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第六章 over the clouds
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「やっぱりここに居たね、光くん」
「……」
入院病棟と外来病棟の連絡通路に位置する、光のお気に入りの場所。
陽当たり良好な中庭の隅っこで一人不貞腐れているところ、星野と稲葉にあっさり見つかってしまった。どうせ星野にはすぐバレると思ったが、光はどうしても一人で考え事をしたい時、この場所に来るのが癖になっていた。
星野は「無理せず稲葉先生とゆっくり考えたらいい」と光の頭を撫で、仕事があるのでと言って戻っていった。
稲葉は滅多に着ないスーツが堅苦しすぎたらしい。ネクタイを無造作に緩めながら「よっこらしょ」と声を漏らして光の隣の草むらに腰を下ろした。最近枯れた雑草や落ち葉の清掃がされたようで、裸の土が寒そうに見え隠れしている。膝を抱えて丸まっていた光は、吹きつける北風に身を震わせた。
隣で稲葉は風を受けながら空を見上げ、眩しそうに目を細める。
「ここがお前の新しい居場所か。外が好きなのは相変わらずだな」
「俺の家はここじゃねえし……」
「そういえば相羽さんの家はすごい豪邸らしいじゃないか。金持ちの息子になった気分はどうだ。お前さん貧乏性だからなあ、腰抜かしてんじゃないかってお嬢ちゃんたちが心配してたぞ」
「……別に。無駄に広くても中は窮屈でつまんねえ。俺たちの家はそっちじゃなくて……空に近いとこにある」
「そういえば高層マンションに引っ越したんだっけか。最上階は気持ちいいか?」
「……ああ。どんだけ音出ししても誰にも文句言われねえし、時々渡り鳥が目の前横切っていったりしてさ。俺らの曲、聴いてんの。雲が窓より下に来るときもあって、そんな時は決まって雨が降ってきて……」
つい饒舌に語り出す光を見つめながら、稲葉は自分より頭一つ分大きい彼の身体を抱き寄せ、ぽんぽんと優しく撫でてきた。その腕の中は思った以上に暖かい。
「よく頑張ったな」
何に対してのねぎらいなのか。
遠くに居て、連絡もろくに取らなかった稲葉が一体何を知っているというのか。――けれどその言葉は、弱い涙腺をじわじわと崩壊させる。
「大きくなっても、泣き虫は治らないなあ」
「うるせえ……泣いてねえし……」
「おめでとう、十八歳。生きてるだけでお前は十分頑張ってる」
「……」
生きろ、耐えろと叱咤激励ばかりする側に居た稲葉のその言葉は深く心に沁み込んでいく。ここ最近、色々ありすぎて疲れていたせいもある。けれどそれ以上に、桐吾のことを唯一理解してくれるこの男にそう言われると、今まで誰にも言えず我慢してきたことが一気に膨らんで溢れ出しそうだ。
「桐吾が今どこで何してるか、知ってるか」
「……知らない……もう、逢えない奴のことなんか……」
「何言ってんだ。会おうと思えばいつでも会えるんだぞ」
「……え」
「あいつの居場所はもう不明じゃない。檻の中に閉じ込められてるんだから、逃げられないんだぜ」
「そ……そうなの、か……?」
「ああ、文句も言いたい放題だ。あの置き土産に不満があるなら直接言えばいい。こう、ガラス越しの部屋で会うからな。アイツは殴りたくても手ぇ出せねえ」
光は「がははっざまあみろ」と笑う稲葉を不思議そうに振り返る。
「あいつは不器用な男だ。どこにいても結局お前が心配でしょうがねえくせして、父親らしいことができないことを今でも悔いている。毎回フラッと大金預けてきて、お前の治療と養育費以外に使うなって脅してくるぐらいにはな」
「……父さん……」
桐吾の姿を最後に見たのは裁判所の中だ。その時は勝行と片岡が両隣に居て、傍聴席から遠巻きに見つめていた。真ん中の被告人席で俯いていた父はすっかりやつれていて、光の憧れる姿とは遠くかけ離れたものだった。難しい裁判の内容を聞くのも、父を見続けるのも辛くて結局殆ど目を背けていた。勝行がずっと手を握っていてくれたから耐えられたようなものだ。
その後どこの刑務所に連れていかれたのかも、何年過ごすのかも知らない。ただもう、二度と逢えないものだとばかり思っていた。――そう稲葉に話すと、おかしいなと首を傾げられる。
「お前が唯一の身内だから弁護人から何らかの説明があったり、判決通知の手紙か何かが届くはずなんだが」
「手紙? そんなもん、知らない」
「そうか……オレのところには桐吾から一方的に連絡がきて、返信する手段がないんだ。お前に会えばわかると思ったんだが……そうか……未成年だからそういうのは届かないのかもしれん。弁護人の名刺か何か持ってたら、預かってもいいか」
桐吾のことを根ほり葉ほり聞きに来た大人たちの中に、そんな人間がいた気がする。
光はしばし考えたのち、学校指定の通学カバンを持ったままだったことを思い出し、中を引っ掻き回した。インナーポケットの中には数枚の名刺。春に入院していた時、代わる代わる病室にやってきた男たちが押し付けてきたものだ。その塊を渡すと、稲葉は吟味した後、一枚の名刺を引き抜いた。
「多分これだな。借りていいか」
「うん」
「東京には明日までいるから……ホテルでコピーしたら返す」
「……持ってても使わないから。稲葉センセにあげる」
「だが光、お前も自分でこの人に連絡をとってみれば……」
「いい、いらない。俺はもう、あいつに会わないって決めたんだ。きっと勝行が嫌がるし」
光はきっぱりそう告げると、立てた膝に再び顎を乗せ「さっきの金も要らないから返しといて」と吐き捨てた。
憮然としたままの光の態度を見て、稲葉は困った表情を浮かべる。
「なら手紙を書かないか」
「手紙?」
「ああ。一言だけでもいい。俺が届けてきてやるよ」
俺はあのバカのマヌケ顔を拝みに行きてえからな。そう言って再び遠慮なしに笑う稲葉の腕の中で、光はぼんやりと地面を見つめた。寒くなっても尚地面を這い続けるシロツメクサが、他の雑草に混じって根強く生きていた。
「……」
入院病棟と外来病棟の連絡通路に位置する、光のお気に入りの場所。
陽当たり良好な中庭の隅っこで一人不貞腐れているところ、星野と稲葉にあっさり見つかってしまった。どうせ星野にはすぐバレると思ったが、光はどうしても一人で考え事をしたい時、この場所に来るのが癖になっていた。
星野は「無理せず稲葉先生とゆっくり考えたらいい」と光の頭を撫で、仕事があるのでと言って戻っていった。
稲葉は滅多に着ないスーツが堅苦しすぎたらしい。ネクタイを無造作に緩めながら「よっこらしょ」と声を漏らして光の隣の草むらに腰を下ろした。最近枯れた雑草や落ち葉の清掃がされたようで、裸の土が寒そうに見え隠れしている。膝を抱えて丸まっていた光は、吹きつける北風に身を震わせた。
隣で稲葉は風を受けながら空を見上げ、眩しそうに目を細める。
「ここがお前の新しい居場所か。外が好きなのは相変わらずだな」
「俺の家はここじゃねえし……」
「そういえば相羽さんの家はすごい豪邸らしいじゃないか。金持ちの息子になった気分はどうだ。お前さん貧乏性だからなあ、腰抜かしてんじゃないかってお嬢ちゃんたちが心配してたぞ」
「……別に。無駄に広くても中は窮屈でつまんねえ。俺たちの家はそっちじゃなくて……空に近いとこにある」
「そういえば高層マンションに引っ越したんだっけか。最上階は気持ちいいか?」
「……ああ。どんだけ音出ししても誰にも文句言われねえし、時々渡り鳥が目の前横切っていったりしてさ。俺らの曲、聴いてんの。雲が窓より下に来るときもあって、そんな時は決まって雨が降ってきて……」
つい饒舌に語り出す光を見つめながら、稲葉は自分より頭一つ分大きい彼の身体を抱き寄せ、ぽんぽんと優しく撫でてきた。その腕の中は思った以上に暖かい。
「よく頑張ったな」
何に対してのねぎらいなのか。
遠くに居て、連絡もろくに取らなかった稲葉が一体何を知っているというのか。――けれどその言葉は、弱い涙腺をじわじわと崩壊させる。
「大きくなっても、泣き虫は治らないなあ」
「うるせえ……泣いてねえし……」
「おめでとう、十八歳。生きてるだけでお前は十分頑張ってる」
「……」
生きろ、耐えろと叱咤激励ばかりする側に居た稲葉のその言葉は深く心に沁み込んでいく。ここ最近、色々ありすぎて疲れていたせいもある。けれどそれ以上に、桐吾のことを唯一理解してくれるこの男にそう言われると、今まで誰にも言えず我慢してきたことが一気に膨らんで溢れ出しそうだ。
「桐吾が今どこで何してるか、知ってるか」
「……知らない……もう、逢えない奴のことなんか……」
「何言ってんだ。会おうと思えばいつでも会えるんだぞ」
「……え」
「あいつの居場所はもう不明じゃない。檻の中に閉じ込められてるんだから、逃げられないんだぜ」
「そ……そうなの、か……?」
「ああ、文句も言いたい放題だ。あの置き土産に不満があるなら直接言えばいい。こう、ガラス越しの部屋で会うからな。アイツは殴りたくても手ぇ出せねえ」
光は「がははっざまあみろ」と笑う稲葉を不思議そうに振り返る。
「あいつは不器用な男だ。どこにいても結局お前が心配でしょうがねえくせして、父親らしいことができないことを今でも悔いている。毎回フラッと大金預けてきて、お前の治療と養育費以外に使うなって脅してくるぐらいにはな」
「……父さん……」
桐吾の姿を最後に見たのは裁判所の中だ。その時は勝行と片岡が両隣に居て、傍聴席から遠巻きに見つめていた。真ん中の被告人席で俯いていた父はすっかりやつれていて、光の憧れる姿とは遠くかけ離れたものだった。難しい裁判の内容を聞くのも、父を見続けるのも辛くて結局殆ど目を背けていた。勝行がずっと手を握っていてくれたから耐えられたようなものだ。
その後どこの刑務所に連れていかれたのかも、何年過ごすのかも知らない。ただもう、二度と逢えないものだとばかり思っていた。――そう稲葉に話すと、おかしいなと首を傾げられる。
「お前が唯一の身内だから弁護人から何らかの説明があったり、判決通知の手紙か何かが届くはずなんだが」
「手紙? そんなもん、知らない」
「そうか……オレのところには桐吾から一方的に連絡がきて、返信する手段がないんだ。お前に会えばわかると思ったんだが……そうか……未成年だからそういうのは届かないのかもしれん。弁護人の名刺か何か持ってたら、預かってもいいか」
桐吾のことを根ほり葉ほり聞きに来た大人たちの中に、そんな人間がいた気がする。
光はしばし考えたのち、学校指定の通学カバンを持ったままだったことを思い出し、中を引っ掻き回した。インナーポケットの中には数枚の名刺。春に入院していた時、代わる代わる病室にやってきた男たちが押し付けてきたものだ。その塊を渡すと、稲葉は吟味した後、一枚の名刺を引き抜いた。
「多分これだな。借りていいか」
「うん」
「東京には明日までいるから……ホテルでコピーしたら返す」
「……持ってても使わないから。稲葉センセにあげる」
「だが光、お前も自分でこの人に連絡をとってみれば……」
「いい、いらない。俺はもう、あいつに会わないって決めたんだ。きっと勝行が嫌がるし」
光はきっぱりそう告げると、立てた膝に再び顎を乗せ「さっきの金も要らないから返しといて」と吐き捨てた。
憮然としたままの光の態度を見て、稲葉は困った表情を浮かべる。
「なら手紙を書かないか」
「手紙?」
「ああ。一言だけでもいい。俺が届けてきてやるよ」
俺はあのバカのマヌケ顔を拝みに行きてえからな。そう言って再び遠慮なしに笑う稲葉の腕の中で、光はぼんやりと地面を見つめた。寒くなっても尚地面を這い続けるシロツメクサが、他の雑草に混じって根強く生きていた。
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