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第七章 俺が欲しいのはお前だ
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……
…… ……
愛しい人には常に触れて、体温を感じて、息遣いが聴こえていないと怖くなる。幻想世界の住人たちとの区別がつかなくなるから。
あの日を境に、母も幻想世界の住人になった。床に散らばる無数の血痕。何度呼んでも、白目を剥いたまま返事をくれなくなった母の身体。
思い出すたび、彼女の恨みがましい声だけが耳について離れない。
『光、あんたのせいよ……』
「……ひかる、光」
何度も名を呼ばれて、意識が現実に引き戻される。今聴こえた声は母じゃない。勝行のものだ。では肉体は?
眼前に浮かぶのは、血の海の中で倒れている勝行の姿。
「いや……っ」
咄嗟に手を伸ばしたら何かにぶち当たった。それからふわりと抱きしめられる。
この穏やかな空気、甘い香り、がっちりした感触、ほどよい温もり。全部覚えているものだ。
一番好きな人。
「大丈夫だよ、俺はここにいる」
「……」
「また怖い夢をみた? 最近毎晩だな……。不眠症の薬も貰っといた方がいいかもしれない。もう年末だし。そうだ、今夜も一緒に寝ようか。俺のベッドでいい?」
一番好きな、声。
(ああ……偽物じゃない……)
もう、どこにも行かないで欲しい。置いていかないでくれ。
ケイがいなくなった。
冬の街に降り注ぐあの雪のように、いとも簡単に消えた。勝行もあんな風に消えてしまいそうで怖い。
そんな漠然とした不安を胸に抱えたまま、光は勝行の腕の中で声を殺して泣いた。
勝行はただただ優しくキスをしながら、朝までずっと髪を撫でていてくれた。
**
二学期の終業式も終わり、保の企画した三日連続のクリスマスライブが始まった。
初日は学校からライブハウスに直行し、少人数のワンマンライブ。
それは最近発足したファンクラブの会員だけが参加できる、プライベートパーティーのようなライブだった。
来てくれた人にはWINGSからプレゼントを手渡しするという企画がついていて、二人はサンタコスチューム姿で客を出迎え、プレゼントを渡し、一時間のミニライブを行った。
ちゃっかり護衛の片岡と父・修行もやってきて、目のやり場にものすごく困った勝行の様子は見ていて可笑しかった。
光は知り合いが観に来てくれたらうれしいと思う方なのだが、どうやら勝行はそうでもないようだ。
「勝行さんっ、サンタの帽子がお似合いですよ! たいへんたいへん、お可愛いらしい……」
「ど……どうも……」
だが女性だらけの列に混じり、嬉々として勝行のプレゼントを受け取りにいく片岡の変態じみた感嘆を聴いて、少しばかり同情した。あれでは確かに、対応に困る。
「ねえサンタさん、プレゼントって何が入ってるの? 僕が手紙でお願いしたやつ?」
光のところには、WINGSを本物のサンタと勘違いした子どもがやってきた。同伴の親がファンなのか、少年がファンなのかはよくわからない。親が慌てて引き留めようとしたけれど、光は気にせず彼にプレゼントを渡し、にっと笑った。
「悪いな、お前の欲しいもんは別のサンタに頼んであるんだ。それはクリスマスまで待ってろ。これは今日来てくれたお礼に焼いたケーキだ。俺らの歌聞きながらこれ食って楽しんでくれるか」
「えーっ、サンタさんが作ったの?」
「お、おう」
「すごい! サンタの作ったケーキ!」
その声を聴いた周りのファンたちが「えっそうなの?」「ヒカルの手作り?」とどよめき出す。正確に言うと小さなカップケーキだし、事前に晴樹があらかた焼いてくれていて、光が手伝ったのはほんの一部。どちらかというと、トナカイの顔やサンタの顔に飾りつける方が楽しくて、あんまりケーキの生地作りには関わっていない。それでもキラキラの目でこちらを見つめる子どもは、ヒカルではなくサンタのケーキが食べられることをを喜んでいるのだ。あえてややこしい現実は言わないことにした。
「ありがとう。すごい意外。ヒカルは子どもに優しいんだね」
「え……?」
子連れのファンにそう言われて、光は戸惑った。言われてみればよく小児科病棟では看護師に面倒見のいいお兄ちゃんだと褒められたことがある。確かに小さい子の相手は苦手ではない。女性相手に愛想を振りまくよりはよっぽどマシだと思った。
ライブはトナカイに扮した着ぐるみ姿の晴樹が司会進行をして、保が会場や衣装をファンシーに作り込んだ、まさに手作り感満載のアイドル風イベント。純粋にWINGSを応援してくれるファンに囲まれ、セットリストはアップテンポで明るい楽曲を中心にセレクト。子どもから大人までが楽しめるクリスマスパーティーライブは結果大盛況だった。
何よりもクリスマスというイベントで、誰かに喜んでもらえるようなことができたことが嬉しい。こじんまりとした少人数のライブは、観客の存在がうんと近くて、どこか懐かしい感じがした。
二日目は木曜ミッドナイトジャズステージ。二人はグランドピアノとサックスに楽器を変えて、大人だらけのビッグバンドに飛び入り参加した。
勝行がサックスを吹き鳴らす姿を見るのは久しぶりだ。とても気持ちよさそうにビブラートやタンギングをかけて伸びやかな音を演奏する。それはまるで歌のように。
光はいつも通り自由気ままなソロピアノを披露した。即興で作る自由な楽曲こそ、ジャズと相性がいい。好きに演奏していたら、他のメンバーが音を合わせてノってきてくれる。二曲だけと言いながら、相当な長さの即興セッションをずっと続けていた。
「やっぱWINGSといえばコレだな」という常連客たちも、演奏を聴きながらバーカウンターで盛り上がり、チップを沢山置いて行ってくれた。
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愛しい人には常に触れて、体温を感じて、息遣いが聴こえていないと怖くなる。幻想世界の住人たちとの区別がつかなくなるから。
あの日を境に、母も幻想世界の住人になった。床に散らばる無数の血痕。何度呼んでも、白目を剥いたまま返事をくれなくなった母の身体。
思い出すたび、彼女の恨みがましい声だけが耳について離れない。
『光、あんたのせいよ……』
「……ひかる、光」
何度も名を呼ばれて、意識が現実に引き戻される。今聴こえた声は母じゃない。勝行のものだ。では肉体は?
眼前に浮かぶのは、血の海の中で倒れている勝行の姿。
「いや……っ」
咄嗟に手を伸ばしたら何かにぶち当たった。それからふわりと抱きしめられる。
この穏やかな空気、甘い香り、がっちりした感触、ほどよい温もり。全部覚えているものだ。
一番好きな人。
「大丈夫だよ、俺はここにいる」
「……」
「また怖い夢をみた? 最近毎晩だな……。不眠症の薬も貰っといた方がいいかもしれない。もう年末だし。そうだ、今夜も一緒に寝ようか。俺のベッドでいい?」
一番好きな、声。
(ああ……偽物じゃない……)
もう、どこにも行かないで欲しい。置いていかないでくれ。
ケイがいなくなった。
冬の街に降り注ぐあの雪のように、いとも簡単に消えた。勝行もあんな風に消えてしまいそうで怖い。
そんな漠然とした不安を胸に抱えたまま、光は勝行の腕の中で声を殺して泣いた。
勝行はただただ優しくキスをしながら、朝までずっと髪を撫でていてくれた。
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二学期の終業式も終わり、保の企画した三日連続のクリスマスライブが始まった。
初日は学校からライブハウスに直行し、少人数のワンマンライブ。
それは最近発足したファンクラブの会員だけが参加できる、プライベートパーティーのようなライブだった。
来てくれた人にはWINGSからプレゼントを手渡しするという企画がついていて、二人はサンタコスチューム姿で客を出迎え、プレゼントを渡し、一時間のミニライブを行った。
ちゃっかり護衛の片岡と父・修行もやってきて、目のやり場にものすごく困った勝行の様子は見ていて可笑しかった。
光は知り合いが観に来てくれたらうれしいと思う方なのだが、どうやら勝行はそうでもないようだ。
「勝行さんっ、サンタの帽子がお似合いですよ! たいへんたいへん、お可愛いらしい……」
「ど……どうも……」
だが女性だらけの列に混じり、嬉々として勝行のプレゼントを受け取りにいく片岡の変態じみた感嘆を聴いて、少しばかり同情した。あれでは確かに、対応に困る。
「ねえサンタさん、プレゼントって何が入ってるの? 僕が手紙でお願いしたやつ?」
光のところには、WINGSを本物のサンタと勘違いした子どもがやってきた。同伴の親がファンなのか、少年がファンなのかはよくわからない。親が慌てて引き留めようとしたけれど、光は気にせず彼にプレゼントを渡し、にっと笑った。
「悪いな、お前の欲しいもんは別のサンタに頼んであるんだ。それはクリスマスまで待ってろ。これは今日来てくれたお礼に焼いたケーキだ。俺らの歌聞きながらこれ食って楽しんでくれるか」
「えーっ、サンタさんが作ったの?」
「お、おう」
「すごい! サンタの作ったケーキ!」
その声を聴いた周りのファンたちが「えっそうなの?」「ヒカルの手作り?」とどよめき出す。正確に言うと小さなカップケーキだし、事前に晴樹があらかた焼いてくれていて、光が手伝ったのはほんの一部。どちらかというと、トナカイの顔やサンタの顔に飾りつける方が楽しくて、あんまりケーキの生地作りには関わっていない。それでもキラキラの目でこちらを見つめる子どもは、ヒカルではなくサンタのケーキが食べられることをを喜んでいるのだ。あえてややこしい現実は言わないことにした。
「ありがとう。すごい意外。ヒカルは子どもに優しいんだね」
「え……?」
子連れのファンにそう言われて、光は戸惑った。言われてみればよく小児科病棟では看護師に面倒見のいいお兄ちゃんだと褒められたことがある。確かに小さい子の相手は苦手ではない。女性相手に愛想を振りまくよりはよっぽどマシだと思った。
ライブはトナカイに扮した着ぐるみ姿の晴樹が司会進行をして、保が会場や衣装をファンシーに作り込んだ、まさに手作り感満載のアイドル風イベント。純粋にWINGSを応援してくれるファンに囲まれ、セットリストはアップテンポで明るい楽曲を中心にセレクト。子どもから大人までが楽しめるクリスマスパーティーライブは結果大盛況だった。
何よりもクリスマスというイベントで、誰かに喜んでもらえるようなことができたことが嬉しい。こじんまりとした少人数のライブは、観客の存在がうんと近くて、どこか懐かしい感じがした。
二日目は木曜ミッドナイトジャズステージ。二人はグランドピアノとサックスに楽器を変えて、大人だらけのビッグバンドに飛び入り参加した。
勝行がサックスを吹き鳴らす姿を見るのは久しぶりだ。とても気持ちよさそうにビブラートやタンギングをかけて伸びやかな音を演奏する。それはまるで歌のように。
光はいつも通り自由気ままなソロピアノを披露した。即興で作る自由な楽曲こそ、ジャズと相性がいい。好きに演奏していたら、他のメンバーが音を合わせてノってきてくれる。二曲だけと言いながら、相当な長さの即興セッションをずっと続けていた。
「やっぱWINGSといえばコレだな」という常連客たちも、演奏を聴きながらバーカウンターで盛り上がり、チップを沢山置いて行ってくれた。
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