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番外編 聖地巡礼
ブレーン
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狭くて本が崩れるから、恭親王一人だけしか塔に入れないとジュルチに言われ、ゾーイは不満そうに渋々塔の外で待っていることになった。〈清脩〉僧院にある、陰陽理論を研究する高い塔の中、うずたかく積まれた書物の海に向かい、ジュルチが大声で呼びかける。
「おーい、マニ、お前が会いたがっていた人間を連れてきたぞ、早く降りてこい、おーい」
「大声を出すなジュルチ、だみ声が反響して本が崩れるだろう」
天井までびっしりと積まれた書棚の上の方から、懐かしい声が返ってくる。十年の時を経て変わらない、若々しい声、皮肉っぽい言い方。するすると梯子を降りてきたひょろっとした僧は、端麗な顔を歪ませて早口でジュルチに悪態をつく。蒼い瞳がいたずらっぽい光を湛え、金色の無精ひげがまばらに生えている。
「だいたいなんだ、太陽神殿に召し上げられたくせに。いつまでも古巣に執着してるんじゃないよ」
「そういうお前は昔の弟子に執着して、この場を動かないくせに」
「うるさい。とっととシウリンを探してこい、あれは私の弟子なんだからな」
「だから連れてきただろう、お前の弟子を」
ジュルチの横に立つ、俗形の背の高い若者にその時初めて気づいたマニ僧都は、恭親王の顔をまじまじと見ると、飛び上がって驚き、恭親王に抱き着いてきた。
「シウリン! シウリンではないか! そうだ間違いない、シウリンだ! 帰ってきたのかシウリン!」
ゆさゆさと恭親王を揺さぶって、その頬を撫で、匂いを嗅ぎ、黒髪を引っ張って、十年前に理不尽に奪われた彼の愛弟子の姿を確認する。
十年前、たまたまマニ僧都が他の僧院まである写本を見に行っている時に、彼の弟子のシウリンは帝都からの迎えが来て連れ去られてしまったのだ。マニはシウリンを守れなかったジュルチや院長たちを恨み、一度棄てた皇子を無理矢理取り返していった帝国を憎んだ。それ以来、いつかシウリンが帰ってくると言い張って、どのような昇進話にも耳を貸さず、塔に籠って研究を続けた。
「シウリン、よかった、帰ってきてくれたのだな、私の学問を継げるのはお前しかいないと思っていた!」
そう言ってぎゅうぎゅう抱きしめられて、恭親王は些か辟易する。ジュルチが伴の者の入室を拒んだのはたぶんこのためだ。興奮したマニ僧都に、自重も芝居もできっこないからだ。
「そ、そのマニ僧都……私は、今はシウリンではないということになっているのです」
恭親王がそう告げると、両目に涙を一杯に溜めたマニが金色の睫毛をしぱしぱと瞬いた。
「かわいそうに、事情はジュルチから聞いたよ。私は、お前に〈王気〉があるのを視えていたから、どういう生まれなのかは予想していたが、まさか取り返しにくると思っていなかったから、ひどく驚いたのだ。お前はとても純粋だったから、帝都のようなところで生きるのはさぞ辛かっただろう。……数年前に、帝都から皇子に死なれた傅役というのが出家してやってきたときに、もしやお前が死んだのではないかと危ぶんでいたが、無事でよかった」
「先生……」
すでに自分の背丈を追い越してしまったかつての弟子を、愛おし気に抱きしめるマニにやや呆れつつ、ジュルチが言った。
「シウリンは〈聖婚〉の皇子としてソリスティア総督になって赴任してきたのだ。それで、宗教問題に詳しいブレーンを必要としているのだ。俺は太陽宮から動けぬが、おぬしは割かし自由に動ける。ソリスティアには数代前の総督が金にあかせて集めた古書が唸っていると言うぞ?」
「なにっ? ソリスティア総督のコレクションだと? 今、それをシウリンが持っているのか!」
「そうですが、とにかくシウリンと呼ぶのはちょっと……」
この十年、彼はシウリンという名を捨てて生きてきたのだ。ここで連呼されるとようやく忘れてきた自我を呼び起こされて混乱をきたしそうで怖かった。
「そうなのか、ではシウリンのことをシウリン以外の名で呼べばよいのだな、何と呼べばいいのか、シウリンよ」
「……恭親王とか、殿下とか、総督とか、とにかくそのあたりで……」
「無難に殿下とでも呼んでおけ。それが危険が少ない」
ジュルチに言われ、マニが頷いた。
「他ならぬお前のためであれば、私はどこにでも行こう。出発は明日の朝か。わかった、準備するから」
――こうして、恭親王は聖地で最高の頭脳を手に入れた。
「おーい、マニ、お前が会いたがっていた人間を連れてきたぞ、早く降りてこい、おーい」
「大声を出すなジュルチ、だみ声が反響して本が崩れるだろう」
天井までびっしりと積まれた書棚の上の方から、懐かしい声が返ってくる。十年の時を経て変わらない、若々しい声、皮肉っぽい言い方。するすると梯子を降りてきたひょろっとした僧は、端麗な顔を歪ませて早口でジュルチに悪態をつく。蒼い瞳がいたずらっぽい光を湛え、金色の無精ひげがまばらに生えている。
「だいたいなんだ、太陽神殿に召し上げられたくせに。いつまでも古巣に執着してるんじゃないよ」
「そういうお前は昔の弟子に執着して、この場を動かないくせに」
「うるさい。とっととシウリンを探してこい、あれは私の弟子なんだからな」
「だから連れてきただろう、お前の弟子を」
ジュルチの横に立つ、俗形の背の高い若者にその時初めて気づいたマニ僧都は、恭親王の顔をまじまじと見ると、飛び上がって驚き、恭親王に抱き着いてきた。
「シウリン! シウリンではないか! そうだ間違いない、シウリンだ! 帰ってきたのかシウリン!」
ゆさゆさと恭親王を揺さぶって、その頬を撫で、匂いを嗅ぎ、黒髪を引っ張って、十年前に理不尽に奪われた彼の愛弟子の姿を確認する。
十年前、たまたまマニ僧都が他の僧院まである写本を見に行っている時に、彼の弟子のシウリンは帝都からの迎えが来て連れ去られてしまったのだ。マニはシウリンを守れなかったジュルチや院長たちを恨み、一度棄てた皇子を無理矢理取り返していった帝国を憎んだ。それ以来、いつかシウリンが帰ってくると言い張って、どのような昇進話にも耳を貸さず、塔に籠って研究を続けた。
「シウリン、よかった、帰ってきてくれたのだな、私の学問を継げるのはお前しかいないと思っていた!」
そう言ってぎゅうぎゅう抱きしめられて、恭親王は些か辟易する。ジュルチが伴の者の入室を拒んだのはたぶんこのためだ。興奮したマニ僧都に、自重も芝居もできっこないからだ。
「そ、そのマニ僧都……私は、今はシウリンではないということになっているのです」
恭親王がそう告げると、両目に涙を一杯に溜めたマニが金色の睫毛をしぱしぱと瞬いた。
「かわいそうに、事情はジュルチから聞いたよ。私は、お前に〈王気〉があるのを視えていたから、どういう生まれなのかは予想していたが、まさか取り返しにくると思っていなかったから、ひどく驚いたのだ。お前はとても純粋だったから、帝都のようなところで生きるのはさぞ辛かっただろう。……数年前に、帝都から皇子に死なれた傅役というのが出家してやってきたときに、もしやお前が死んだのではないかと危ぶんでいたが、無事でよかった」
「先生……」
すでに自分の背丈を追い越してしまったかつての弟子を、愛おし気に抱きしめるマニにやや呆れつつ、ジュルチが言った。
「シウリンは〈聖婚〉の皇子としてソリスティア総督になって赴任してきたのだ。それで、宗教問題に詳しいブレーンを必要としているのだ。俺は太陽宮から動けぬが、おぬしは割かし自由に動ける。ソリスティアには数代前の総督が金にあかせて集めた古書が唸っていると言うぞ?」
「なにっ? ソリスティア総督のコレクションだと? 今、それをシウリンが持っているのか!」
「そうですが、とにかくシウリンと呼ぶのはちょっと……」
この十年、彼はシウリンという名を捨てて生きてきたのだ。ここで連呼されるとようやく忘れてきた自我を呼び起こされて混乱をきたしそうで怖かった。
「そうなのか、ではシウリンのことをシウリン以外の名で呼べばよいのだな、何と呼べばいいのか、シウリンよ」
「……恭親王とか、殿下とか、総督とか、とにかくそのあたりで……」
「無難に殿下とでも呼んでおけ。それが危険が少ない」
ジュルチに言われ、マニが頷いた。
「他ならぬお前のためであれば、私はどこにでも行こう。出発は明日の朝か。わかった、準備するから」
――こうして、恭親王は聖地で最高の頭脳を手に入れた。
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