愚者のオラトリオ

Canaan

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第1章 What's Going On?

04.ラスキン、怒りの残業代請求

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「足元に気をつけろ。破損の恐れがあるものは、面倒でも昇降機を使え!」

 資料室の移動には、ベネディクトと、ベネディクトの今期の生徒たちが駆り出された。
 司令部からやや離れた場所に「白鼬(はくゆう)騎士団・準備室」とプレートのかかった部屋があったのだが、白鼬騎士団は数年前に解散されており、現在は「知る人ぞ知るサボり部屋」と化していたのだ。
 ベネディクトは何度もその部屋の前を通っていたが、「白鼬騎士団・準備室」のプレートはすっかり風景の一部となってしまっていて、何かを疑問に思ったことはなかった。
 だがステラはさっそくそこに目をつけた。部屋の所有権を新人教育課に移す手続き──すでに解散した騎士団だったので実際の所有権は司令部にあり、申請書類をほんの数枚提出するだけだった──を済ませると、「おいバーキン。貴様の生徒を貸せ」と言ってきたのである。

 まずは、元「白鼬騎士団・準備室」の中にあった机やベンチを外に出してから部屋の中を清掃した。次に現在の資料室にある荷物を運ぶわけだが、いったん棚の中を空にしなくてはならない。それから資料の類と棚を別々に移動させる。一日がかりの作業となった。
「ラスキン教官! この書類って、こっちの引き出しに入れればいいんですか?」
「ああ。年代別になるように仕分けてもらえると助かる」
「ラスキン教官! このファイルって……?」
「ああ、それは俺がやっとくわ」
 ベネディクトは研修生たちに指示しつつ、今後の授業計画を頭の中で練り直していた。今日の引っ越し作業で潰れたぶんの授業を、どこかに組み込まなくてはいけないからだ。

「おい、貴様ら。今日はご苦労だったな」
 棚の整理が終わった頃にステラがやって来た。
 彼女は引っ越し作業の監督をしたあと、姿が見えなくなっていた。だからこそ棚の整理はのびのびとやることができたのだが、それでも「いいご身分だよな」とベネディクトの心はささくれ立ってくる。
 ステラが部屋の中へ入ってくると、研修生たちは姿勢を正して壁際に退いた。完全に委縮してしまっている。彼女が普段団長を務めている黒鴎騎士団の団員たちは、皆こんな感じなのだろうか。彼らを哀れに思うとともに、教官長の怪我が奇跡的に良くなって早く復帰してくれないかな、とも思った。
 研修生たちに向かって、ステラは親指でベネディクトを指した。
「あとで、こいつに褒美の肉でもおごってもらえ」
「……。」
 研修生たちの手を借りたからには、もとよりそのつもりだ。自費で彼らの腹を満たしてやるのは決してやぶさかではない。だが、なぜステラ・ハサウェイに命じられなくてはいけないのだ。
 さらに言えば、彼女がベネディクト以下におごるのが筋というものでは? 
 もっとも、彼女と食卓を囲むなど御免被りたい事案ではあるが。
 立場的に彼女には逆らえないが、トラブルでもない限り、教官とその研修生たちの関係にここまで立ち入ってくるのは教官長の仕事ではない。さすがに一言いってやるべきなのではないだろうか。
 今黙っていたら、この先二ヶ月あまり、ステラ・ハサウェイの独裁を許すことになるような気がした。

「最後に、この部屋のプレートを付け替えなくてはな」
 ステラは「新人教育課・資料室」と記されたプレートをひらひらと振ってみせた。そして踵を返すと廊下へ出ていき、上を見あげた。
 プレートの土台は扉の上の壁に貼りつけられている。「白鼬騎士団・準備室」のプレートをスライドさせて取り出し、新しいものに付け替えなくてはいけない。
 ベネディクトと研修生たちも廊下へ出て上を見あげる。この中で一番背の高いベネディクトが背伸びしても届くかどうか、という微妙な高さであった。
 つま先立ちしてみて届かなかったら恥ずかしいな、なんて考えてしまったベネディクトだ。ここにいるのが男だけだったら、そんな想像をする前に実際にやってみて、届かなかった場合は「やっぱダメだったわ。脚立持ってくる」と笑っていただろう。ということは、ステラ・ハサウェイの前でカッコつけたいなんて意識が自分にあるということなのだろうか。
 なんだか不本意な気持ちになった。ステラ・ハサウェイの前で恥をかきたくないなど……それは、カッコつけの無駄遣いである。そう判断したベネディクトは一歩前に出ようとした。

 でも、それよりも先にステラがぴょんと飛び上がった。
 そしてドア枠に指だけでぶら下がったかと思うと、自分の身体をぐぐぐっと持ち上げたのである。
 男の騎士でも、指だけで自分の身体を持ち上げられる者はそういない。そして女のほうが身体が軽いとはいえ、女の指懸垂などベネディクトはこれまで見たことがなかった。
 同じことを思ったらしい研修生たちがどよめいた。
 ステラはさらに右手の指だけで身体を支え、左手で「白鼬騎士団・準備室」のプレートをスライドさせて外した。
「受け取れ」
 それをこちらに放り投げてよこしたので、ベネディクトは反射的に受け取ってしまった。彼女は胸ポケットに収めていた新たなプレートを取り出すと、右手の指で自分の身体を支えたまま、それをはめ込んだ。
 その後は綺麗に着地し、自分の指先を見つめ、付着していた埃を払った。そして呆気にとられるベネディクトたちに目もくれず立ち去って行った。

「おい。ちょっと……待ってくれよ」
 ベネディクトは彼女を追いかけた。
 侯爵令嬢という身分から「お飾り」の黒鴎騎士団の騎士団長を務め、団員たちを顎で使う。そして船の上で振るっている権力を、ベネディクトたちにも振るっている……そんな風に考えていたが、もしかしたら、違うのかもしれない。「お飾り」の騎士団長が指懸垂なんてするだろうか? あれは地道な鍛錬を積んだ者にしかできないはずだ。
「代理! ハサウェイ教官長代理!……うっ!?」
 そう言いながら彼女を追いかけると、ステラは突然ぴたりと止まった。ステラにぶつかったベネディクトはよろめいた。
「あ、すいません……!」
 不可抗力とはいえ、女に体当たりするかたちになってしまった。思わず謝罪の言葉を口にしたが、その後で気がついた。
 なんで俺の方がよろめかなくちゃいけないんだ……? と。
 ステラはびくともしなかった。身長的にも体格的にも、ベネディクトの方が大きい。二倍とまではいかなくても、目方の差は一・五倍以上あるだろう。そのうえベネディクトは小走りだったから、勢いもあった。普通に考えたら、ステラは弾き飛ばされて尻餅をついていたはずなのだ。それなのに、自分の方がよろめいたのである。
 改めて彼女の得物を見る。腰のカットラス。背中とブーツの短剣。物騒ではあるが、それだけでベネディクトの目方を上回るとは思えない。
 ベネディクトはもう一度彼女の全身をざっと確認した。上着の中にさらなる武具を隠しているようには見えなかった。つまり、ステラ・ハサウェイは見かけよりも重い。そして──そこで彼女の足元を見る──船の上で過ごす時間が長いからだろうか、彼女は体幹も鍛えられている。バランス感覚にも優れているのだ。
 彼女は鋼のような筋肉を纏っているのではないだろうか。指懸垂といい、見かけよりも重そうなことといい、そうでなくては説明がつかない。
 彼女は「お飾り」の騎士団長ではないのかもしれない。

 何を言うべきなのか分からずにいると、ステラの方が先に動いた。すっと腕を持ち上げ、廊下の向こうのほうを指し示す。
「あっちに、教材室として使えそうな部屋があったぞ。見たところ、緑鷲(りょくしゅう)騎士団の『サボり部屋』だな。ご立派に団旗だけは飾ってあるが、たいした用途はないみたいだ。あとで、緑鷲騎士団の団長と交渉してくるつもりだ」
「え……?」
 ベネディクトは驚いた。彼女は面倒な力仕事を避けていた訳ではない。資料室の次は、教材室に使えそうな場所を探していたのだ。
「それから、貴様にも褒美を与えねばな。今日一日の労働、実にご苦労だった」
「え? いや……」
 一言文句を言ってやろうとしてステラを追いかけたはずが、うっかり気後れしてしまったベネディクトだ。だが、彼女はまた予想外の言葉を口にした。
「緑鷲騎士団との交渉を済ませた暁には、貴様に家畜を一頭くれてやろう。ヒツジか? ヤギか? それとも別の何かがいいのか?」
「え……?」
 金ではなく家畜が約束されるとは、これまた古風な考え方だと思った。それとも海軍では、こういった取引が主流なのだろうかとも思った。
「本来ならば馬車のひとつでも用意してやるべきなのだろうがな。それはさすがに無理だ。家畜で我慢しろ」
 しかし、後に続いたステラの言葉でようやく理解した。
 自分は別に犯すための家畜や馬車が欲しいわけではないし、本当にそういった趣味はないし、そもそも馬車はサイズ的に無理だと思う。
「え? ちょっ、違……違うんだって、」
「貴様の趣味にとやかく言うつもりはないが……やる時は、一応、人目を気にしろ。ばれないようにやれ」
 彼女はそう言ってバンッとベネディクトの腕を叩いた。
 女の力にしては、痛かった。めちゃくちゃ痛かった。
 間違いない。ベネディクトは確信した。
 ステラ・ハサウェイは「お飾り」の騎士団長ではなく、鍛錬を積み、実力でのし上がってきた女だ。しかし侯爵令嬢が、なぜ、どうやって。
 もちろん本人に訊ねる度胸はなく、そして彼女の振る舞いを咎めるようなセリフも出ては来ず、ベネディクトはただ黙ってステラの後姿を見送った。



「おい、バーキン」
 数日後、その日の業務日報をまとめていると、机のすぐ傍にステラが立っていた。彼女は紙の束をこちらへ突きつける。
「……なんすか、これ……?」
「貴様の、先月ぶんの業務日報だ。不備があるだろう。書き直せ」
 見てみると、確かに先月提出した業務日報だった。教官たちの業務日報をチェックして押印するのは教官長の役目でもある。先月ぶんにはまだ押印されていない。ハンコを押す前に教官長が怪我をしたからだ。それをステラが引き継いでいる。そこまではわかる。しかし、不備なんてあっただろうか。
「……不備っすか?」
「貴様、残業の記録をつけていないだろう」
 研修内容や、研修生のいる時期といない時期で変わることもあるが、ここ最近の定時は十八時であった。
「ここ数日の貴様の行動を見ていて思ったが……バーキン。貴様、居残りした日も十八時にあがったことにしているだろう」
「はあ」
 深夜と呼べそうな時間帯まで居残った日はさすがに記録をつけるが、三、四十分の居残りであればベネディクトは記録を省いていた。残業代などたいしてつかないし、わざわざ申請してまで手に入れたい金額ではない。
「たいした違いはないっすよ」
「だめだ。書き直せ。貴様がそんな風だと、下の者が申請し難くなるだろうが」
「え……」
「書き直せ」
 数年前まで、新人教育課の中でベネディクトとヒューイが一番若かった。しかし今は後輩と呼べる教官も数人いる。それから教官たちの助手を務める若い騎士や兵士たちもいた。
 下の者が遠慮するという彼女の言い分には頷けた。だが、
「えーと、お言葉ですがハサウェイ代理。それは休暇中に働いている貴女にも言えることっすよね? 貴女が働いていると、他の騎士団員たちは気後れして満足な休暇が取れないんじゃないっすか」
 もともとステラ・ハサウェイに対しては良い感情を抱いていなかったこともあり、ベネディクトにしては刺々しい物言いになった。
 しかし彼女はさらに刺々しい言い方で返してきた。
「私のほうは後で調整する。今は貴様の話をしているんだ」
「いや、しかし……ひと月前の居残り時間なんて覚えてないっすよ。今月からしっかり記録しますんで」
「ならば思い出せ」
「……は?」
「思い出して書き直せ」

 この女、何を言ってやがるんだ?

 ベネディクトは女性が好きだ。女ならば誰でもいいから寝たいとか、そういうことではなく、日常に女性がいる風景を愛していた。騎士は男だらけなので、数少ない女騎士や城で働くメイドたちの存在を、とてもありがたく受け止めていたのだ。
 すれ違った時にちょっといい香りがしたり、重い荷物を運ぶメイドを手伝ってやった時に笑顔でお礼を言われたり、男では到底出せない彼女たちの甘くてふわふわした雰囲気を味わうのが好きだった。
 それに、女ならば絶対に可愛らしくあるべきとも思ってはいない。ヒューイの妻となったヘザーは、その辺の男どもよりずっとカッコよかった。話しやすくて、彼女との会話をベネディクトは楽しんでいた。

 それが、ステラ・ハサウェイときたら……。
 話しやすさなど微塵もない。無茶は言うわ、他人の名前を間違えるわ、ぶつかった時にこっちがよろめくわで、可愛げというものがまっっっっったく見受けられない。それどころか腹立たしさしか感じない。
 教官長の代わりに女性が来ると知ったときは不覚にも喜んでしまったが、喜んでしまったからこそ失望も大きい。
 こんなことなら、一人では靴紐も結べない足手まといのご令嬢がやってきた方が何倍もマシである。
 女性に対してここまでイラつき、腹を立てたのは初めてかもしれない。
 ベネディクトは唇を引き結び、唾を飲み込んだ。
 一時的なものではあるが、彼女は自分の上官だ。ここでブチ切れて机をひっくり返す訳にはいかない。
 落ち着け、ベネディクト・バーキン……じゃなくて、ラスキン。
 心の中でそう唱え、深呼吸した。それから、
「ええ。ええ、ええ、ええ。わかりましたわかりました、わかりましたよ! 直しゃいいんでしょう!」
 ステラから紙の束を奪うようにして、彼女から顔をそむけた。
 結局はブチ切れるかたちになってしまったが、机をひっくり返さなかっただけ我慢したと思う。
「わかったならさっさとやれ、クソが」
 しかしそんな罵倒が飛んできて、やっぱり机もひっくり返して暴れてやれば良かったと思った。

 ステラがベネディクトの机から離れると、ヒューイと目が合った。
「ベネディクト、珍しいな。君が……そうなるのは」
「まったく、腹立つぜ、あの女ァア~……。お前だって、自分が言われてみろよ。ムカつくだろ?」
「普段は海軍の騎士たちを纏めているのだろう? あのぐらいでなくては、務まらんのではないか?」
「なんだよ、お前。あの女の肩を持つのかよー……」
 ヒューイは女と仕事をするのを嫌っている。少なくともヘザーが自分の部下になるまではそうだった。性別を武器にして楽をしようとしたり、泣けば許されると思っている女が多いから、やり辛い。女と一緒に仕事をするのは嫌だと言っていた。
「彼女は性別を盾にするタイプではないし、言葉はきついが、中身が伴っている。ヘタをしたら泣かされるのはこちらだぞ。ああいう者が上にいると、気が引き締まるな……」
「えぇ……」
 裏切り者め。そう口をついて出そうになったところで、ヒューイが机の上の時間割を指さした。
「先月の君の退勤時間までは把握していないが……何度か僕のクラスと合同授業を行っただろう? その時は君とほぼ同じ時間に上がっていた気がする」
「あ、ああ。そういやそうだったな、サンキュー」
 ヒューイの助けもあって、省いた部分をいくつか埋めることができた。この勢いで残りも埋めてしまおうと暦と時間割を見比べていると、ヒューイが立ち上がって机の上を片づけはじめる。時間を確認すると、十八時を五分ほど過ぎたところだった。
「おい、もう帰るのか? よかったらこの後さあ……」
 さっさと先月の日報を書き直して、酒場で愚痴を聞いてもらおうと思った。でも、すべてを口にする前に思い直す。ヒューイは早く帰りたいのだ。ベネディクトの愚痴を聞く暇があったら、妻と一緒に過ごしたいのだ。
「どうした? 手伝いが必要か?」
「……あ、いや。なんでもねえ……じゃあな」



 なんとか書き直した日報を提出すると、ベネディクトは酒場へ繰り出した。
 一人ということもあって、騒がしそうな店は避け、静かに飲めるであろう店を選んで中に入る。カウンターの席に着くと、腹を満たすよりも先に、まずは強い酒を注文して身体の中に流し入れた。
「マスター、同じのもう一杯」
 とにかく、むしゃくしゃしていた。いろんな感情が胸に巣食っている。ステラ・ハサウェイはこの上なく腹の立つ女であること。立場的に彼女には逆らえないこと。ついでにとんでもない誤解をされたままであること。
 人前であんな風に感情を爆発させてしまった自分にも苛ついているし、そうさせたステラ・ハサウェイにはもっと苛ついていた。
 そしてなによりもベネディクトの心に影を落としているのは、ヒューイにはすでに最優先するべき大切なものがあることだ。
 もしもヒューイにむしゃくしゃすることがあったなら、彼は酒場に来ることを選ばず──もともと酒に逃げることを選ばない男ではあるが──まっすぐに家に帰って、妻を抱きしめるのだろうなと思った。

「お兄さん、一人ぃ?」
 二杯目のグラスを受け取った時、隣の席に女が座った。
 彼女は襟ぐりが大きく開いたドレスを着ていて、白粉の匂いを漂わせている。商売女のように見えた。
「いい飲みっぷりだなと思って見てたのぉ」
「……『いい男だな』じゃなくて?」
 そう返すと、彼女はくすくすと笑った。
「そんなの、わかりきったことじゃない。いい男だと思わなきゃ、こっちから声かけないわよぉ。お兄さんの顔、すっごくあたし好み! 黒くてふさふさした髪もぉ、浅黒い肌の色もいいなあ。一見ワイルドなんだけどお、でも、濃いグレーの瞳が知的っていうかあ……とにかくステキ!」
「そりゃどうも。あんたも美人だよ」
「うふ。お兄さん、もしかして騎士なの? 鍛えてるんじゃない?」
「まあね」
 女はベネディクトのほうに身体を寄せると、腕をぺたぺたと触ってくる。「わ、すっごい筋肉ねえ」なんて言いながら、その手を胸の方まで這わせてきた。それから店の奥の方へある階段に目をやった。
「ね。それ飲んだら二階に行かない……?」
 そこでベネディクトもこの店のシステムを把握した。この店には娼婦がいて、気に入った女がいれば二階の個室に連れ込める方式だったのだ。
 ベネディクトはもう一度彼女を見る。
 そこそこ美人だし、プロだけあって、こっちを気持ちよくしてくれる会話を心得ている。もちろん身体のほうも気持ちよくしてくれるのだろう。
 金を払ってちやほやしてもらって、女を抱いたらむしゃくしゃした気分は晴れるだろうなと思った。ただ、そういうことをすると、多くの場合は終わったあとにひどい虚無感に襲われる。
 一時的に気は晴れても、その後やってくる大きな反動に太刀打ちできず、結局後悔しそうだなとも思った。
 だいたいステラ・ハサウェイに対するいら立ちをこの娼婦にぶつけてどうするというのだ。もちろん他の誰にもぶつけることのできない欲求を、金と引き換えに受け止めてくれるのが娼婦の仕事でもあるのだろう。
 しかし……ベネディクトの胸に巣食った苛立ちは、ステラ・ハサウェイの鼻をあかしてやることでしか晴れないことも分かっていた。
「悪い。このあと用事があるんだ」
「ええ~」
「ごめんな。ほら、好きなもん頼みなよ。俺が払っとくから」
 ちょっとでも期待させて申し訳ないという気持ちがあった。ベネディクトはカウンターにあったメニューを手に取ると、彼女へ渡す。
「いいのぉ!? やったあ!」
 女はぱっと顔を輝かせ、高い酒と料理を次々と注文した。一人では絶対に食べきれないほどの量だった。おそらくはこの店の中で暇そうにしている女の子たちを誘って、みんなで食べるつもりなのだろう。
 はっきり言って娼婦を買うより高くついたかもしれない。なんて現金な女だと思ったが、でも、これくらいわかりやすい女の方がこっちも気楽である。
 ステラ・ハサウェイの鼻をあかしてやりたいとは思っても、立場はこちらが下だし、口では勝てそうもない。拳を振り上げるわけにもいかない。彼女は並の男よりは強そうだが、実際にそんなことをしたら、こちらが人生の敗北者である。やり難いことこの上ない。

 金を払って店を出ると、冷たい小雨がぱらついていた。
「なんだよ……ついてねえな」
 気分が晴れないどころか雨にも降られるとは。
 大きなため息をつくと、ベネディクトは急ぎ足で帰路についた。

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