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4. 男爵令嬢ジャクリーヌ
しおりを挟む賑やかな舞踏会の片隅で、ルカは小さくため息を吐いた。
もう今夜は6人も相手に踊った。踊ったはいいが、あいかわらず目的の人物には接触できていないままだ。
リーズの指導のもとで女性が踊りやすい踊り方を身につけたルカは、貴族令嬢たちにしきりにダンスに誘われるようになった。
ルカの扮するフィルベルト・カルデローネという男は、令嬢たちにとって子爵という位の低さから気軽に声をかけることができる存在であった。
ベロム伯爵の友人という強力な後ろ盾があるとともに、彼自身も莫大な資産家であることにまず注目される。そして精悍な顔だちで目を引き、物腰も柔らかであることも令嬢たちの評価が上がる要因だ。おまけに本命はギュイヤール男爵令嬢という不毛な恋をしているという噂が流れている。遊び相手としては非常に都合の良い立場にあった。
そしてルカも自分の今の社交界での立ち位置を謳歌していた。貴族であればこうもちやほやされるのだと身を持って知ったのである。しかしベロム伯爵は醜聞などで噂になることは決して許さないとルカを強く牽制していたので、彼が放蕩に耽ることはなかった。
それに、最近のルカの頭の中では劇場でリーズに言われたことがぐるぐると回っていた。
“どうしてジャクリーヌ様が婚約破棄だなんて、そんな屈辱を受けなければならないの? 彼女が何をしたと言うの?”
正直なところ、ルカにはどうでもいいことだった。自分が益を得る上で誰かが泣きを見ようと知ったことではなかった。
それに父が罠に嵌められることで娘のジャクリーヌまでもが社交界で面目を失うなんてと言われてもピンとこない。婚約破棄されたときの貴族令嬢の屈辱など、ルカには想像もできなかった。
しかし、劇場で話したリーズのあの様子で、初めてこのままではいけないのだと感じた。
彼女は“私にやれることをやるわ”と言っていた。じゃあ俺にできることはなんだろうと考えたルカは、まずギュイヤール男爵の所業について自分で調べてみることにした。
貴族だからやはり貴族同士の揉め事なのかと思っていたが、驚いたことにギュイヤール男爵はこのルブロンの町の人々だけでなく王都も含めた多くの人達から恨みを買っていた。そのほとんどは貧民たちが対象だ。悪どいやり方で家や金を巻き上げ、私腹を肥やしていた。
しかしその一方で、彼の娘ジャクリーヌからは何も出なかった。社交界で踊らないのも、リーズが言った通り男性を避けているからという理由らしい。また父親と一緒にいるところを見た者はほとんどいなかった。おそらく父親の行いを彼女は知らないのだろう。
そこでルカは、思い切って雇い主のベロム伯爵に「男爵令嬢に罪はあるのか」と尋ねてみた。
すると、壮年は訝しげに眉を寄せた。
「確かに、ジャクリーヌ嬢には罪はない。だが父親がああなのだからどうなっても仕方あるまい……なんだお前、情が移ったのか? まだ会話すらできていないと思っていたが」
「そ、そんなんじゃありませんよ」
伯爵の言葉にルカは言いづらそうに下を向いた。
「ただ……わ、悪いことはしてねえのに、俺のせいでその、醜聞とやらが生まれて彼女が嫌な思いをするのは……その、寝覚めが悪いなって思った次第です。だからその、彼女を助ける道はねえのかなって思って」
伯爵は「ふん」と鼻を鳴らした。
「そんなことは私が考えることではない。どうでもいいことだ……まあお前がどうにかできるのなら好きにしろ。ただし私の計画を邪魔するようなら、すぐに裏の奴隷市場で売り飛ばしてやる」
ベロム伯爵の冷たい言い方に、ルカは背中をぞくりとさせた。彼なら本気でやりそうだ。
「わ、わかってますよ、そっちの邪魔する気はさらさらねえですから……」
伯爵は「いいか」と低い声で言った。
「お前とジャクリーヌ嬢の婚約発表はもうすぐだ。その後は計画を一気に進めるからな。覚悟しておけ」
結局、ルカはどうすればいいのかわからなかった。
今夜も舞踏会に赴いて複数の令嬢と踊ったはいいが、ギュイヤール男爵令嬢の顔は見てもいない。このまま何もせずに時が過ぎてしまうのだろうか。
ルカはふいにホールの奥に置いてある大きなピアノにちらりと視線を向けた。標的としている彼女はいつもその周辺にいるのだが、今夜は別のところにいるようだ。
探してみるか……と思ったとそのとき、ルカは後ろに誰かが立っていることに気づいた。
ルカがいる場所は会場の片隅、それも目立たないカーテンの裏だ。こんなところに一体誰がと目を細めて、目の前にいる人物が自分がこれから探そうとしていた女性であることに気づいた。嘘だろ、まさか。
「……ギュイヤール、男爵令嬢?」
ジャクリーヌ・ド・ギュイヤールは、黒髪を上にまとめあげ、ベルベットの濃紺のドレスに真珠が散りばめられた贅沢なドレスを着ていた。そして形の良い眉を寄せてこちらを警戒するような表情を向けている。瞳には、まるで敵を前にした騎士のような強い光が宿っていた。
不本意そうなのに、一体なぜここまで来てくれたのだろう。父親から婚約の話を聞いたのだろうか。
ルカがぐるぐると考えを巡らせていると、ジャクリーヌはつんとした口調で言った。
「あなたに渡してほしいと預かっているものがあるの」
「……え?」
ジャクリーヌが美しい絹の手袋をした手で差し出したものは、一通の手紙だった。
ルカはそれを受け取ると、裏返して差出人を見る。
何も書いていない。
なんだこれ。まさか……どこかの貴族の令嬢からのラブレターだったら笑えないぞ。
顔を歪めそうになったが、ジャクリーヌがいる前なので目を瞬かせるだけにとどめた。
「ええと失礼……ギュイヤール男爵令嬢、これはその、どなたからでしょうか」
ルカの問いにジャクリーヌは苛立たしげに言った。
「開けたらわかるわよ、いいから早くお読みなさい」
嫌悪を隠そうともしない言い方に、ルカは内心怯えながら俺は彼女とは絶対に結婚できないと思った。そして震えそうになる手で封を開ける。
「リ、リーズ・シャ、レ、ロワ……あ、そうか、リーズか……!」
ルカは差出人の正体がわかるとほっと胸を撫で下ろした。ああよかった、素性の知れない女からのラブレターじゃなかった!
青年のその嬉しそうな様子に、ジャクリーヌは一瞬だけ意外そうに目を丸くさせた。ルカはそれには気が付かずに手紙に目を通した。
“親愛なるフィルベルト・カルデローネ様
万一のためにこちらのお名前で書かせていただきました。先日私はジャクリーヌ様とお話する機会を得ました。そこで彼女の人となりを知り、やはりお救いしたいと強く思いました。
足しになるかわかりませんが、一応書いておきます:ジャクリーヌ様はあまりお父様とは仲がよろしくないようです。お母様が亡くなってからは特にそうらしくて、お食事も一緒に取っていないと聞きました。
それからジャクリーヌ様は旅がお好きで、今までに四回他国にご友人と旅行に出かけているそうです。また、港町コワルティエには仲の良いご親戚が住んでいらっしゃるとのことでした。
ジャクリーヌ様からはお話を伺っただけで、私は何もお話していません。ただ、フィルベルト様と少しでもお話をしていただけないかと話しました。そのきっかけにと、こちらの手紙をお渡ししていただくようお願いした次第です。
どうかあなたが、かつて私に向けられたものと変わらずお優しいお心でありますように。
あなたを信じています。
あなたの友人リーズ・シャレロワ”
手紙に並ぶ文字からは、ルカへの願いが込められているような温かさを感じた。
リーズは本気で彼女を助けようとしているのだ。俺にそれを託そうとしている。
ルカは手紙を握った手にぐっと力を入れた。
「それで」
手紙を読み終わったらしいルカを見て、ジャクリーヌは眉を寄せたまま言った。
「リーズさんに、あなたから大事なお話があると伺ったの。何かしら」
ルカは、こうして二人で話すことも嫌だという目つきを向けている彼女を見て少し迷ったが、「これから申し上げることは嘘ではありません」と言いながら手紙をきれいに折り畳んだ。そして真剣な表情で令嬢を見た。
「あなたのお父上ギュイヤール男爵は、もう15年も王都への税を払わずに着服しています」
ジャクリーヌは目を丸くさせた。
「……なんですって?」
「それだけじゃない、男爵は金貸しとしてずっと長いことあちこちから不当に金を巻き上げていました。二十年前、男爵はある人を騙し貶めて借金の地獄に陥らせた。途方もない金額で、払いようがなかったその人は自ら川に身を投げました。ミレイユという名前の女性でした。騙される方が悪いという言葉はよく聞きますが、彼女を死に追いやったのがギュイヤール男爵であることは隠しようもない事実です。そしてミレイユという人以外にもそんな人は大勢います」
「や、やめて……やめてちょうだい、う、嘘でしょう!」
そう叫んだジャクリーヌの顔は青ざめていた。手も少し震えている。
ルカは首を振って「いいえ、事実です」と言った。
「私が調べることができたのはここまでですが、どうやら他にもいくつか誰かの恨みを買ったり法に触れるようなことをしているようです。残念ながら、お父上の罪はもう逃れようがありません。お疑いならジャクリーヌ様ご自身で調べてみると良い。きっと家の書斎だけでわんさか証拠が出てきますよ」
「な、何が……何が目的? わ、私を脅そうとしているの」
ジャクリーヌが震える手を押さえながら言ったのに、ルカは冷静に首を振った。
「いいえ。どうか話を最後まで聞いてください……先ほどのミレイユという女性には父親が居ました。私はーーその父親に雇われたのです」
ジャクリーヌは目を見開いた。
「ギュイヤール男爵からできるだけ金を奪い、その後で男爵の罪を白日のもとに晒して裁判にかける、それが私の雇い主の目的です。私は……ギュイヤールの娘であるあなたと婚約を結び、持参金を奪うという役目を任されています。そして男爵の罪が明らかになったときに、婚約を破棄するという筋書きです」
ルカは、先ほどの堂々たる姿から一変して引き腰になっている令嬢に、心の中でどうか逃げないでくれと祈っていた。
あまりの衝撃と恥ずかしさからか、ジャクリーヌはいつのまにか俯いていた。ルカは彼女がもっと嘘だ違うと喚くのではと思っていたが、この様子ではどうやら彼女も父親に非があると薄々勘づいていたようだ。
ルカは続けた。
「私の雇い主が訴えずとも、いずれ他の誰かが告発する。ただ、彼の計画を邪魔することは私にとってそれは死に値します。ですから男爵の罪を暴くという計画はこのまま実行されるでしょう。証拠が揃いすぎている」
ジャクリーヌは黙り込んでいた。何もしなければ、おそらく自分が言った通りになるとルカは確信していた。だが、リーズに言われたことを無視するつもりはなかった。
「ただ……私がこうしてあなたに何もかもを話したのは、あなたに罪はないからです」
ルカは少し口調を和らげて言った。ジャクリーヌは顔を上げた。
「あなたはお父上の罪に関わっていなかった。それはちゃんとわかっています。だからあなたがこの計画に巻き込まれるのは筋違いです。私はあなたをこの件からお救いしたい。おこがましいことかもしれませんが、どうか一緒に方法を考えさせてくれませんか」
うわ、こんなお人好しな申し出、初めてだぞ。ルカは一生懸命貴公子らしい言葉を紡ぎながらそう思った。あの聖女様なら、もっと気のきいた言い方ができたかもしれねえけど。
しかしルカの言葉に、ジャクリーヌは目から涙を流していた。
「わ、私……」
しゃくり上げてから令嬢は言った。
「私、自分が恥ずかしい。あなたがここまで考えてくれていたのに、あなたにひどい態度をとっていたなんて……ごめんなさい、カルデローネ子爵、ほんとうに」
ルカは驚いた表情でジャクリーヌを見ていたが、状況が好転しそうな様子にほっと胸を撫で下ろした。
ジャクリーヌが泣き止むのをまってから、ルカは座れる場所へ案内しようとしたが、彼女はその会場の片隅から動こうとしなかった。
「ごめんなさい……家族でもない男性と二人で部屋に入ることはできないわ。二人でいるところを誰かに見られるのも嫌なの。ここでお願い」
ルカは目を丸くした。
リーズの言っていた男爵令嬢の“男嫌い”の度合いはわからないが、これは嫌いなどではなく“無理”なのだろう。ま、貴族令嬢としては賢明な判断か、とルカは頷いた。
ジャクリーヌはダンスホールで踊っている男女をぼんやりと眺めていたが、やがて深呼吸をして言った。
「……父が人から恨まれるような性格をしていることは知っているわ。あなたが言っていたような罪を犯していてもおかしくない。言われてみれば思い当たるところもある。もうしばらく口を聞いていないけど」
ジャクリーヌの声は諦めの境地に至っていた。
「でも気づけなかった私もばかね。同じ屋敷で暮らしているけど、借金で人を追い詰めるなんて非道なこと……考えもしなかった」
「あなたは悪くありませんよ」
ルカはすかさず言った。
「尋ねたところ、雇い主はあなたのことは憎んでいませんでした。あくまで彼の狙いはあなたの父親です。あなたを助けたければ好きにしろという許可も得ました」
「私を助ける? 無理よ、きっと父と一緒に牢屋行きだわ。運が悪ければ一生ね」
「そんなことはありません」
ルカは眉を寄せて真剣な目で言った。
「先ほどリーズの手紙を読んで思ったのですが……国境を越えた港町にご親戚が住んでいらっしゃるようですね。そちらに身を寄せてはいかがですか。あるいは屋敷の全財産を持ち出してご友人と長い周遊旅行にでかけるとか」
ルカの言葉に、ジャクリーヌは目を丸くした。
「ああ、そういうこと。あまり話したことのないリーズさんが妙に話しかけてくると思ったら、このためだったのね」
「傍観していないであなたを助けろと彼女が怒るもので。知ってます? 意外と怖いんですよ、彼女」
ルカはおどけて言うと、ジャクリーヌは小さく笑ってから少し沈黙してから呟くように尋ねた。
「……いいのかしら。私が逃げても」
「いいに決まっていますよ」
ルカは力強く頷いた。
「どんな形であれ、生き残るというのは大事ですよ。それに、たまたま旅行の計画をしていたということにしてもいいんじゃないですか? あなたはよくご友人とご旅行されるんですよね。きっと突然旅に出たとしても世間や男爵が違和感を覚えることはないはず。どうでしょう」
そう言ってから、ルカは「あっ」と思い出したように声を出した。
「持参金の件のことを忘れていました。私の雇い主は近々私たちの婚約を発表すると言っていました。婚約してしまえば私はあなたから持参金を受け取ってしまうことになります……早いうちに旅費を確保して国を出てしまった方が安全ではないでしょうか。ご親戚には旅先から手紙を送ることもできる。ご友人のご都合ももちろんあるかと思いますが」
ジャクリーヌは目を細めて微笑んだ。
「持参金なんてもらってしまえばいいのに。でも旅費はあればあるほどいいからそうさせてもらうわ……それにしてもあなた、頭がよく回るのね」
「一応雇われるだけの才覚はあるつもりです。まあ、目的のご令嬢にはとことん避けられてリーズの力を借りなければお話しすることも叶いませんでしたが」
「まあまあ、それは失礼しました」
小さく笑った後、彼女は瞳に強い光を宿して言った。
「明日すぐに友人のもとへ相談に行くわ。父には旅行に行くという手紙だけ残すつもり。前にもそうしたことがあるから変に怪しまれることはないと思う」
ルカは「それはよかった」と言ってから、しばらく沈黙した後、言いづらそうに尋ねた。
「その、失礼ながら……ご友人は信頼できる方でしょうか。その、もしお父上が勘づいてこの町から逃げるようなことがあれば私は……」
ベロム伯爵の思惑が失敗すれば、死よりも酷い目に合わされると予告されている。ルカはそれだけが気がかりだった。
ジャクリーヌは「大丈夫よ」と返した。
「彼女は友人というか、恋人なの。生涯を誓った仲よ。きっと私の事情を話せば味方になってくれるはずだわ。それにーー」
ジャクリーヌの顔から笑顔が落ちた。
「父は驚くほどに単純よ。私が居なくなったことになんて、気にも留めないわ。ほんとうに娘の私に興味がないの……その命を経ったミレイユという方は、お父上にそこまで愛されていたということよね。こんなことを私が言うなんておかしいと思うけど、ちょっぴり羨ましいくらい」
ジャクリーヌが遠い目をしてそう言ったのに、ルカは何と言ってやれば良いのかわからなかった。ルカ自身、父親などいたことがなかったので、そんな風に思ったことがなかったのだ。
ルカが黙っていると、ジャクリーヌは「あ、そうだわ」と彼の方を向いた。
「私とこうして話をしたことを、リーズさんにお知らせした方が良いのではなくて? ぜひお手紙の返事を書いて差し上げなさいよ」
「返事、ですか? 私が? リ、リーズに?」
すっとんきょうな声をあげたルカに、ジャクリーヌが大きく頷いた。
「あたりまえじゃない。彼女がこうして私と話をする場を設けてくれたんでしょう」
「で、でも、お、私は彼女の家がどこにあるのか知らないので……」
「私はリーズさんの姉キャロルと親しいの。だから家の住所を知っているから教えてさしあげます。紙とペンを借りてきてくださいな。さあ」
なんだこの女、急に元気になったな。さっきまで泣いて俺に感謝してたのに。ルカは頭に手をやりたくなる衝動を抑えながら彼女にしぶしぶ従った。
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