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十八、騒動の顛末
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ご典医が下がり、わたしと殿、玉ノ井、藤尾と常盤だけになったところに、水瀬を大目付の配下に引き渡した榊が戻ってきた。そして、わたしに向かい、畳に頭を擦り付けるように平伏し、言った。
「申し訳ございません、すべてこの、榊の不徳の致すところ……」
「いったいどういうことなの……」
全然わからなくて混乱するわたしに、殿が言った。
「水瀬とは、乳姉妹で幼馴染であるが、歳は違っておるな」
「え……ええまあ。水瀬の方が五つほども上でしょうか。わたしはもう、覚えてはおりませんが、水瀬には妹がいたと聞いております」
殿が頷き、言った。
「それが、森嶋家に養女に入っておる」
「え?」
「もともと、倉橋の局は森嶋家の分家の出で、その縁で主家の姫君の乳母に召し出された。姉の水瀬の方は体も丈夫であったが、妹は連れてご奉公に上がるには幼く、体も弱かった。森嶋帯刀の内室は娘がいなかったので、そのまま下の娘を養女に迎えた」
殿がわたしをまっすぐに見つめた。
「これが、倉橋が森嶋の言いなりにならざるを得なかった、第一の理由だ」
「……脅されていたのですか?」
「はっきりとは。ただ、命綱を握られているようなものだったろう」
「……それで、殿とわたしの間を――?」
森嶋がそんなことを命ずるのだろうか? 首を傾げるわたしに、殿がさらに続ける。
「森嶋はもともと、久我家の千代松を養子にと運動していたが、先殿が選んだのは余であった。余が跡目を継ぐ前、何とか廃嫡にしようと頑張ったが、そうこうするうちに、千代松が死んでしまう。次に、自分の言いなりになる女を余にあてがい、余を操ろうと考えた。――そこで目を付けたのが、水瀬だった」
理解しきれず固まるわたしに、榊が補足する。
「森嶋帯刀は、まだ姫様が幼いことを理由に、水瀬を側室としてあげようと画策いたしました。ですが、お屋形様はすべて拒否なさった。――水瀬は、密かにお屋形様に懸想いたしておりましたので……」
「……嘘」
「水瀬の恨みが決定的になったのが、例の、下屋敷の女でございます。閨事の指南役を置く際に、森嶋と倉橋は水瀬をと申したのをお屋形様が断固拒否なさった。代わりに召したのが、下屋敷のごくごく軽輩の娘であったことに、ひどく自尊心を傷つけられたもようです。倉橋もまた――」
わたしは言葉もなく、両手で口元を押さえる。震えが全身に広がり、目の前が暗くなる。地面にぽっかりと穴が開いて、吸い込まれてしまいそう――
その時、温かい手がわたしを抱き寄せ、殿が耳元で囁く。
「すまぬ。……俺の立ち回りが悪かったせいで、こんなことに……」
「この榊も同罪でござる。水瀬や倉橋の感情を、読み切れませず……」
殿の手のぬくもりと、榊の沈痛な表情を見て、わたしは我に返る。――いけない、これぐらいのことでフラフラしていては……。
わたしは殿の顔を見て、頷く。
「……大丈夫です。続きを。……どうして水瀬が乱心するようなことになったのです?」
「そう。四年前、森嶋は余を手の内に取り込むことを諦め、はっきりと追い落としに舵を切った。国家老の香月玄庵と共謀して、余を隠居に追い込もうとした。だが、余は証拠を集めて玄庵の不正を暴き、切腹させた」
殿は少しだけ間を置き、目を伏せる。
「その過程で、余は新たな国家老で、香月家の分家である、香月玄蕃の娘を側室にした。香月の血を引く跡継ぎを確保し、養子を迎える理由を無くすために」
「……それは、わかります」
ようやく、男児が生まれて森嶋らのたくらみは潰えるはずなのだ。
「それ以前から、森嶋は例の下屋敷の女の噂や、余と於寧の不仲の噂を煽り、余が先殿の姫を蔑ろにしていると不平藩士を煽動していた。余が貴女を害そうしているという、事実無根の噂まで流れて、それで、気づいた。森嶋はおそらく、貴女に害を為し、それを余のせいだと吹聴するつもりではないかと」
殿の言葉に、わたしが絶句する。……そんないくらなんでも。
「まさか……」
「だが、例のご落胤騒動で、藩内では、余が香月の本家の血筋を絶やすつもりなのだと、そんな噂が広がった。もし、貴女に万一のことがあれば、真っ先に余が疑われる状況だ。噂を払拭しようにも、奥泊まりは拒否されるし、手紙も届かない。――琴の音が聞こえる日はとにかく元気なのだなと、それを慰めにしていたが、あの日……」
殿がわたしの右手を取り、包帯の取れた親指を撫でる。
「すごい音がしたときは本当に肝が冷えた」
「……それで、御錠口で無茶を仰ったのですか……」
殿がため息をつく。
「……余は腹を据え、ご老中の阿部美作守様にお力添えを願った。――それで、美作様が姪御の玉ノ井殿を寄越してくださったのだ」
わたしが驚いて玉ノ井を見れば、玉ノ井がにっこりと微笑んだ。
阿部公の妾腹の妹が旗本に嫁ぎ、産まれたのが玉ノ井だとか。玉ノ井が続ける。
「どうも、奥向きに森嶋の手の者が入っているとしか思えませんでした。まずは最も怪しい、倉橋と水瀬を遠ざけるべきだと進言申し上げたのですが……」
殿はわたしの心情を思い、倉橋は下がらせたが、水瀬は残した。
「だが、おりくが長次郎を産んだことで、森嶋も追い詰められた。妾腹とはいえ男児がいる場合、他家から養子を迎えることはできない。奴らは一か八か、八朔(八月一日)に決起するべく準備を進めているとの情報を南部が掴んだ。だが、いくら藩主が養子であっても、何の理由もなく、藩主に反旗を翻すことはできない」
殿が、じっとわたしの顔を見つめる。
「……それが、わたしだと?」
「ああ。何か起こるとすれば、貴女の身辺だと思ったが、再び貴女に奥入りを拒否されてしまって……」
顔を背ける殿に、玉ノ井が言う。
「だから、もっと早くご説明申し上げるべきと、常々申しておりましたのに」
「倉橋ばかりか、水瀬までが貴女を害そうとしているなど、とても口にする勇気がなかった。だが、これ以上は後まわしにできぬと思い、無理に奥渡りを強行したのが、今日だ」
「……なのに、わたしが逃げてしまったから……」
あ……と口元を覆えば、殿が眉尻を下げて首を振る。
「貴女が余に逢いたくないと思うのも、もっともなことだ。おりくの件を貴女に伝えておかなかった、余が悪い」
如月に国元を発つ時点で、妊娠がわかっていたのに、言い出すことができなかったという。
「奥渡りをしたその日に、貴女が刃物で傷つけられる。――余が貴女を傷つけたと虚偽の噂を流し、藩士の怒りを誘う。国元の側室が男児を産んだ今は、正室との間も不安定になるだろうし、上手く煽動すれば騙されるものも――」
ちょうどその時、庭先を御庭番が走り込んで、縁の間際で膝をついた。
「おそれながら。お留守居役、南部宗之進どのよりの、伝言でございます」
「よい、直答を許す」
「は。ただいま、江戸家老森嶋帯刀を問い詰めましたところ、すべてを認め、自ら腹を切ったと――」
「申し訳ございません、すべてこの、榊の不徳の致すところ……」
「いったいどういうことなの……」
全然わからなくて混乱するわたしに、殿が言った。
「水瀬とは、乳姉妹で幼馴染であるが、歳は違っておるな」
「え……ええまあ。水瀬の方が五つほども上でしょうか。わたしはもう、覚えてはおりませんが、水瀬には妹がいたと聞いております」
殿が頷き、言った。
「それが、森嶋家に養女に入っておる」
「え?」
「もともと、倉橋の局は森嶋家の分家の出で、その縁で主家の姫君の乳母に召し出された。姉の水瀬の方は体も丈夫であったが、妹は連れてご奉公に上がるには幼く、体も弱かった。森嶋帯刀の内室は娘がいなかったので、そのまま下の娘を養女に迎えた」
殿がわたしをまっすぐに見つめた。
「これが、倉橋が森嶋の言いなりにならざるを得なかった、第一の理由だ」
「……脅されていたのですか?」
「はっきりとは。ただ、命綱を握られているようなものだったろう」
「……それで、殿とわたしの間を――?」
森嶋がそんなことを命ずるのだろうか? 首を傾げるわたしに、殿がさらに続ける。
「森嶋はもともと、久我家の千代松を養子にと運動していたが、先殿が選んだのは余であった。余が跡目を継ぐ前、何とか廃嫡にしようと頑張ったが、そうこうするうちに、千代松が死んでしまう。次に、自分の言いなりになる女を余にあてがい、余を操ろうと考えた。――そこで目を付けたのが、水瀬だった」
理解しきれず固まるわたしに、榊が補足する。
「森嶋帯刀は、まだ姫様が幼いことを理由に、水瀬を側室としてあげようと画策いたしました。ですが、お屋形様はすべて拒否なさった。――水瀬は、密かにお屋形様に懸想いたしておりましたので……」
「……嘘」
「水瀬の恨みが決定的になったのが、例の、下屋敷の女でございます。閨事の指南役を置く際に、森嶋と倉橋は水瀬をと申したのをお屋形様が断固拒否なさった。代わりに召したのが、下屋敷のごくごく軽輩の娘であったことに、ひどく自尊心を傷つけられたもようです。倉橋もまた――」
わたしは言葉もなく、両手で口元を押さえる。震えが全身に広がり、目の前が暗くなる。地面にぽっかりと穴が開いて、吸い込まれてしまいそう――
その時、温かい手がわたしを抱き寄せ、殿が耳元で囁く。
「すまぬ。……俺の立ち回りが悪かったせいで、こんなことに……」
「この榊も同罪でござる。水瀬や倉橋の感情を、読み切れませず……」
殿の手のぬくもりと、榊の沈痛な表情を見て、わたしは我に返る。――いけない、これぐらいのことでフラフラしていては……。
わたしは殿の顔を見て、頷く。
「……大丈夫です。続きを。……どうして水瀬が乱心するようなことになったのです?」
「そう。四年前、森嶋は余を手の内に取り込むことを諦め、はっきりと追い落としに舵を切った。国家老の香月玄庵と共謀して、余を隠居に追い込もうとした。だが、余は証拠を集めて玄庵の不正を暴き、切腹させた」
殿は少しだけ間を置き、目を伏せる。
「その過程で、余は新たな国家老で、香月家の分家である、香月玄蕃の娘を側室にした。香月の血を引く跡継ぎを確保し、養子を迎える理由を無くすために」
「……それは、わかります」
ようやく、男児が生まれて森嶋らのたくらみは潰えるはずなのだ。
「それ以前から、森嶋は例の下屋敷の女の噂や、余と於寧の不仲の噂を煽り、余が先殿の姫を蔑ろにしていると不平藩士を煽動していた。余が貴女を害そうしているという、事実無根の噂まで流れて、それで、気づいた。森嶋はおそらく、貴女に害を為し、それを余のせいだと吹聴するつもりではないかと」
殿の言葉に、わたしが絶句する。……そんないくらなんでも。
「まさか……」
「だが、例のご落胤騒動で、藩内では、余が香月の本家の血筋を絶やすつもりなのだと、そんな噂が広がった。もし、貴女に万一のことがあれば、真っ先に余が疑われる状況だ。噂を払拭しようにも、奥泊まりは拒否されるし、手紙も届かない。――琴の音が聞こえる日はとにかく元気なのだなと、それを慰めにしていたが、あの日……」
殿がわたしの右手を取り、包帯の取れた親指を撫でる。
「すごい音がしたときは本当に肝が冷えた」
「……それで、御錠口で無茶を仰ったのですか……」
殿がため息をつく。
「……余は腹を据え、ご老中の阿部美作守様にお力添えを願った。――それで、美作様が姪御の玉ノ井殿を寄越してくださったのだ」
わたしが驚いて玉ノ井を見れば、玉ノ井がにっこりと微笑んだ。
阿部公の妾腹の妹が旗本に嫁ぎ、産まれたのが玉ノ井だとか。玉ノ井が続ける。
「どうも、奥向きに森嶋の手の者が入っているとしか思えませんでした。まずは最も怪しい、倉橋と水瀬を遠ざけるべきだと進言申し上げたのですが……」
殿はわたしの心情を思い、倉橋は下がらせたが、水瀬は残した。
「だが、おりくが長次郎を産んだことで、森嶋も追い詰められた。妾腹とはいえ男児がいる場合、他家から養子を迎えることはできない。奴らは一か八か、八朔(八月一日)に決起するべく準備を進めているとの情報を南部が掴んだ。だが、いくら藩主が養子であっても、何の理由もなく、藩主に反旗を翻すことはできない」
殿が、じっとわたしの顔を見つめる。
「……それが、わたしだと?」
「ああ。何か起こるとすれば、貴女の身辺だと思ったが、再び貴女に奥入りを拒否されてしまって……」
顔を背ける殿に、玉ノ井が言う。
「だから、もっと早くご説明申し上げるべきと、常々申しておりましたのに」
「倉橋ばかりか、水瀬までが貴女を害そうとしているなど、とても口にする勇気がなかった。だが、これ以上は後まわしにできぬと思い、無理に奥渡りを強行したのが、今日だ」
「……なのに、わたしが逃げてしまったから……」
あ……と口元を覆えば、殿が眉尻を下げて首を振る。
「貴女が余に逢いたくないと思うのも、もっともなことだ。おりくの件を貴女に伝えておかなかった、余が悪い」
如月に国元を発つ時点で、妊娠がわかっていたのに、言い出すことができなかったという。
「奥渡りをしたその日に、貴女が刃物で傷つけられる。――余が貴女を傷つけたと虚偽の噂を流し、藩士の怒りを誘う。国元の側室が男児を産んだ今は、正室との間も不安定になるだろうし、上手く煽動すれば騙されるものも――」
ちょうどその時、庭先を御庭番が走り込んで、縁の間際で膝をついた。
「おそれながら。お留守居役、南部宗之進どのよりの、伝言でございます」
「よい、直答を許す」
「は。ただいま、江戸家老森嶋帯刀を問い詰めましたところ、すべてを認め、自ら腹を切ったと――」
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