エミリオとアリエッタ

柴咲もも

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使えない女中のアリエッタ

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「おまえ、本当に使えねーな!」

 床に転がったチェンバーポットとぺたりと座り込む部屋女中を蔑んだ目で見下ろして、エミリオは小憎らしい笑顔で吐き捨てた。
 チェンバーポットの陰からうねうねと這う蚯蚓が姿を現わすと、赤毛の部屋女中は悲鳴をあげて後退った。指先で蚯蚓をつまみあげ、少女のほうにぽいと投げやれば、少女はさらに悲鳴をあげて逃げ惑う。

 堪らない。愉快で堪らない。
 エミリオが嗜虐的にほくそ笑んでいると、けたたましく部屋の扉がノックされ、寸分後に兄のウルバーノが扉を開けた。逃げ惑う赤毛の女中の手首を掴み、部屋の中を一瞥すると、彼はまだ笑い続けているエミリオを見て、やれやれと肩を竦めた。

「エミリオ、いい加減にしろ」
「わかってるよ」

 諌めるような兄の声に、戯けた顔をして見せる。
 なんということはない。この騒動は、単なるいつもの悪戯だった。

「お前、なんでいつもこんなことしてんの」
「別にどうだっていいだろ。アリエッタは俺のなんだから」

 困ったように呟く兄に向かって咄嗟にエミリオが口にしたのは、そんな言葉だった。



 アリエッタはエミリオの家の使用人の娘で、子供の頃から共に育った幼馴染のようなものだ。
 エミリオの家は然程裕福ではない。使用人は炊事を担うアリエッタの母と、庭仕事を担うアリエッタの父と、その他の雑用を担うアリエッタの三人だけだ。

 アリエッタは昔から虫の類が大の苦手で、ちょっと目にしただけでも、それはもう大騒ぎだった。鼠や害虫が出ることも日常茶飯事なのだから、それでは掃除すらままならないだろうと考えて、はじめは慣れさせるためにはじめたことだった。けれど、最近は違う。

 最近のエミリオは、単に彼女を苛めているだけに過ぎなかった。それは、八つ当たりのようなものでもあった。



 泣き噦る彼女の姿に愉悦を感じるようになったのは、去年の夏、寄宿学校の夏季休暇で三つ年長の兄ウルバーノが帰郷した、その夜からだった。

 穏やかで優しく優秀な兄は、エミリオの憧れだった。
 兄と同じ黄金色の髪と碧い瞳は、エミリオの自慢であり、誇りでもあった。家庭教師に教わることができる勉強ですら、敢えて兄に教えて貰いたいと思うほど、エミリオは兄を尊敬していた。
 兄と同じ寄宿学校へいずれ入学することが決まっていたエミリオは、勉強を見てもらうため、深夜、兄の部屋を訪ねた。

 勤勉な兄は家に戻った後も図書室で熱心に勉強をしていた。きっと今も、寝る間を惜しむように勉学に励んでいるのだろう。
 少し驚かせてやろうと思って、エミリオは兄の部屋の扉をノックせずにそっと開き、室内の様子を窺った。

 暗い部屋に、蝋燭の灯りが灯っていた。机に兄の姿はなく、その代わり、部屋の中央に置かれたソファの上で人影が揺れていた。
 ぴちゃ……と湿った音が、エミリオの耳に届いた。荒い息遣いと、低く唸るような兄の声が、静まり返った室内に響いていた。扉の影から身を乗り出して、暗い室内によくよく目を凝らすと、兄の股の間に誰かが蹲っているのが見えた。

 何故だかわからないが、エミリオは声を掛けることも立ち去ることもできず、ただ息を潜めてその光景に魅入っていた。

 乱れた息遣いが徐々に激しさを増し、一際大きな呻き声とともに、兄は全身をぶると震わせた。
 どこか艶かしくさえ感じられる蝋燭の灯りに照らされて、兄の股のあいだに蹲っていた人物が顔を上げる。
 その姿をはっきりと目にしたとき、エミリオは扉を閉めることすら忘れ、自室へと逃げ帰った。

 蝋燭の灯りに映し出された、白濁した液に塗れた彼女の顔は、何処か虚ろげで。然し乍ら、エミリオに初めての劣情を覚えさせた。



 まだ幼かったエミリオは、下腹部に集まる熱の意味を知らなかった。この熱を逃す方法も、兄の行為の意味も、全くわからなかった。

 それ以降、エミリオはアリエッタの顔を見るたびに、あの日感じた独特の艶かしい空気を思い出すようになった。その度に身体に宿る熱を発散する方法もわからず、兄にも両親にも相談できず、エミリオはアリエッタに嫌がらせをすることで、満たされない欲求を誤魔化すようになったのだ。


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