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第四十四話 こんなに発育良かったか?
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あれは四カ月前の夏の夜。伯爵の城の主寝室で、スティーナは中年の男性に詰め寄った。
「『修道士の眠り』を領民のために役立てるって言ったじゃない? どうして贅沢するために使うの?」
ウオッカを片手に巻き煙草を吹かすクルマラ伯爵。その頭髪は薄く、腹部が出て手足は短い。お世辞にも美男子とは言えないけれど、スティーナには大切な人だった。不遇な人生を歩んできた彼女を初めて人間として扱ってくれ、愛の存在について教えてくれた。貴賤結婚が許されず正式に結婚できないけれど、彼女は充分満たされていた。――なのに。
「どうしてだと? これでも、れっきとした伯爵なんだ! 王都の貴族を見ろ、贅沢三昧じゃないか! 儂だって……儂だってな、おまえに贅沢させてやりたいんだ……っ!」
伯爵はウオッカをテーブルに置くや、分厚い唇を噛む。
そんな贅沢は要らない。スティーナは人々に賞賛される伯爵が見たかった。優しくて一生懸命な人だ。もっと世の中に、認められるべき人なのに。スティーナは寝台から立ちあがり、軍服を着こんだ。
「わたしたち、しばらく距離を置きましょう。お互い冷静になったほうがいいわ」
「スティーナ! もしや、私兵団の若い男のところに行くのか? やめろ、行かせないぞ!」
伯爵が、部屋を出たスティーナの腰に縋りついてくる。こんなところを、城内の人間に見られたら最悪だ。自分たち以外は執事しか知らない関係なのに。彼女は小声で嗜めた。
「行くわけないでしょ! ちょっと離して……っ」
「行かないでくれっ! おまえに去られたら儂はどうしたらいいんだ!」
「しばらく距離をとるだけよ! いい加減に……っ」
強い拘束に反射的に押し返していた。勢いよく跳ね飛ばされた伯爵の小太りの身体がゴロゴロと階段を転がっていく。踊り場に投げ出されたとき、彼の頭が床に叩きつけられた。
「あなた……っ!」
スティーナは階段を駆け下りる。抱き起すと、伯爵は早くも全身を痙攣させ目はうつろだった。
「こんなに血が……っ」
「スティーナ。隠れなさい……っ、儂は大丈夫だから……」
伯爵が声を振り絞る。弱弱しく上げられた手はまるで彼岸を指さしているかのよう。今にも命が消えいりそうだった。
「隠れないわっ、あなたを一人には出来るわけがない!」
逃げるわけにはいかない。スティーナは、彼と共に人生を歩むと誓ったのだ。その結果、捕らえられ殺されようとかまわない。だが、肝心の彼がそれを受け入れなかった。
「はやく、行きなさい……っ!」
いつにない領主の高圧的な声。スティーナはハッとなり、それに押し出されるように階段を駆け下りた。
*
スティーナは夢から覚めたように呆然としていた。ラウリは、また一歩を進む。
「おまえは、伯爵を死に至らしめた罪悪感に耐え切れず、『修道士の眠り』を飲んだんだ」
「だったら……なおさら道連れよ!」
諦めきれないスティーナが心を決めたように、アンニーナの首にナイフを振りかぶった。
そのときだった。天を引き裂く稲光があたりを照らし、地を揺らすような轟音が響き渡る。スティーナが驚いて眼を瞑った瞬間がチャンスだった。間髪入れず飛び出したラウリの背中に、誰かがタックルしてくる。犯人がエサイアスだと悟る前に、ぶつかられた衝撃で胸の傷が痛んだ。
――くそっ! 坊主が!
ラウリが必死に体を起こすと、ちょうど懐に飛び込んできた女性を抱きとめる。
――坊主め、俺の勝ちだ!
彼は安心すると同時に、勝利感に酔いしれた。
「怖かっただろ? 傷はないか? もう心配ないからな?」
雷に震える肩を左手で抱き、右手で何度も頭を撫でる。アンニーナは最初硬直していたが、夫の抱擁に次第に肩の力を抜いた。ラウリも一安心して胸をなでおろしかけた瞬間、違和感に捉われる。
――あれ? こんなに発育良かったか?
抱き心地が違う。アンニーナはもっと小柄で華奢だったような。もしやの展開にこわごわと腕のなかを覗いた。
――ほわっ! アンニーナじゃないだと!?
ラウリは目が飛び出るほどびっくりした。腕のなかの女性はスティーナだったのだ。混乱して周りを見回すとちょっと離れたところにアンニーナを抱き締めるエサイアスの姿があった。アンニーナは目を閉じてエサイアスにしがみついている。悪魔な異父弟は、ラウリの姿ににたりと笑った。
――だあああああっ! 坊主が!
エサイアスはラウリに背後からタックルをかました後、スティーナからアンニーナを救いだし、スティーナはラウリに向かって突き飛ばしたのだ。内心絶叫するラウリの腕のなかで、スティーナがグズグズと鼻を鳴らし始める。
「あの人を……わたしが殺してしまったの。もっと二人で生きたかったのに、あの人の子どもだってほしかったのに……全部わたしがこの手で壊してしまったの……っ」
ラウリは最初突き離そうとしたものの、その泣き声に考えを変えた。両腕を彼女の背中にまわすと、ポンポンとその肩を叩く。
「一人で抱え込んで、大変だったな。この三カ月そうとう辛かっただろ? ……もう抱え込まなくてもいいんだ」
ラウリが背中を擦ると、スティーナは声をあげて泣き始めた。聞いていると切なくなる悲哀に満ちた泣き声だった。
「『修道士の眠り』を領民のために役立てるって言ったじゃない? どうして贅沢するために使うの?」
ウオッカを片手に巻き煙草を吹かすクルマラ伯爵。その頭髪は薄く、腹部が出て手足は短い。お世辞にも美男子とは言えないけれど、スティーナには大切な人だった。不遇な人生を歩んできた彼女を初めて人間として扱ってくれ、愛の存在について教えてくれた。貴賤結婚が許されず正式に結婚できないけれど、彼女は充分満たされていた。――なのに。
「どうしてだと? これでも、れっきとした伯爵なんだ! 王都の貴族を見ろ、贅沢三昧じゃないか! 儂だって……儂だってな、おまえに贅沢させてやりたいんだ……っ!」
伯爵はウオッカをテーブルに置くや、分厚い唇を噛む。
そんな贅沢は要らない。スティーナは人々に賞賛される伯爵が見たかった。優しくて一生懸命な人だ。もっと世の中に、認められるべき人なのに。スティーナは寝台から立ちあがり、軍服を着こんだ。
「わたしたち、しばらく距離を置きましょう。お互い冷静になったほうがいいわ」
「スティーナ! もしや、私兵団の若い男のところに行くのか? やめろ、行かせないぞ!」
伯爵が、部屋を出たスティーナの腰に縋りついてくる。こんなところを、城内の人間に見られたら最悪だ。自分たち以外は執事しか知らない関係なのに。彼女は小声で嗜めた。
「行くわけないでしょ! ちょっと離して……っ」
「行かないでくれっ! おまえに去られたら儂はどうしたらいいんだ!」
「しばらく距離をとるだけよ! いい加減に……っ」
強い拘束に反射的に押し返していた。勢いよく跳ね飛ばされた伯爵の小太りの身体がゴロゴロと階段を転がっていく。踊り場に投げ出されたとき、彼の頭が床に叩きつけられた。
「あなた……っ!」
スティーナは階段を駆け下りる。抱き起すと、伯爵は早くも全身を痙攣させ目はうつろだった。
「こんなに血が……っ」
「スティーナ。隠れなさい……っ、儂は大丈夫だから……」
伯爵が声を振り絞る。弱弱しく上げられた手はまるで彼岸を指さしているかのよう。今にも命が消えいりそうだった。
「隠れないわっ、あなたを一人には出来るわけがない!」
逃げるわけにはいかない。スティーナは、彼と共に人生を歩むと誓ったのだ。その結果、捕らえられ殺されようとかまわない。だが、肝心の彼がそれを受け入れなかった。
「はやく、行きなさい……っ!」
いつにない領主の高圧的な声。スティーナはハッとなり、それに押し出されるように階段を駆け下りた。
*
スティーナは夢から覚めたように呆然としていた。ラウリは、また一歩を進む。
「おまえは、伯爵を死に至らしめた罪悪感に耐え切れず、『修道士の眠り』を飲んだんだ」
「だったら……なおさら道連れよ!」
諦めきれないスティーナが心を決めたように、アンニーナの首にナイフを振りかぶった。
そのときだった。天を引き裂く稲光があたりを照らし、地を揺らすような轟音が響き渡る。スティーナが驚いて眼を瞑った瞬間がチャンスだった。間髪入れず飛び出したラウリの背中に、誰かがタックルしてくる。犯人がエサイアスだと悟る前に、ぶつかられた衝撃で胸の傷が痛んだ。
――くそっ! 坊主が!
ラウリが必死に体を起こすと、ちょうど懐に飛び込んできた女性を抱きとめる。
――坊主め、俺の勝ちだ!
彼は安心すると同時に、勝利感に酔いしれた。
「怖かっただろ? 傷はないか? もう心配ないからな?」
雷に震える肩を左手で抱き、右手で何度も頭を撫でる。アンニーナは最初硬直していたが、夫の抱擁に次第に肩の力を抜いた。ラウリも一安心して胸をなでおろしかけた瞬間、違和感に捉われる。
――あれ? こんなに発育良かったか?
抱き心地が違う。アンニーナはもっと小柄で華奢だったような。もしやの展開にこわごわと腕のなかを覗いた。
――ほわっ! アンニーナじゃないだと!?
ラウリは目が飛び出るほどびっくりした。腕のなかの女性はスティーナだったのだ。混乱して周りを見回すとちょっと離れたところにアンニーナを抱き締めるエサイアスの姿があった。アンニーナは目を閉じてエサイアスにしがみついている。悪魔な異父弟は、ラウリの姿ににたりと笑った。
――だあああああっ! 坊主が!
エサイアスはラウリに背後からタックルをかました後、スティーナからアンニーナを救いだし、スティーナはラウリに向かって突き飛ばしたのだ。内心絶叫するラウリの腕のなかで、スティーナがグズグズと鼻を鳴らし始める。
「あの人を……わたしが殺してしまったの。もっと二人で生きたかったのに、あの人の子どもだってほしかったのに……全部わたしがこの手で壊してしまったの……っ」
ラウリは最初突き離そうとしたものの、その泣き声に考えを変えた。両腕を彼女の背中にまわすと、ポンポンとその肩を叩く。
「一人で抱え込んで、大変だったな。この三カ月そうとう辛かっただろ? ……もう抱え込まなくてもいいんだ」
ラウリが背中を擦ると、スティーナは声をあげて泣き始めた。聞いていると切なくなる悲哀に満ちた泣き声だった。
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