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第十一話「唯花と研二」7

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 残された撮影も終わり、リテイクがなければここで撮影は終わりになる。

 役者にとって準備に費やす時間は長いが、本番となる撮影の時間は短い。だからこそ、その時間に全神経を集中して役者は臨むわけだが、撮影日に合わせてベストな状態に持っていける人間こそが生き残っていける、シビアな業界でもあった。

(やっと終わった……)

 控え室に戻って、開放感と共にどっと疲れが押し寄せてくる。
 唯花は早々に帰り支度を済ませて、そそくさとスタジオを出た。
 あまり感想を求められても困るのが今の心情だった。

 陽はすでに落ちて、夜の帳が訪れる。
 タクシーに乗り込み、夜の街を走る。
 これから唯花はこの都会の街から、自分たちが住む街へと帰る。
 車内から窓の方に視線を移して空を見上げると、代わり映えのない、この世界が映る。
 
 煌びやかな風景の広がる偽物の世界より、こっちの方が自分たちにはふさわしい。
 唯花は心の中でそう思った。

(……今日のドラマだって、みんな本当の私を見ることなく、天海聖華として楽しんだり、批評したり、恨めしそうに見たりするんだろうな……)

 それはたぶん、ずっと変わらないことなんだろうなと唯花は思った。

(私だと知らないで見る方が素直で純粋な感情を持って鑑賞できる。それは見る人にとっても、私情を挟まずストレスフリーに見れるということだからいいことで、私にとっても好都合なことであり、だからこそ、私は安心して演じられる)

 それはとても歪なことだが、この業界の中では当たり前に存在することだった。

 今の唯花にとっては、天海聖華と黒沢研二が釣り合っているかなど、どうでもいいこと、それは周りが勝手に判断することでしかない。

 こうして一人でタクシーに帰っている時間も、唯花は一人であることに安心していた。

 自分の中で作り上げた偽善な感情を見られたくない、それは年頃の唯花のモラトリアムな深層心理だった。

(あんな演技、恥ずかしいし誰にも見られたくないって思うのに、でも、いっそ、知られてしまったほうが楽になれると思ってしまう自分もいる。
 本当にバカにみたい、こんなこと考えるくらいなら、やらなければいいのに……)

 学生の本分を超えた背伸びをした仕事を終え、唯花は後悔を背負い込んだ心境の中にあった。

 唯花の中にある憂鬱な感情。

 こんな時、唯花はつい浩二に早く会いたいと思ってしまう。

 心の拠り所として“依存している”。それはどうしようもないほど自覚していることだが、こんなバカなことを考えてしまう自分を受け止めてくれるのも、唯花にとって浩二だけなのだった。

(言葉だけでいい……、それだけで、この身体に残って消えない嫌な臭いも、消し去ってくれるから……)

 浩二の事を考えれば考えるほど、弱い自分の心が露出していく。
 唯花は疲れているのに、眠ることなくタクシーでの時間を過ごした。 

 すっかり日が暮れて夜になり、唯花が家に帰宅した頃には、隣の家の電気はすでに消えて暗くなっていた。
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