エミリオとアリエッタ

柴咲もも

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 かりかりと豆を挽く不規則な音が、厨房に響く。
 豆挽き機の把手を握る手が、かたかたと震えて止まらない。

 エミリオに縁談が寄せられた。
 いつかそういう日がくることを覚悟していたはずなのに、アリエッタは今、吹き荒ぶ吹雪の中にひとりで投げ出されてしまったかのように絶望していた。

 ベッティーニ家のヴィルジニア嬢とは、一体どんな女性ひとなのだろう。
 カップにコーヒーを注ぎながら、アリエッタは考えた。

 ウルバーノは綺麗な赤毛だと褒めていた。きっと貴族の令嬢らしく、美しくて教養のあるひとだろう。
 食堂で耳にした話ではエミリオのことをとても慕っているようだし、エミリオの両親の喜びようを見れば、この縁談がエミリオに取ってこれ以上ない良縁であることも容易に伺えた。

 この屋敷で暮らす誰もが、この縁談を喜んでいる。
 アリエッタと、当事者であるエミリオを除いて。

 エミリオはあのあと、何と答えたのだろう。
 ウルバーノがわざとアリエッタを厨房に追いやったのは、アリエッタがあの場に居ると、エミリオが答えを口に出来なくなるからだ。

 エミリオは、両親の望みどおりの返事をしたのだろうか。

 アリエッタのまなじりに、じわりと涙が滲む。手のひらでそれを拭い、淹れたてのコーヒーをトレーに載せると、アリエッタは急いで食堂に戻った。
 そして、驚愕した。

 エミリオがいない。
 エミリオの姿が、食堂から消えていた。

 エミリオの両親もウルバーノも、特に取り乱した様子はなかったけれど、アリエッタが戻ったことに気が付くと、三人ともちらりとアリエッタに目を向けた。
 逸る気持ちでウルバーノの前にコーヒーを置いて、部屋の隅に控える母の隣に向かう。そわそわと落ち着かないアリエッタに、母がこそりと耳打ちをした。

「エミリオ坊ちゃんなら、中庭に出ていかれたわよ」

 はっとして、頭が真っ白になる。それと同時に、アリエッタは駆け出していた。

 使用人の象徴でしかない黒いドレスと白いエプロンを翻して、アリエッタは表廊下を駆け抜けた。
 中庭に足を踏み入れると、地表を覆う雪の上に点々と足跡が残っていた。アリエッタは仕事着のまま、雪の降る中庭に飛び出した。


 庭の中央に立つ大きな樹の下で、エミリオは雪に覆われた小枝を見上げていた。
 冷え切ったその顔は蒼白く、鼻の頭と頬だけが紅く染まっていた。

「エミリオ様……!」

 真っ白な吐息とともにアリエッタが名前を呼ぶと、エミリオはゆっくりと振り返り、掠れた声で呟いた。

「アリエッタ」

 どこか虚ろなその表情に、胸が苦しくなる。
 ざくざくと雪を踏みしめてアリエッタに近付くと、エミリオはアリエッタを抱き寄せた。耳元で絞り出されたエミリオの声は、まるで泣いているかのようだった。

「アリエッタ、ごめん、父さんとは今夜にでも話をつけるから」

 アリエッタを抱くエミリオの両腕に、ぎゅっとちからが込められる。エミリオが震えているのは、きっと寒さだけのせいではないはずだ。
 愛おしいひとに縋り付きたい気持ちをぐっと抑え、小さく息を吐くと、アリエッタはできる限りの笑顔でエミリオを見上げた。

「わたしは大丈夫です。それよりも、旦那様と奥様のお話を聞いて差し上げてください」

 アリエッタがそう言うと、エミリオはまるで信じられないものでも目の当たりにしたように碧い瞳を見開いた。震える唇から、掠れた声が漏れる。

「……なに、それ」
「だって、旦那様も奥様も、今回の縁談をとても喜んでいらしたではありませんか。せっかくのお話ですし、そのお嬢様と一度くらいお会いしてみてはいかがですか」

 ぎこちない笑顔で縁談を勧めること。これが、今のアリエッタに出来る精一杯だった。
 眉間に皺を寄せたエミリオが、口調を荒げてアリエッタに詰め寄った。

「それ、自分で何を言っているかわかってるの? 先方に会いに行くってことは、縁談を受けるってことだよ」
「わかっています。でも……」
「アリエッタは俺の気持ちなんてどうでもいいんだ? 俺のこと好きなんじゃなかったの?」

 口籠もるアリエッタの両肩を握って、エミリオがアリエッタの瞳を覗き込む。指先が肩に食い込んで、ずきりとした痛みにアリエッタは思わず目を瞑った。
 エミリオの真剣な眼差しが胸の奥まで突き刺さるようだ。

「……お慕いしています。でも、わたしは使用人です。エミリオ様には元々相応しくない身ですから、エミリオ様がこの度の縁談を受けられたとしても、約束を反故にしたとは思いません」

 その言葉がエミリオの望むものではないことくらい、アリエッタは重々に承知していた。こんな卑屈な考えなんて、エミリオは許さない。
 アリエッタが自分を貶めることは、アリエッタに好意を抱くエミリオをも貶めることなのだと、三年前のあの日、エミリオが言ってくれたのだから。

「エミリオ様はわたしのことを大切にしてくださいました。どんなに秘め事を繰り返していても、わたしが純潔を失わないように考えてくださっていました。そのおかげで、エミリオ様が縁談を受けてご結婚されても、わたしはわたしで両親の勧めるお相手と結婚して、平凡な幸せを築くことができます」

 心にもない嘘だった。
 アリエッタは他の誰のものにもなるつもりはない。エミリオの他に、この身を捧げたい相手なんて、きっと一生現れない。それでも、アリエッタはその想いを口にするわけにはいかなかった。
 口にしてしまえばエミリオはきっと、アリエッタの願いを聞き届けてくれるから。アリエッタのために全てを捨ててしまうから。
 アリエッタのわがままでエミリオが世間から蔑まれ、大切な家族を失うなんて、そんなことはあってはならない。

「意味わかんねー。最後までやってたら、俺のものになったんだ? 大事にしてたのに。大事にして一線を越えなかったからって、別れて別の男と幸せになりますって? なんだよそれ……」

 エミリオの整った顔がくしゃりと歪む。自虐と皮肉が綯い交ぜになった、複雑な表情だった。
 責めるような言葉を口にしているのに、その声はただただ悲嘆に暮れていて、己の無力さに打ち拉がれているのがわかる。やるせない気持ちが、痛いほどアリエッタに伝わってくる。
 アリエッタの肩を、エミリオの両手が突き放した。
 
「エミリオ様……」

 躊躇いがちに手を伸ばしても、その指先はエミリオには届かなかった。

「もういいよ、どっか行っちまえよ」

 苦々しく吐き捨てて、エミリオはアリエッタを置いて、雪の積もる中庭を出て行った。



 神様は意地悪だ。
 エミリオを傷つける言葉なんて。
 エミリオの信頼を裏切るような言葉なんて。
 絶対に、口にしたくなかったのに。


 青褪めた唇が震えていた。
 それはきっと、寒さのせいではなかったけれど、アリエッタは本当の理由を考えないことにした。
 温かい雫が頬をつたったけれど、それもきっと、体温で雪が溶けて流れ落ちただけだ。


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