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第三話 「心配無用です」

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 蚊の鳴くような声しか出なくて、それすら男の腕のなかでかき消された。他のごろつきが彼女のうなじに鼻を寄せる。その瞬間、アンニーナの背中にぞわっと悪寒が走った。
 
「柔らかくていい匂いがする。こりゃあ、金持ち平民のお嬢だな」
「俺たちがいるところに一人で来るなんて、運が良かったなぁ。充分に可愛がってやるぜ」

 周りの人々はみな見て見ぬふりをして、足早にその場を去って行く。先ほどまで元気に飲み物を売っていた青年も、知らぬ間に消えていた。相手は貴族だ、誰も助けてくれない。アンニーナは両側から腕を掴まれると引きずられるように歩かされる。

「いや、離して……っ!」

 ――こわいっ!

  これから何をされるか、考えるまでもなかった。いつも誰かが傍にいて守ってくれたので、治安のことは自分の頭からすり抜けていた。ここは女性が一人で歩き回るような場所ではない。

「誰か! 助けてくださ……っ」

 叫びもむなしく、大きな手で口を押えられる。男が一人背後から覆いかぶさってきて、尾てい骨のあたりに固くて熱いものを押し付けられた。アンニーナは本能的にそれが何か察して、凍り付く。

「がたがた騒ぐんじゃねぇよ。この場で挿れてやってもいいんだぜ」
「うう……っ」

 彼女の頬を涙がぽろぽろ伝わった。自分の無力さに打ちひしがれる。この場だろうと人気のない場だろうと一緒だ。ごろつきたちに犯されたら、ラウリに捨てられてしまう。あの屋敷を追い出されたら、アンニーナに行くところはないのに。

 ――それだけは嫌……っ!

「この女、軽いな。運んだ方が早いぜ」
「おお、確かに」
「や、やだっ、離して……っ」
 
 男の小脇に軽々と抱えられ、アンニーナは足をしゃにむに振り回す。裾がめくれて脚が出ようが、もう構っていられなかった。

「いや、お願いだから離して……っ!」
「うるせぇな、一発殴られたいのか、このアマ」

 正面に屈んだ男が、拳を振るう。

「きゃ……っ!」
 
 絶体絶命の危機だった。だが、驚くことが起きた。バンッと何かが落ちる音がし、気が付けば自分もその場に座り込んでいる。呆気に取られて後ろの物音に振り替えると、見知らぬ男性が三人を相手に抗戦の構えをとっていた。ゴロツキたちと比べると細身で若々しい背中だ。
 男性が一歩踏み出し自分より背の高い相手の懐に容易に入り込むと、落とした右の拳を上に突きあげ相手の下顎にめり込ませた。

「ぐああ!」

 宙に浮いた大男の口から赤い飛沫と白い破片が飛ぶ。アンニーナは状況がつかめず、ただカタカタと震えていた。

「このクソガキがっ!」

 別のゴロツキが男性の背後から襲い掛かった。彼は後ろも見ないでつま先立ちになると、右手を前に出して腰の位置まで右膝をあげる。相手に触れる寸前その鳩尾めがけて脛を打ち付けた。二人目が吹っ飛ぶ。
 三人目となると、アンニーナは呆然と成り行きを見守るだけだった。彼は、左足を軸足にして踏み込む。右手を挙げてバランスを取り、右足を前よりも高く上げた。力を抜きながら回転し、勢いで右の脛で相手の首横を蹴り上げる。最後のゴロツキはぶっ飛んで、公園の芝生に叩きつけられた。青年の動きはダンスを踊っているような、滑らかなものだった。

「はい、終わりです」
 
 いかにも若々しいテノールボイスが、その場を締める。後には、ヨレヨレになった貴族の子弟たちが無様に転がっていた。

「このやろうが」
「くそっ、覚えていろよ!」
 
 ハイキックを見舞われ完全に伸びた一人を満身創痍の仲間が両側から支え、引きずるようにその場から去って行く。身なりの良い若い男性は、両手に着いた埃をぱんぱんと叩いた。紺色のベストに同色のブリーチズはごろつきたちと同じ貴族の服装。アンニーナはそのことに気が付いて、身体を硬直させる。

 ――もし、この人の目的が前の三人と一緒だったら?

 「ご夫人、お怪我はないですか?」

 男性は心配そうに、彼女の目の前で片膝をつく。それでアンニーナは本当に助けてもらったんだと気が付いた。耳に心地よいテノールボイスと労いの言葉に、気が付けば体の力が抜けている。

「あ……ありがとうございます……。貴族の方……」
「立てますか?」

 言われて一旦は腰を上げたが、足が萎えて座り込んでしまった。灰色のスカートの裾が乾燥した土を擦った。

「失礼します、ご夫人」
「きゃぁ」
 
 青年は軽々とアンニーナを横抱きにする。いわゆるお姫様抱っこであった。夫にもされたことのなかった彼女は、容易く混乱に陥る。青年の見た目は細身で中性的なのに手は力強く骨太だった。彼はアンニーナをベンチに座らせ、自分はその正面に恭しく膝をつく。まるで自分がお姫様になったかのような扱いだった。

 歳はアンニーナと同じぐらいだろうか。うなじのところで結んだ金髪を上から覗くと、毛質は柔らかく短い夏の日差しのようにキラキラしていた。長いまつげの奥には切れ長の碧眼が覗き、彼女をじっと見つめている。鼻筋は通り、優美な曲線を描く唇は薄い。
 
――綺麗な顔。
 
 同じ美形と言ってもラウリは危険な香りのする野性的な風貌だが、こちらは繊細さと優雅さを兼ね備え宗教画に描かれた天使のようだった。

 ――この人によく似た人を知ってるような……。

 こんな素敵な人は滅多にいないのに、それが誰か思い出せない。
 
「怪我は有りませんか?」
「……は、はい」
「ここで待っていてください」
 
 独りになると、身体が震える。また、あの貴族たちがやってきて、自分を攫うのではないかと怖くなる。そのとき、「あの人方にはずっと手を焼いてまして、貴族様のお陰で一安心ですよ!」と調子のいい売り子の声がアンニーナのところまで聞こえてきた。

 ――わたしが連れ去られそうなときには隠れていたくせに。

「警ら隊に、ここを重点的に巡回させるよう言っておきますよ。少なくとも、あの三人は二度とここには足を踏み入れないでしょう。心配無用です」

 青年の落ち着いた返答に、アンニーナの胸に渦巻く恐怖と怒りの感情がしだいに霧散していく。彼の声が鎮静剤のように感じられた。と同時に、あることに気が付く。
 警ら隊は王配直属の組織なので、青年は王配に物申せる立場だということだ。

 ――やっぱり高位貴族の方なんだわ。

 アンニーナの父親も男爵位を持っていたが、その生活は庶民と同じで成人した娘を売るまで落ちぶれていた。彼女は綺麗なドレスを着たこともないし、社交界にデビューも出来ない。ラウリは裕福だが貴族ではないし、公式の場にアンニーナを伴うことはない。この先も、彼女が社交界に足を運ぶことはないのだ。

「はい、どうぞ。温まりますよ」
「あ、……ありがとうございます」

 木のカップに入ったホットレモネードを受け取って、冷えた手を温める。湯気と共に漂うレモンの爽快感が鼻孔を抜けた。フーフーと冷ましながら一口飲むと、甘さと酸っぱさに満たされる。手のこわばりがほぐれるとともに、次第に気分が落ち着いてきた。

 アンニーナが飲み干すと、青年は空になったマグカップを戻しに行く。ホットレモネードを飲んでいる間、一言も言わず待っていてくれて、なんと親切な方だろうと彼女の気分までホカホカした。なんにしても顔がいい。見ているだけで、心が浮き立つようだ。アンニーナはその幸福に恐怖を忘れた。
 
「ご家族も心配していらっしゃるでしょう。僕がご自宅まで送っていきますよ」

 声を掛けられ、我に返る。
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