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非日常
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引き戸の閉まる音に驚き、入り口に目をやる。そこにはいつの間にか深谷さんが立っていて、僕に背を向けていた。
ああ、彼女が閉めたのか。音の理由に納得するも、新たに納得のいかないものを知る。
何故彼女は引き戸を閉めた?
普段であればさして気にならない他人の行動の理由に、しかし、僕は大きく疑問を抱いた。
何故僕はこんなに彼女の行動が気になる?
その疑問に対する答えは既に出ていた。出ているのだが、あまりにも抽象的すぎて、その答えを信じられないでいた。
違和感。
引き戸が閉まった瞬間である。突如として大きな違和感が僕を襲った。景色が変わったわけでもない。変な音を、匂いを、感じているわけでもない。それにも関わらず、何かが変わったと僕は悟っていた。
空気が変わったのだろうか。しかし僕がそれを知る根拠は何だ。
考えても、謎は深まるばかりだった。
パチン、と音がして、部屋を満たしていた蛍光灯の白い光が失せる。深谷さんがスイッチを切っていた。カーテンによって遮られた、色の薄い陽光が部屋を照らすが、先程と比べ景色は色褪せる。
深谷さんは、何が目的で電灯なんか消したんだ?
室内に静寂が訪れる。微かにでも聞こえていたはずの、蝉の声や運動部の掛け声が、今や耳を澄ましても届かない。おかしい。絶対になにかがおかしい。
異様だった。窓の向こうには、扉の先には、間違いなく日常があるはずなのに、この部屋だけがそこから切り離されているように感じた。僕は複雑ながらも日常に生きていたはずだったのに、気がつくと非日常の渦中にいるようだった。何度か訪れているはずの部室が、まるで違うもののように見える。漠然とした不安は、段々と恐怖へと変わっていった。
部長の実験とは違い、世間体や社会的立場の危険に対する恐怖ではなく、もっと深い、原始的な恐怖だった。
何故だ、何故だ、と不安定な精神が答えの分からぬ問いを自身に繰り返す。
居ても立っても居られなくなって、立ち上がろうとしたときだった。
ぐらり、と、突然視界が歪む。
何が起きたのか分からなかった。薄い色ながらもそれぞれの識別ができていた世界が、突如として混沌とした世界になった。まるで揺らめく水面を見ているかのようだ。物と物の区別が上手くつかず、混ざり合って一つの背景のようになっている。
だが何故か、扉の前にいる彼女だけは、前と変わらずはっきりと見えた。
ぐるり、とその彼女が首を動かし、横目でこちらを見た。その顔は深谷さんのものであるはずなのだか、霞がかった世界の中で唯一姿が変わっていないにも関わらず、まるで違うもののように思えた。
「うっ!」
突如彼女が全く別の存在に変わってしまったように思えて、混乱していた僕は声を出す程驚いた。そんな僕を見て、半分しか顔の見えない彼女は、にたり、と笑った。
その笑みは、普段のものと同じには思えなかった。同じ人間が、ここまで違う微笑み方ができるものなのか。
「どうしたの、真くん?」
その声を聞いて、僕はまた声を上げそうになった。絶対に見つかってはならない相手に後ろから声をかけられたかのような恐怖が身体を走る。
そして悟った。どんな方法を用いたのかは分からないが、この世界を作り出したのは彼女だ。
逃げろ。
本能の警告に、しかし身体は従わなかった。立とうとしても座ったままで、動こうとしても、気づかぬうちにだらんと下がった手の指一本さえ動かない。体は完全に脱力していた。
「あ、あ、」
何か言おうにも呂律が上手く働かず、意味の無い言葉が発せられるだけだ。
彼女はゆっくりと、恐怖を助長させようとしているのか、とてもゆっくりと歩き、僕に近づいてくる。
「動けないでしょ」
ぐにゃぐにゃと変わる世界の中で、形の変わらぬ笑みを浮かべながら彼女は言う。獲物を捕らえた罠の出来に満足しているようだった。僕は益々混乱し、恐怖する。
彼女は一体何者だ。何故僕をこんな目に遭わせた。これから何をするつもりだ。
答えは、出ない。
彼女との顔の距離が近づく。彼女の顔はやはり美しかった。だが今はそれがこの上ない恐怖の対象となっていた。
す、と無造作に彼女の指が僕の喉に触れる。その瞬間、喉元に刃物を突き付けられているかのような恐怖を感じた。生殺与奪は彼女の思うがままなのだと本気で思った。全身に悪寒が走り、皮膚が粟立った。
僕の恐怖を知ってか、彼女はくすっと笑った。僕は完全に弄ばれていた。彼女の行動を見ることしか出来ない僕は、それにより恐怖し、彼女を楽しませていた。
もし彼女がそれに飽きたら。
頭に思い浮かんだ疑問の答えを想像し、僕は身震いする。
「それじゃあ、ばいばい」
宣告が、下った。
片手で僕の喉に触れたまま、彼女はもう片方の手で眼鏡を外した。大きな瞳が僕を捉える。黒いそれは、さながら底の見えない深淵のようで、吸い込まれそうだった。深谷、彩花。その美しさに魅せられた人間は、今の僕のように、深い谷へ引き込まれていったのだろうか。
彼女は更に顔を近づけた。瞳に僕が映る。その表情は、自分でも驚く程強張っていて――
「いただきます」
そんな彼女の声が聞こえた。喰われる、と怖い程に実感した。理屈ではなく本能で、僕の全てが喰われてしまうと悟った。頭を傾け僕の首もとに顔を近づける彼女は肉食獣で、僕は捕えられた草食獣だった。
もう何も不思議に思わず、頭の中は逃げたいという一心だった。考えることは放棄していた。ただただ突き付けられる現実に従うしかなかった。まるで悪夢だ。現実ではありえないような事態を認知していて、早く夢から覚めなければならないと分かっているのに、体は思ったように動かない。
ああ。
僕は、死ぬのか。
ああ、彼女が閉めたのか。音の理由に納得するも、新たに納得のいかないものを知る。
何故彼女は引き戸を閉めた?
普段であればさして気にならない他人の行動の理由に、しかし、僕は大きく疑問を抱いた。
何故僕はこんなに彼女の行動が気になる?
その疑問に対する答えは既に出ていた。出ているのだが、あまりにも抽象的すぎて、その答えを信じられないでいた。
違和感。
引き戸が閉まった瞬間である。突如として大きな違和感が僕を襲った。景色が変わったわけでもない。変な音を、匂いを、感じているわけでもない。それにも関わらず、何かが変わったと僕は悟っていた。
空気が変わったのだろうか。しかし僕がそれを知る根拠は何だ。
考えても、謎は深まるばかりだった。
パチン、と音がして、部屋を満たしていた蛍光灯の白い光が失せる。深谷さんがスイッチを切っていた。カーテンによって遮られた、色の薄い陽光が部屋を照らすが、先程と比べ景色は色褪せる。
深谷さんは、何が目的で電灯なんか消したんだ?
室内に静寂が訪れる。微かにでも聞こえていたはずの、蝉の声や運動部の掛け声が、今や耳を澄ましても届かない。おかしい。絶対になにかがおかしい。
異様だった。窓の向こうには、扉の先には、間違いなく日常があるはずなのに、この部屋だけがそこから切り離されているように感じた。僕は複雑ながらも日常に生きていたはずだったのに、気がつくと非日常の渦中にいるようだった。何度か訪れているはずの部室が、まるで違うもののように見える。漠然とした不安は、段々と恐怖へと変わっていった。
部長の実験とは違い、世間体や社会的立場の危険に対する恐怖ではなく、もっと深い、原始的な恐怖だった。
何故だ、何故だ、と不安定な精神が答えの分からぬ問いを自身に繰り返す。
居ても立っても居られなくなって、立ち上がろうとしたときだった。
ぐらり、と、突然視界が歪む。
何が起きたのか分からなかった。薄い色ながらもそれぞれの識別ができていた世界が、突如として混沌とした世界になった。まるで揺らめく水面を見ているかのようだ。物と物の区別が上手くつかず、混ざり合って一つの背景のようになっている。
だが何故か、扉の前にいる彼女だけは、前と変わらずはっきりと見えた。
ぐるり、とその彼女が首を動かし、横目でこちらを見た。その顔は深谷さんのものであるはずなのだか、霞がかった世界の中で唯一姿が変わっていないにも関わらず、まるで違うもののように思えた。
「うっ!」
突如彼女が全く別の存在に変わってしまったように思えて、混乱していた僕は声を出す程驚いた。そんな僕を見て、半分しか顔の見えない彼女は、にたり、と笑った。
その笑みは、普段のものと同じには思えなかった。同じ人間が、ここまで違う微笑み方ができるものなのか。
「どうしたの、真くん?」
その声を聞いて、僕はまた声を上げそうになった。絶対に見つかってはならない相手に後ろから声をかけられたかのような恐怖が身体を走る。
そして悟った。どんな方法を用いたのかは分からないが、この世界を作り出したのは彼女だ。
逃げろ。
本能の警告に、しかし身体は従わなかった。立とうとしても座ったままで、動こうとしても、気づかぬうちにだらんと下がった手の指一本さえ動かない。体は完全に脱力していた。
「あ、あ、」
何か言おうにも呂律が上手く働かず、意味の無い言葉が発せられるだけだ。
彼女はゆっくりと、恐怖を助長させようとしているのか、とてもゆっくりと歩き、僕に近づいてくる。
「動けないでしょ」
ぐにゃぐにゃと変わる世界の中で、形の変わらぬ笑みを浮かべながら彼女は言う。獲物を捕らえた罠の出来に満足しているようだった。僕は益々混乱し、恐怖する。
彼女は一体何者だ。何故僕をこんな目に遭わせた。これから何をするつもりだ。
答えは、出ない。
彼女との顔の距離が近づく。彼女の顔はやはり美しかった。だが今はそれがこの上ない恐怖の対象となっていた。
す、と無造作に彼女の指が僕の喉に触れる。その瞬間、喉元に刃物を突き付けられているかのような恐怖を感じた。生殺与奪は彼女の思うがままなのだと本気で思った。全身に悪寒が走り、皮膚が粟立った。
僕の恐怖を知ってか、彼女はくすっと笑った。僕は完全に弄ばれていた。彼女の行動を見ることしか出来ない僕は、それにより恐怖し、彼女を楽しませていた。
もし彼女がそれに飽きたら。
頭に思い浮かんだ疑問の答えを想像し、僕は身震いする。
「それじゃあ、ばいばい」
宣告が、下った。
片手で僕の喉に触れたまま、彼女はもう片方の手で眼鏡を外した。大きな瞳が僕を捉える。黒いそれは、さながら底の見えない深淵のようで、吸い込まれそうだった。深谷、彩花。その美しさに魅せられた人間は、今の僕のように、深い谷へ引き込まれていったのだろうか。
彼女は更に顔を近づけた。瞳に僕が映る。その表情は、自分でも驚く程強張っていて――
「いただきます」
そんな彼女の声が聞こえた。喰われる、と怖い程に実感した。理屈ではなく本能で、僕の全てが喰われてしまうと悟った。頭を傾け僕の首もとに顔を近づける彼女は肉食獣で、僕は捕えられた草食獣だった。
もう何も不思議に思わず、頭の中は逃げたいという一心だった。考えることは放棄していた。ただただ突き付けられる現実に従うしかなかった。まるで悪夢だ。現実ではありえないような事態を認知していて、早く夢から覚めなければならないと分かっているのに、体は思ったように動かない。
ああ。
僕は、死ぬのか。
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