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大河原警部
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「雪森さん、雪森さん!」
どんどんと扉が外から叩かれたのは、直後だ。
がらがら声の大河原警部だ。
雪森は慌てて窓を閉め閂を掛けると、何食わぬ顔で扉を開けた。
「話し声が聞こえましたが。誰かおったのですかな」
「僕一人です」
咄嗟にそう答えたのは、兄の名誉のためだ。
行状に目を瞑っていたが、嫁に入った女が賊の一味だと発覚して以降、父は神経をぴりぴりさせている。迂闊に亜季彦が顔を出したことを話せば、たちまち父の雷が落ちるのは目に見えていた。女にだらしない呑気な男だが、雪森にとっては優しい兄に変わりない。
「ふうむ。気のせいでしたかな」
大河原は雪森の肩越しに、ぎょろっと室内を見渡す。
柑橘の名残は夜風によってとっくに消えている。
だが、目聡い大河原がいつ兄の痕跡を探し出してくるかわからない。とにかく、部屋に入れては拙い。
「そ、それより警部。今、時間は」
「九時を三分ばかり過ぎたところですな」
「僕も書斎に向かいます」
すると、大河原は何やら思うところがあって、目を眇めた。
「幾ら賊が紳士怪盗などと呼ばれておっても、噂通りの男だとは思えませんな。凶器を隠し持っていないと、誰が断言出来ますか。雪森さんまで危ない目に合わせるわけにはいきませんよ」
くどくどと説かれている最中、雪森はおや、と違和感が生じた。
注意深く大河原に視線をやると、彼は雪森の固い意志の表れだと勘違いしたのか、髭を引っ張ってやれやれと首を横に振る。好きにしろ、と解釈出来た。
大河原の一歩後ろを雪森が続く。
途中、大河原は厨房に寄り、若い警官から茶盆を受け取った。
書斎に入るなり、充満する煙に雪森は顔をしかめる。煙草の匂いは苦手だ。息子の嫌煙をわかっていながら、何ら気にする素振りを見せない父に、悪意さえ抱いてしまうときがある。
大河原は紫檀の机に茶盆を置く。
湯気の立つ珈琲の芳しさと紫煙が室内で妙な化学反応を起こし、空気を澱ませた。
「一階に降りたついでに、珈琲を用意させましたよ。なあに、わしの部下が先に毒見しておるんで、ご安心を」
ぴりぴりと神経を張り詰めていた子爵は、すぐに温かい飲み物を口に含んだ。
猫舌らしく、大河原はわざとらしく口を尖らせ、ふうふうと白く立つ湯気に息を吹き掛けている。
雪森は全く口をつけなかった。
いつもなら気にも掛けない懐中時計の秒針が、いやに耳に触る。
珈琲は子爵の分だけが、すっかり空になってしまっていた。
予告まであと七分を切っている。
静まり返った部屋で気だるそうに椅子に腰掛け寄りかかっていた子爵は、欠伸を噛み殺す。ただひたすら待つのは、何と辛抱のいることかと呟いた。
「警部、時間は」
「あと三分ですな」
雪森と大河原は目を見合わせた。
子爵はすっかり神経が参ってしまったようで、うつらうつらと瞼を重そうにしている。
雪森の額にうっすらと脂汗が浮かんだ。
父が頼りない今、青蜥蜴との根くらべは自分しかいない。
本当なら家宝を奪って今すぐにでもどこかへ逃げ去ってしまいたかったが、青蜥蜴は一度たりとも予告を破ったことのない真摯を見せている。
だからこそ、卑怯な振る舞いは出来ない。チラッと過った思惑を胸の奥に押し込んだ。
とにかく、時間になった途端、歯向かえばよいのだ。
「警部、時間は」
「あと二分ですな」
ふと、足元で白いものが二度、三度と跳ねた。
ぎくり、と雪森は筋肉を固くする。
「ピンポン玉ですな」
ころころと扉の前まで転がった白い物を拾い上げるなり、大河原は鼻息で髭を動かした。
「おそらく、書棚から落ちたんでしょうな。親類の子供が悪戯で仕込んであったものではありませんか」
「まさか」
雪森は笑おうとしたが、声を掠らせただけだった。
「時間は」
「十時ちょうどですな」
どんどんと扉が外から叩かれたのは、直後だ。
がらがら声の大河原警部だ。
雪森は慌てて窓を閉め閂を掛けると、何食わぬ顔で扉を開けた。
「話し声が聞こえましたが。誰かおったのですかな」
「僕一人です」
咄嗟にそう答えたのは、兄の名誉のためだ。
行状に目を瞑っていたが、嫁に入った女が賊の一味だと発覚して以降、父は神経をぴりぴりさせている。迂闊に亜季彦が顔を出したことを話せば、たちまち父の雷が落ちるのは目に見えていた。女にだらしない呑気な男だが、雪森にとっては優しい兄に変わりない。
「ふうむ。気のせいでしたかな」
大河原は雪森の肩越しに、ぎょろっと室内を見渡す。
柑橘の名残は夜風によってとっくに消えている。
だが、目聡い大河原がいつ兄の痕跡を探し出してくるかわからない。とにかく、部屋に入れては拙い。
「そ、それより警部。今、時間は」
「九時を三分ばかり過ぎたところですな」
「僕も書斎に向かいます」
すると、大河原は何やら思うところがあって、目を眇めた。
「幾ら賊が紳士怪盗などと呼ばれておっても、噂通りの男だとは思えませんな。凶器を隠し持っていないと、誰が断言出来ますか。雪森さんまで危ない目に合わせるわけにはいきませんよ」
くどくどと説かれている最中、雪森はおや、と違和感が生じた。
注意深く大河原に視線をやると、彼は雪森の固い意志の表れだと勘違いしたのか、髭を引っ張ってやれやれと首を横に振る。好きにしろ、と解釈出来た。
大河原の一歩後ろを雪森が続く。
途中、大河原は厨房に寄り、若い警官から茶盆を受け取った。
書斎に入るなり、充満する煙に雪森は顔をしかめる。煙草の匂いは苦手だ。息子の嫌煙をわかっていながら、何ら気にする素振りを見せない父に、悪意さえ抱いてしまうときがある。
大河原は紫檀の机に茶盆を置く。
湯気の立つ珈琲の芳しさと紫煙が室内で妙な化学反応を起こし、空気を澱ませた。
「一階に降りたついでに、珈琲を用意させましたよ。なあに、わしの部下が先に毒見しておるんで、ご安心を」
ぴりぴりと神経を張り詰めていた子爵は、すぐに温かい飲み物を口に含んだ。
猫舌らしく、大河原はわざとらしく口を尖らせ、ふうふうと白く立つ湯気に息を吹き掛けている。
雪森は全く口をつけなかった。
いつもなら気にも掛けない懐中時計の秒針が、いやに耳に触る。
珈琲は子爵の分だけが、すっかり空になってしまっていた。
予告まであと七分を切っている。
静まり返った部屋で気だるそうに椅子に腰掛け寄りかかっていた子爵は、欠伸を噛み殺す。ただひたすら待つのは、何と辛抱のいることかと呟いた。
「警部、時間は」
「あと三分ですな」
雪森と大河原は目を見合わせた。
子爵はすっかり神経が参ってしまったようで、うつらうつらと瞼を重そうにしている。
雪森の額にうっすらと脂汗が浮かんだ。
父が頼りない今、青蜥蜴との根くらべは自分しかいない。
本当なら家宝を奪って今すぐにでもどこかへ逃げ去ってしまいたかったが、青蜥蜴は一度たりとも予告を破ったことのない真摯を見せている。
だからこそ、卑怯な振る舞いは出来ない。チラッと過った思惑を胸の奥に押し込んだ。
とにかく、時間になった途端、歯向かえばよいのだ。
「警部、時間は」
「あと二分ですな」
ふと、足元で白いものが二度、三度と跳ねた。
ぎくり、と雪森は筋肉を固くする。
「ピンポン玉ですな」
ころころと扉の前まで転がった白い物を拾い上げるなり、大河原は鼻息で髭を動かした。
「おそらく、書棚から落ちたんでしょうな。親類の子供が悪戯で仕込んであったものではありませんか」
「まさか」
雪森は笑おうとしたが、声を掠らせただけだった。
「時間は」
「十時ちょうどですな」
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