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第四十六話 俺も大人にならなきゃな。

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「やっぱり家は落ち着くな。久しぶりの風呂でさっぱりした」

 入浴後、ラウリはアンニーナに胸の包帯を巻き直してもらうと、不自然なほど明るい声を出した。

「……」

 余った包帯を棚に片付ける、妻の沈黙が怖い。ラウリはそそくさとシャツを羽織った。

「あの……アンニーナ」
「先にご飯を済ませましょう。お話はその後でいいですよね?」
「……ハイ」

 彼女は先ほどまで白刃を当てられていたとは思えぬ冷静な態度で、テーブルの上に皿を並べ始める。ラウリは湯気の立つキノコのリゾットを前に『いただきます』と手を合わせ、一口味わった。いつもよりニンニクが控えめで、痛んだ胃にじんわりと沁みる。時折彼女を盗み見るが、スプーンにリゾットをちょこっとづつ乗せてフーフー息を吹き掛けていた。ラウリは『小動物みたいだな』と口元を緩ませたが、当のアンニーナに睨まれて食事に集中する。
 
 夜のとばりが降りたころ、ラウリは蝋燭に照らされた居間を見回す。二人で過ごすにはちょうどいい狭さだった。妻が選んだ家具と配置。パタパタとした小さな足音、食器を洗う音。ソファで向かい合ってお茶を飲む一時。彼にとって、いつの間にかここが一番落ち着く場所になっていた。

 ――それも、あと少しだ。

 炭焼き場から帰宅した際、まず居間の隅に置かれたトランク二つが目に入った。『わたし以外の、女の人の頭を撫でないで……っ!』とアンニーナに泣かれて淡い期待を抱いたが、やはりエサイアスを選んでいたのかと寂寥が胸に広がる。だが、ラウリはその覚悟があって彼女に選択させたのではなかったか。自由にならない感情を、彼は苦々しく感じた。
 
「どうぞ」
「ありが……」

 目の前に置かれたカップの中身が、妻のと同じホットミルクなことに気づく。コーヒーやウオッカは刺激物なので気を遣われているかな、と一口含むと口のなかで砂糖の甘みが広がった。

 ――タバコ、吸いてぇな。

 病院では一切吸えなかったから、欲求が溜まっている。しばらく忘れていたのが不思議なくらいだ。
 改めて振り返ると、自分が好きなのは身体に悪いものばかりだった。アルコールに、カフェインに、ニコチンに。そして、他人ひとの女。
 ラウリはソファにもたれ掛かって、目を閉じた。在りし日のウーノの言葉が脳裏に浮かぶ。

『ぼくたちは大人にならないと』
 
 あの女遊びの止まらなかったウーノでさえ、女王に一目ぼれしてからは身を慎んでいる。彼は聖人君子の振りをしているわけじゃない。やんちゃな子ども時代を卒業して、次のステップに進んだだけだ。ラウリも三十歳近く、女と寝て情報を得る仕事のやり方ではいずれ限界が来る。

 ――俺も大人にならなきゃな。

 だがその前に、きちんとアンニーナに謝罪したい。許されることはなくとも。
 向かいでカフェボールを両手で仰いでいる妻に、視線を定める。彼女が飲み干すのを、緊張しながら待った。ラウリは姿勢を正す。
 
「すまなかった、アンニーナ。これまでのことを謝る」
「これまでのことって何ですか?」
「俺の浮気と、アンニーナをないがしろにしたことをだ」

 彼女は口元から離したハンカチを膝の上に置くと、正面を向いた。
 
「どうして……わたしをわざわざ妻にしてまで、蔑ろにしたんですか?」

 普段ふわっとした雰囲気のアンニーナが発した言葉は地の底を這うようで、ラウリの胃の腑を冷やす。彼女の顔は歪み、今にも泣き出しそうだった。ラウリは両膝に肘をついて、テーブルの木目を見つめる。

「妻にしたのは、俺がアンニーナを好きになったからだ」

 重い沈黙のあとに、白けた空気が漂った。アンニーナは嫌悪感たっぷりに顔をしかめる。

「わたしのこと、からかってます?」
「からかってない。最初に見たとき、死んだ母に似ていると思った。俺はそれまでウーノが捨てた女としか付き合ってこなかったから、自分の好みを意識したことがなかった。だから、アンニーナがなんだって、あのとき知った」

 自分で言っておいて、エサイアスを笑えないぐらいサイコパス味があるな、とラウリは自嘲した。

「とても、信じられません」

 案の定、アンニーナも不信感の上に嫌悪感も見せて、彼を鋭く睨みつけている。

「すまない、本当のことなんだ」
「信じられません。仮にそうだったとしても、どうしてその気持ちのままでいられなかったんですか?」
 
 妻の当然の疑問を受け、ラウリは大きく息を吸って吐いた。そして、決して人に語ろうとしなかった過去を告白する。

「ウーノの乳母だった俺の母は任期が終わったあと、先代の侯爵の愛人に無理やりされて、死ぬまで家に帰ってこなかった」
「え?」

 アンニーナは両手で口元を覆って、目を見張った。ラウリは見栄っ張りだから、なるべく恥部は見せたくなかったのに。妻の反応が怖くて、一気に話し始めた。
 
「それを十四歳になるまで知らなくて、母は俺を捨てたんだとずっと思っていた。だが、知ったところで俺はすでにウーノの侍従で、ピエティラ侯爵家の厚意で貴族御用達の学校に通っていたから、復讐どころか嫌悪感を抱くことすら出来なかった。ただ俺のなかに、大事なものは主家に奪われるという強い強迫観念だけが残った」

 ラウリは、テーブルの上のホットミルクを呷る。口の中で甘ったるいアンニーナが何か言うまえに、続きを始めた。
 
「理想の相手に会って舞い上がっていた俺は、そのことをすっかり忘れていた。結婚式の披露宴で、俺には怯えるアンニーナがウーノと親しげに話してるのを見て、どうしようもない嫉妬と不安に駆られた。俺はどこまで行っても平民だが、ウーノもアンニーナも貴族だ。最初は母を、次は妻を奪われるかもしれないと怖くなった。恐怖と焦りから、労りもなくアンニーナを抱いて、これから築こうとしていた関係を跡形もなく壊した。俺はその事実に耐えられなくて、アンニーナを結婚したことを、自分のなかでなかったことにした。そうして開けた感情の隙間に亡くなった母への恨みつらみが蘇って、よく似たおまえにぶつけてしまった」

 いい年になってこんな話を一番見栄を張りたい相手に告白するのは、耐えられない羞恥だった。特に後半は自分で話していても反吐が出る。なのに、坂を転がる小石のように言葉が止まらない。挙句の果てに、図々しくも卑しい本音が出た。
 
「……もう一度、やり直すチャンスが欲しい」
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