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番外編 聖地巡礼

懐かしき人々

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「しかし、何故ジーノはよりによって〈清脩〉僧院なのだ」

 恭親王はユリウスがウトウトと船をこいでいる隙に、小声でゲルに尋ねる。〈清脩〉僧院こそ、恭親王が聖地の見習い僧侶シウリンだったときに過ごした僧院だからである。今回、ジーノに会うために彼の住まう僧院の名を聞いて、恭親王は仰天したというわけだ。

「ジーノ殿が聖地での出家を志された時、どこか見知った僧院はないか聞かれたのですよ。生憎俺が知っているのがそこの僧院だけでしたので……」
「……知り合いに会ったりすると厄介なのだがな。誤魔化すしかないが」

 懐かしい面々を遠くからでも眺めるのは悪くないが、会いたくない者ももちろんいる。

(シシル準導師とか、シシル準導師とか、シシル準導師とかだがな)

 僧院で、誰にでも好かれ、愛されていたシウリンだが――さすがに今の恭親王には、それがどういう類の愛情だったか理解しているが――見習い僧侶たちの監督官であったシシル準導師にだけは、目の仇にされていて苦手であった。

 すでに日は落ち、夕闇が迫っていた。魔力カンテラの灯りに照らされて、葉の落ちた森の木立が恭親王の目に飛び込む。

(〈メルーシナ〉と会った森はこの辺りのはずだ。おそらく、もうすぐ太陰宮の境域を過ぎ、太陽宮の境域に入る。そこから馬車でおよそ一刻といったところ)

 車窓に見える風景は、彼がかつて見慣れた森のものだ。懐かしさに胸が締め付けられる。
 アデライードと結婚する前であれば――〈聖婚〉の相手がアデライードでなければ――恭親王は狂おしい懐かしさにかられて馬車を飛び降り、この森のどこかに身を隠してしまったかもしれない。こここそ彼の故郷と言ってよい。

 すでにエールライヒは散歩から戻り、主の肩の上で羽を休めている。恭親王はその羽根を優しく撫でながら、じっと窓の外を眺めていた。




 すっかり夜の帳が降りたころ、馬車は〈清脩〉僧院に到着した。
 門番小屋の灯りも、古びた門も、昔のままだ。目の奥が熱くなるのをぐっとこらえ、恭親王は唇を噛んで耐える。
 門番が鉄の門扉を開け、馬車はそのまま石畳の上を走り、玄関に横付けされた。その門番が十年前とは違う老人であることが、恭親王に時の流れを教える。

(相当な年だったもんな、門番のじーさん。さすがにくたばったか……)

 そんなことを思いながら、馬車を降り、カンテラに照らされた僧院の玄関を見上げる。玄関の外に立って恭親王を迎えたのは、懐かしいジーノであった。

「ジーノではないか!元気そうだな」
 
 ジーノは剃り上げた頭部を毛織のフードで覆い、やはり毛織の袈裟を巻き付けて恭親王に深く一礼する。

「殿下……お久しぶりでございます。遠いところをわざわざお尋ねていただき、この老いぼれも感激で言葉も出ませんわい」
「寒い場所で待たせてしまったのではないのか?中で待っていていくれて構わなかったのに」

 恭親王がジーノの老体を気遣うと、ジーノは首を振って微笑んだ。

「いいえ、殿下のご来臨が待ちきれず、人の止めるのも聞かずに外で待っていたのですよ」
「そうか。風邪をひかさないうちに到着できてよかった」

 恭親王がジーノに微笑みかけ、その肩を抱いて僧院の中に入る。ジーノは振り向いてゲルとゾーイという二人の顔見知りを見つけて目を見開き、会釈をする。僧院の周囲を見回していたユリウスは、ゲルに促されて僧院の中に足を踏み入れる。

「建物ボロっボロ……」

 ユリウスが補修の後の残る壁や、継ぎ接ぎの床を見て眉を顰める。

「清貧を旨とする僧院でございますからね。掃除だけは念入りにされているようですよ」

 ゲルがユリウスに言う。恭親王は老いて小さくなったジーノを抱えるようにして、薄暗い廊下を歩く。

「随分、背がお伸びになりましたね」
「うーん。お前が縮んだんじゃないのか?」
 
 ジーノはベルン河の北岸に囚われていた時のケガがもとで、右足を少し引きずっていた。

「その後、身体の具合はどうだ?」
「ぼちぼちでございますな。ここらは太陽宮の中では南の端で気候はマシでございますが、それでも冬は冷え込みますので、古傷が痛むようなこともございます」
「そうか。無理しないで過ごすのだぞ?」
「身体がよくないので、写字係をさせていただいております。冬も暖房が効いておりまして、恵まれておりますよ……こちらが院長室でございます。院長がお待ちです」

 ジーノが案内してくれる。この僧院の中ならば、隅々まで恭親王は知っていたが、それは口に出すことはできない。

 ジーノが院長室の扉を開け、中に誘う。ちらりと見ると、ゲルも感慨深い表情であちこちを見ていた。
 大きな院長の机の前に座っているのは、十年前のあの人ではない。それよりもやや小柄で丸っこい、あの時の副院長が院長を務めている。

「これは……ソリスティア総督にして恭親王殿下に置かれましては、遠いところをご来臨賜り、まことに光栄の極みに存じます」
「急な訪問を受け入れてくれて感謝する。……こちらが妻の兄である、レイノークス辺境伯のユリウス卿だ。太陽神殿への参拝を希望したので、同行することになった」
「西の辺境伯閣下にございますか。このような僧院で、たいしたおもてなしもできませんが、是非、ごゆるりとお過ごしください」
「ありがとう」

 ユリウスが愛想よく頭を下げ、ダークブロンドがさらりて流れる。

「こちらは私の正傅のゲル、こっちが副傅のゾーイとその従騎士のランパだ。私の護衛も兼ねている。あとは馭者が一人。迷惑をかけるがよろしく頼む」
「めっそうもございません……前の院長が生きておられたら、きっとどれほどお喜びになられたか……」

 以前から涙もろいところのあった院長は、成長したシウリンとの再会に感動して、すでに涙ぐんでいる。事情を知っている恭親王とゲルはともかく、前の院長の話など、他の人間には意味不明であろう。

(参ったな……確かに昔からよく泣いていたけれど……)

「ジュルチ僧正はこちらの僧院の出身と聞いたが」
「は、はい。三年前に院長が遷化なさり、その翌年、ジュルチは十二僧正へと昇進いたしまして、太陽神殿に移りました。マニ僧都も同時に打診されたのですが、彼は断ってそのままこちらにおります」

(いや、だからさ……私はマニ僧都なんて知らないって設定なんだからさ……皆が不審に思うだろうに)

 恭親王は人の好い院長に少しばかり苦笑した。

「早速ですが、隣室で粗食を差し上げるよう、準備してございます。高貴な方のお口には合いますまいが、是非」
「それはかたじけない」

 一行は隣の部屋に案内された。院長が身分の高い客人と会食したりするときの部屋で、ここは恭親王も初めて入る。大きなテーブルの上には糊のきいた白いクロスが掛けられ、銀器が並べられ、蝋燭の光に煌めいていた。昔、偉いお客が来るだかで、滅多に使うことのない、これらの銀器を磨かされたことがあるな、と恭親王は思い出していた。

 院長を挟むように、恭親王とユリウスが座り、恭親王の隣にはジーノ、その隣にゲルが、ユリウスの隣には新たに挨拶した副院長が座る。副院長は以前、副院長補佐をしていた僧で、シウリンにはいろいろと目をかけてくれていた。彼は恭親王の顔をまじまじと見て、あっというように目を見開いたが、何か納得したような表情で、恭親王に向かって頷いて見せた。十年前、彼のあずかり知らぬところで起きた一人の見習い僧侶の失踪について、彼は明確な回答を得たのであろう。さりげなく、彼が指先で目じりの涙を拭ったのを、恭親王は視界に入れていた。

 十年前の初冬の日、一人の見習い僧侶がこの僧院から忽然と消えた。それについて話題にすることも禁じられ、その少年僧の記録一切も廃棄された。ただ、忘れられていくように仕向けられた少年のことを、だが忘れることなく密かに案じていた者たちが、確かにこの僧院にはいたのだ。

 ――それが、シウリンの生きた証。奪われ、消され、最初からいないかの如く忘却の海に溶けてしまったシウリンが、確かにという証なのだ。
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