくらみがバレないようにもじもじしていたら、鼻先を思い切りぶつけてしまった。いきなり立ち止まるなよ。
「おい!」
 弾みで後ろに倒れかけた。ぐいいと、慌てて腕を引かれる。見た目通りに鍛え抜かれた固い感触。日々の鍛錬を怠っていない証し。
「ぼけっとすんな」
 誰のせいだよ。余計に思い出しちゃったじゃないか。
「お前?」
「……何でもありません」
 だから、俺の頭の中を読むなよ。必死に欲望と闘ってるんだから。
 俺の心の内が通じたのか。
「お前が助けた女の子、大したことなくて良かったな」
 あさっての方向に目をやって、橋本が呟く。話題が変わった。
「もうちょっと発見が遅れてたら、どうなってたか」
 病院から、煙を吸ってはいるがすぐに回復するだろうと署に連絡が入ったのは、鎮火して間もなくだ。蕎麦屋九庵の天井裏に潜んでいたのは、恵比寿川第三小学校四年二組、小沢亜里沙ちゃん。小学校での講義の際、一人だけ異質な雰囲気を保っていた少女だ。商業地で忽然と消えたと焦ったが、何のことはない、単に自分の家に入っただけだった。蕎麦屋九庵が彼女の住まいだ。
「よく頑張ったな」
 聞き覚えのあるフレーズ。
 いつも飄々としてるから、調子が狂う。
 はあ、と間延びした返事しか出来ない俺に、橋本はすぐさま顔面から笑みを消失させた。厳しい目つきで、地図に記したバツ印を赤ペンで何度もなぞっている。
 そうかと思えば、声さえ掛けずにまたもや勝手に歩き始めた。
 新興住宅地の中でそこだけ時間が停止してしまったかのような、築四十年は軽く越えていそうな煙草屋の前で足を止めた。たばこと書かれた煤けた赤い看板の他、今となってはレトロとしか言いようのない昭和四十年代のドリンクやカレーの琺瑯看板が、錆ついて最早元々の柄がわからなくなりながらもトタンの外壁に健在している。うなぎの寝床ともいえる、間口が狭い奥に細長い店で、正面の玄関の右側に小さな磨り硝子の窓がある。煙草を販売する薄暗いその窓の、カウンターの中には齢八十の老婆が鎮座していた。丸顔で猫背のその老婆を、一瞬、置物かと錯覚してしまった。瞼が垂れ下がった皺で隠され、表情が一切読み取れないので尚更だ。
「よお、富森のお婆ちゃん」
 橋本はジーンズのポケットから小銭を出すと、カウンターに置く。
「おや、まあ。橋本さん」
 言いながら、小銭と外国の銘柄の煙草を引き替えた。
「いつもいつも、心配かけてすまないねえ」
「その後は大丈夫?」
 大黒谷の特別救助隊全員が煙草を吸わないことは周知だ。吸いもしない煙草を購入する意図がわからない。
「火はね、出ていないんだよ。ただ、あれ以来、怖くて怖くて。特に夜になると。今もこうして、薬に頼って眠る生活だよ」
「俺が必ず犯人を捜してやるから」
「そうしてくれると、どんなに安心するか」
 会話の内容から、どうやら近隣の不審火によって憔悴する老婆を慰めているのが判明した。昨年まで恵比寿川の消防隊員として所属していた俺であるから、現場が店から程近いことは把握している。幸いにもボヤ程度で済んだが、確実に住民に恐怖を植え付けた。未だに放火魔が掴まっていないことも、不安を一層掻き立てている。
 二人の話をぼんやりと聞きながら、火が出た際にたまたま通りかかった橋本が、通報者であったことを知る。
 以来、彼は何かと周辺住民に気を配り、休み返上で犯人捜しに励んでいるのだ。
「橋本さんって意外といい人なんですね」
「何や、その意外ってのは。聞き捨てならん」
 不本意だと言わんばかりに唇を尖らせた橋本は、可愛らしい仕草もやけに様になっている。年相応の顔の造作も、表情一つで随分と変化することを俺はまた一つ知った。
 黙り込んでしまった俺を前に、橋本はしきりに目を泳がせる。
 普段、俺に対してちゃらちゃら振る舞っている分、いい人なんて評価は柄でもないと言いたそうだ。
「喉渇いたなあ。何か買うてくるわ」
「あ。じゃあ、炭酸系で。あ、俺、グレープ味は駄目なんで」
「おい。調子乗んなよ」
 そのままの勢いで背を向けると、陸上選手のような綺麗なフォームで走り去ってしまう。
「照れ隠しかよ。わかりやすい人だな」
 耳朶の赤さを思い出し、ぷっと吹き出してしまった。
 角を曲がって橋本の姿が見えなくなっても、いつまでもニタニタ笑って見送っていた。
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