上 下
37 / 48
【番外編】南部さんの結婚

香月藩江戸お留守居役

しおりを挟む
 南部宗之進なんぶそうのしんは、香月藩江戸お留守居役である。
 幕府のきまりにより、殿様は参勤交代で、国元と江戸を一年おきに往復する。殿様の留守の間も江戸藩邸につめて、他藩や公儀、あるいは町方と折衝する藩の外交官のような役割で、いわば藩の顔である。
 殿様が国元に戻っているときでも、江戸藩邸には多くの藩士たちやその家族がいて、近隣とのトラブルも結構、ある。そもそも、殿様のご正室と嫡子は江戸詰めが決められ、許可なく江戸を離れることは許されていない。お留守居役は江戸における対外交渉の実務を一手に引き受け、日々奔走することになる。

 たとえば幕閣の偉い人――老中、と言っても別に老人じゃない。バリバリの実務官僚で譜代大名だ。そんな手ごわい相手にも普段から付け届けを欠かさず、顔をつないで情報収集に努め、藩の不利益を回避する。
 香月藩は莫大な借財のために緊縮財政を行っているが、幕府有力者への付け届けと交際費は極力維持している。それらをケチって幕閣への根回しを怠ったおかげで幕府から普請ふしん(大規模工事)を命じられ、さらに借金が嵩んだ藩もあるからだ。

 それ以外にも、例えば町屋に住む藩士と近隣住人のトラブル、酔って騒いだ単身赴任の勤番者の引き取りなどなど、対外的な折衝はすべて、南部宗之進の肩に圧し掛かっている。

 若き殿様より特に江戸留守居役に任じられ、国元から出てきたときはわずか二十七歳。一年は先任の留守居役・川相清左衛門かわいせいざえもんの下で引き継ぎを行い、殿様のご帰国に従い、川相が国元に帰るのを機に一人立ちした。機密に関わることも多いので、補佐はいない。南部家にもともと仕える中間ちゅうげんの新吉を伴に、あるいは単身で、江戸上屋敷と町奉行所、時には千代田の御城とを駆けずり回る日々を送っている。

 南北の町奉行所には、頻繁に足を運ぶ。江戸町奉行は、都知事と警視総監と裁判所長官を兼ねたような重職で、また陪臣ばいしんである各藩の藩士たちは町奉行の管轄下に入るからだ。(将軍の直臣じきしんである藩士とその家族は大目付おおめつけの管轄。)

 その日も、南部宗之進は家中の藩士が雇っていた下女げじょの駆落ち騒ぎの処理のために、呉服橋御門内の北町奉行所に向かう。
 外桜田門の香月家上屋敷より日比谷堀ひびやぼりを左手に見ながら日比谷御門ひびやごもんの前を通り、堀に沿って曲がって八代洲河岸やよすがしを行く。この周辺は大名屋敷が集中しているから、道行く者は侍ばかり、それも、見るからに勤番者という浅黄裏あさぎうらに二本差しが多い。南部も独身で、国元から出てきてまだ二年と少し、勤番者とそう変わらない田舎侍だが、舐められるなと先任者の川相からきつく言われて、相当に気張った服装をしている。だからすれ違う勤番者からは、いかにもスカした江戸者に見えているかもしれない。木綿の着物にあばた面の若い侍に、妙に睨まれた。

 南部は気にせず、馬場先御門の前を通りすぎる。この門の中は、老中を歴任する牧野、堀田、本多、酒井といった譜代大名と、会津の松平家という親藩の屋敷があるだけで、人の出入りもさほどはない。南部はそのまま八代洲河岸を進んで、和田倉御門のところで右に折れ、評定所ひょうじょうしょの脇を通って御堀を目指して歩いていくと、左手に北町奉行所がある。
 
 北町奉行池上肥前守ひぜんのかみ鎮護やすもりは、元は百五十俵取の御家人で、勘定方かんじょうがたとして頭角を現し、佐渡奉行を経て三年前に当職に抜擢された。知行ちぎょう三千石さんぜんごくの大出世である。それだけに世情にも詳しく、江戸の民衆の声望も高い。

 南部が御番所ごばんしょと呼ばれる奉行所の大門に足を向けようとしたとき、背後の御堀の方から、何やら言い争う声が聞こえた。

「なんて無礼な! お離しなさい!」
「うるさい、生意気な、女のクセに!」

 甲高い女の声と、やや地方の訛りのある男の声。南部は振り向いて眉を寄せる。明らかに勤番者とおぼしき浅黄裏の侍が三人、武家娘とその連れの女に絡んでいる。

(おいおい、こんな御番所のすぐ脇で、あほか……)

 南部は呆れたけれど、大騒ぎになって苦労するのは間違いなく、勤番者が仕える大名家の留守居役だ。同業者の苦境を見捨てるのも忍びなく、また万一にも、侍どもが家中のものである可能性も捨てきれないので、南部は向きを変えて早足にそちらに向かい、遠くから声をかけた。

「これ、このような場所で、昼日中から婦女子と言い争うとは、何事であるか! 御家中の恥になる。お控え召され!」

 南部が近づいていくと、女の腕を掴んでいた勤番侍が露骨にいやそうな顔をし、ベッと唾を吐き出す。
 こんな躾の悪い奴を上屋敷に近づけるとは、迂闊な御家中だと思いつつ、南部がなおも近づいてアッと思う。さきほどすれ違ったあばた面であった。

(所在もなくうろついているというよりは……さては道に迷ったか……)

 武家地は似たような海鼠塀なまこべいが延々と続く。江戸に出てきたばかりの勤番侍が、目的地を見失っても無理はない。

「この女が生意気にも!」
「生意気であろうがなかろうか、無体なふるまいはお家の恥と心得召され。それに――」

 南部は侍に掴まれた腕を懸命に振り払おうとする武家娘に、遠目ながら見覚えがあった。――お留守居役という役目柄、人の顔は覚えるように心がけている。女にしては背が高く、ほっそりしているが気の強そうな横顔に、髪に挿した銀簪、武家らしい落ち着いた臙脂えんじ色の振袖、胸に抜き出された紋どころも桔梗であった。

「その御婦人はおそらくは、そちらの御番所に所縁ゆかりの方だ。池上家の桔梗紋であろう? 鬼の肥前と恐れられるお奉行だが、末の娘御に対しては甘いと聞いておるぞ? 貴公らのお振る舞い、万一藩名とともにお耳に入った暁には――」
 
 南部が言えば、勤番侍たちはハッとして娘の腕を放し、顔を見合わせて逃げ去ろうとする。南部がすかさず声をかけた。

「待たれよ! もしや、慣れぬ場所で行く先を見失われたのではあるまいか。そのまま迂闊に走っては、ますますドツボにはまるぞ!」
「それは――」
「ここらは似たようなお屋敷ばかりで、戸惑うのも無理はない。いずこへ向かわれるおつもりか」

 ぽつぽつと話すところによれば、彼らは藩の御用で国元から出てきて、郊外の下屋敷に滞在しているが、出府の挨拶のために上屋敷の位置を確かめにきたところだと言う。

「なるほど、本日ご挨拶申し上げるわけではない……」
「そう。この帰りに菓子舗に寄って礼物を購入し、明日、改めてご挨拶に伺う予定であるが、こうも同じようなお屋敷ばかりでは……」

 わざわざ事前に下見するとは、準備のいい男たちではある。

「前もって下調べに来て正解でござったな。貴公たちの目指す酒井様のお屋敷は、あちらの橋を渡った向こうでござる」

 南部は、呉服橋御門の向こう、銭瓶橋ぜにがめばしを指さして言った。

「ちなみに、あの一角には酒井雅楽頭うたのかみ様のお屋敷もある故、間違えぬように」
「か、かたじけない」

 三人の浅黄裏は南部に礼をすると、慌てたように早足で銭瓶橋の方へと消えた。
 その後ろ姿を見送り、さて、と向きを変えると、ふてくされたような表情の武家娘と、丁寧に頭を下げる年増の女中が視界に入る。

「お助けいただきありがとう存じます」
「いや、たいしたことではござらん」
「あのぐらい、このわたくしにかかれば、たいしたことはありませんでしたのに」
「お嬢様!」

 女中が娘の着物の袂《たもと》を引っ張るが、ツンと顔を逸らしている。
 南部は女の気の強さを面白く思いながら、大人しく頭を下げる。奉行の末娘は、お転婆の変わり者で有名だった。――なるほど、これは噂通り。

「いや、まったく、余計なお節介ではござったが、万が一にも我が家中の侍であったら責任問題になり申す故、口を出したのみ。すべてそれがしの事情故、気になさることはない。ご放念召されよ」
「ええ、今回は助けられたけど、次はなくってよ。わたくしを助けられたからって、いい気にならないことね」

 予想外の返答に、南部は一瞬、滅多に見開かない細目を見開き、だが、すぐに微笑んで礼を言った。

「それはそれは、もとより承知いたしております」

 南部はでは、と軽く頭を下げ、踵を返して北の御番所に向かう。

「お嬢様ったら、またわけのわからないことを!」
「わたくしは女とはいえ、旗本直臣じきしんの娘。他藩の侍に借りを作るなど、一生の不覚!」

 そんな会話を背中に聞きながら、南部はなんだか楽しい気分のまま北の御番所の門をくぐった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

愛しい人、あなたは王女様と幸せになってください

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,576pt お気に入り:5,913

そろそろ浮気夫に見切りをつけさせていただきます

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:66,925pt お気に入り:2,139

ここは私の邸です。そろそろ出て行ってくれます?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:489pt お気に入り:6,057

いいえ、望んでいません

恋愛 / 完結 24h.ポイント:859pt お気に入り:3,217

【完結】では、さっさと離婚しましょうか 〜戻る気はありませんので〜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,670pt お気に入り:5,034

10番目の側妃(人質)は、ひっそりと暮らしたい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:426pt お気に入り:1,058

処理中です...