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16.氷解する心

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詩菜しいなお姉さま、どうしたの?」

 タクシーを使って帰宅したわたしに、夢芽ゆめちゃんが驚きの声をあげる。

「急いでたし、ちょっと足が痛くて……」
「大丈夫? お姉さま。それなら、うちのリムジンを呼べば良かったのに」
「……今度からそうする」

 そうは答えたものの、今度はないだろう。充分なお小遣いをもらっているのにリムジンまでお世話してもらうのは心苦しいし、今日のような事態がそうあるとも思えない。

夕謡ゆうたは帰ってる?」
「ええ。帰ってるわ。……お兄さまと何かあったの?」
「ちょっと、ね。大丈夫、今から解決してくるから」

 心配する夢芽ちゃんにそう言って、わたしは夕謡の部屋へと向かった。



「何? また僕にレイプされたいの」

 ノックしても返事がないので、わたしは了解を待たず夕謡の部屋へ足を踏み入れた。
 そんなわたしを夕謡は一瞥して、そう声をかけたのだ。言葉の激しさとは裏腹に、聞くものの心を冷え冷えとさせるような、そんな声音だった。

 わたしは自らを奮い立たせて、笑顔を作った。

「できればSEXがいいな。……夕謡のこと、好きだから、夕謡とちゃんと愛しあいたいよ」
「…………」
「ねぇ夕謡。わたし、子供の頃のこと思い出して……」
「SEXしたいのは、兄さんとだろ」

 夕謡はわたしに向き直ることのないまま、わたしの言葉を遮って言う。

「兄さんにクリフェラされて、あんなに甘い声だして……っ」
「違う、夕謡……っ」
「何が違うんだよ!!」

 夕謡が激昂する。わたしは怖気づきそうになったが、ここで引くわけにはいかない。

燈多とうた従兄にいちゃんに触れられて、気持ちよくなっちゃったのは本当。夕謡を傷つけて、とても反省してる。でも、クリフェラはしてもらってないよ!」
「……ふぅん」
「クリフェラは、わたしにとって特別だから。クリフェラ係は夕謡だけだから……」

 夕謡はやっとわたしのほうを見てくれた。

「……ごめんなさい、夕謡」

 わたしはその場に膝をついて、そして頭を下げた。夕謡が息を呑む。

「詩菜、きみは……」
「わたしは、夕謡を愛してます。だから、どうか許してほしい……」
「……っ」

 夕謡は椅子から立ち上がり、こちらへと近づいてくる。やがて足音はわたしの前で止まった。

「僕にあんなことされたのに、きみは……」

 そう言って、夕謡は膝を折った。

「……きみは、僕を許せるの」

 夕謡が絞り出すように言う。

「夕謡を追い詰めたのはわたしだもん。許すも許さないもないよ」
「詩、菜……」

 夕謡はしばらくそのままの体勢でいた、だが、やがて。

「立って、詩菜」
「夕謡?」
「僕に許しを請うきみなんて、見たくない……きみは、悪くない、から」
「……夕謡……」

 夕謡がわたしを立たせて、ソファまで連れて行ってくれた。そのまま、ふたり並んで腰かける。

「……僕の嫉妬がお門違いだってことは、わかってるんだ。詩菜は女の子だから、僕以外にクリフェラ係をもっても、何も責められる道理はない。それでも僕は……詩菜のたったひとりのクリフェラ係でありたくて……」
「夕謡……わたしね、思い出したんだ」

 わたしは先ほど言えなかったことを切り出す。今度は夕謡も耳を傾けてくれた。

「小さなころ……三歳くらいだったかな。燈多お従兄ちゃんに連れられて、ストゥプラに遊びに行ったことがあるんだ」

 わたしが三歳ということは、燈多は七歳。ストゥプラの小学部一年だったのだろう。

「その時、お従兄ちゃんとはぐれて、たぶん高等部の学舎に迷い込んじゃったんだ」

 夕謡は黙って続きを促す。

「そこで、クリフェラを受ける女子と、奉仕するクリフェラ係を見かけたの」
「……それで?」
「二人とも、すごく幸せそうだった。気持ちいいだけじゃなくて、お互いを想い合ってるのが伝わってきたんだ。……だから」

 わたしは夕謡をひたと見据えて続きを言った。

「だから、夕謡にわたしのクリフェラ係になってほしい、って言ったの。あの二人に、すごく、憧れたから……」
「……詩菜……」
「たぶんそれを、お従兄ちゃんは聞いてたんだと思う。自分のことはクリフェラ係にしてくれないのか、って訊かれた」
「……それで」
「わたしはいやだ、って言った。そうしたらお従兄ちゃんは、お婿さんにならなってもいい? って言ったの。わたしはいいよって答えた。……わたしにとっては、クリフェラ係のほうがずっと具体的に、幸せな男女関係の象徴だったんだ」

 夕謡は黙って、前で組んだ自らの両手を見つめた。わたしは彼が答えをだすのをじっと待った。

「……詩菜、ごめん」
「夕謡、謝らないで。悪いのはわたし……」
「詩菜がもう謝らないなら、僕もやめるよ」
「……!」

 夕謡が顔を上げてわたしを見つめた。

「僕は傲慢だったのかもしれない。僕の想いのほうが、詩菜が僕を想うよりずっと深いと思ってた。それで勝手に不安になって、詩菜に心からぶつかることができなかった。詩菜が僕に抱かれたがっているのを知りながら、壊してしまうだなんて……逃げてたんだ」
「夕謡……」
「詩菜の想いを信じてなかった。本当に、馬鹿だよ。僕は……」
「そんなことない、夕謡」

 わたしは夕謡の両手に自分の両手を載せた。握りしめるように心を込めて、そして、言った。

「ね、夕謡。もう一度、わたしのクリフェラ係になってください」
「詩菜」
「そして今度は……ちゃんと、恋人にもなってほしい」
「しい……な」

 わたしの手に熱いものが降りかかる。夕謡の、涙だった。

「詩菜、ありがとう……」
「ううん夕謡。わたしこそ……ありがとう」

 そのままわたしたちは、永い間手を重ねたままでいた。
 抱き合わなくても、くちづけなくても――手を重ねるだけで伝わる想いがある。そのことを知ったのだった。
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