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翌朝、エミリオは珍しく早く起床した。
食堂へ向かう途中でリビングを覗いてみると、暖炉のそばには大きなもみの木が飾り付けられており、壁や窓に赤と緑の煌びやかな装飾が施されていた。
子どもの頃は、屋敷の中をせっせと飾り付けるアリエッタとその母親の姿を遠くから眺めていたものだった。何度か手伝ったこともあったはずなのに、学校生活が忙しかったからといって、どうして祭りの日まで忘れていたのだろう。
深々と溜め息が漏れる。後頭部をぽりぽりと掻きむしって、エミリオは食堂の扉を開いた。
食堂では、父と母と兄のウルバーノが長テーブルを囲んでいた。
「おはよう、父さん。母さんも兄さんも、おはよう」
軽く挨拶をしてウルバーノの向かいの席に腰掛けて、エミリオは何気なく食堂内を見回した。
部屋の隅には茶器や食器が用意されており、その傍にアリエッタが慎ましく控えていた。ぱちりと目と目が合って、互いに慌てて視線を逸らす。ふたりの関係を両親に悟られないよう三年前からそうしてきたものの、無関心を装うことは、なかなかに難しいことだった。
やがて、厨房から食欲をそそる香りが漂い、アリエッタの母がワゴンを押して食堂に現れた。母娘がきびきびと朝食の料理を並べていく。
いちごのジャムののったバケットと、ベーコンとスクランブルエッグと豆料理のワンプレート、温かいスープがテーブルに並べられた。
食事をするあいだ、父と母は嬉しそうに、エミリオの寄宿学校の話を聞いたり、ウルバーノの大学の話を聞いたりしていた。監督生の話も話題にのぼったけれど、エミリオは愚痴ひとつこぼさずに誇らしげにしていた。
朝食もあらかた食べ終わり、それぞれが紅茶やコーヒーで一服していると、思い出したようにエミリオに顔を向けて、父が口を開いた。
「そういえばエミリオ、お前、ベッティーニ家のヴィルジニア嬢を知っているか?」
「ベッティーニ……?」
呟いて、聞き覚えがあるようなないような、曖昧な記憶に首をひねる。澄ました顔で朝食のスクランブルエッグを食べていた兄が、エミリオと父の顔をちらりと窺い見た。
エミリオが頭を悩ませていると、父はどこか楽しそうに続けた。
「寄宿学校の創立記念パーティーで会っているはずなんだが」
「あぁ、パーティーで一曲踊った。その相手がそうだったかも」
この冬の長期休暇前に催された寄宿学校の創立記念パーティーで、国のあちこちから年頃の令嬢が招かれた。エミリオも一曲だけ踊ったけれど、相手の令嬢が何処の誰だかはよく知らなかったし、とくに興味もなかったので名前も顔も忘れかけていた。なにしろエミリオは踊っているあいだ、ずっと相手にアリエッタを重ねて妄想に耽っていたのだから。
「そのヴィルジニア嬢が、お前に気があるらしくてな。どうかな、今度家に……いや、遠回しな物言いは良くないな……」
勿体ぶった父の口振りに嫌な予感を覚える。眉を顰めたエミリオの、銀のナイフとフォークを握る両腕が小刻みに震えていた。
まさか、兄ですらまだなのに、そんなことあるはずがない。
そう自分に言い聞かせようとしたけれど、エミリオの嫌な予感は見事に的中してしまった。
「あー、つまり、ベッティーニ家から良いご縁を戴いたんだ。お前さえよければ、ヴィルジニア嬢との縁談を進めようと思っているんだが……」
軽く咳払いをして父がエミリオに告げる。父の向かいに座っていた母が、「まあ、素敵なお話ね」と言って朗らかに笑ってみせた。ふたりとも乗り気で、それはそれは嬉しそうだ。
エミリオが幼い頃、父が友人の借金を肩代わりして以来、エミリオの家族はずっと、貴族とは名ばかりの貧しい生活をしてきた。父は優しい人だったから、母も兄も父を責めなかった。プライドを捨てて家族に頭を下げた父に、兄は「僕がなんとかする」と約束して――寄宿学校を卒業した兄は、やがてその言葉を現実のものにした。
だから、エミリオはすっかり安心していたのだ。稀に耳にする、財産のある貴族令嬢との持参金目当ての結婚なんて、自分の身に起こり得るはずがないと。
「ウルバーノは結婚には消極的だからなぁ。お前がいてくれて良かった」
そう言うと、父はおおらかに笑い、食後のお茶をひとくち飲んだ。母も幸せそうに頷いて、エミリオに微笑みを向ける。ウルバーノはコーヒーをぐっと飲み干して、空のカップをソーサーに置いた。
「や、待ってよ。父さん、俺は……!」
がたりと椅子が鳴る。勢い良く立ちあがったエミリオは、テーブルに手をついたまま、ちらりとアリエッタに目を向けた。
部屋の隅に佇むアリエッタは平静を装ってはいたけれど、エプロンの前で組んだ両手をかたかたと震わせていた。
「ヴィルジニア嬢は綺麗な赤毛だし、エミリオ好みなんじゃない?」
ウルバーノが意味ありげにくすりと鼻で笑う。父と母は目を見開いて、呆然とエミリオをみつめていた。
どう説明をするべきか、エミリオは必死に考えていた。
ベッティーニ家がどの程度の地位に属する家柄なのかはわからないけれど、縁談を断るには理由が必要だ。しかしながら、エミリオがアリエッタとの関係を公にすることは許されない。次男とはいえ、貴族の男が使用人の娘と恋に落ちるなど醜聞以外の何物でもなく、場合によってはエミリオの家族まで貶めることになるのだから。
縁談さえなければ父と母に全てを打ち明けて、家を出て自立したあとにアリエッタと結婚するつもりだった。けれど、順調に思えた計画に、まさかこんな落とし穴があったなんて。
額に汗がにじむ。ぎりと奥歯を噛み締めて、エミリオは声を捻り出した。
「俺は……俺は、アリエッタと……」
「アリエッタ、コーヒーのおかわりを貰えるかな」
エミリオの声を遮って、ウルバーノがかちんとカップを鳴らす。弾かれたように顔をあげたアリエッタが、小さく頭を下げて厨房へと姿を消した。
目を丸くした父親と母親が、消えたアリエッタとエミリオを忙しなく見比べていた。
エミリオはそれ以上、何も言うことができなくて。ぐっと唇を噛み締めると、逃げるように食堂をあとにした。
食堂へ向かう途中でリビングを覗いてみると、暖炉のそばには大きなもみの木が飾り付けられており、壁や窓に赤と緑の煌びやかな装飾が施されていた。
子どもの頃は、屋敷の中をせっせと飾り付けるアリエッタとその母親の姿を遠くから眺めていたものだった。何度か手伝ったこともあったはずなのに、学校生活が忙しかったからといって、どうして祭りの日まで忘れていたのだろう。
深々と溜め息が漏れる。後頭部をぽりぽりと掻きむしって、エミリオは食堂の扉を開いた。
食堂では、父と母と兄のウルバーノが長テーブルを囲んでいた。
「おはよう、父さん。母さんも兄さんも、おはよう」
軽く挨拶をしてウルバーノの向かいの席に腰掛けて、エミリオは何気なく食堂内を見回した。
部屋の隅には茶器や食器が用意されており、その傍にアリエッタが慎ましく控えていた。ぱちりと目と目が合って、互いに慌てて視線を逸らす。ふたりの関係を両親に悟られないよう三年前からそうしてきたものの、無関心を装うことは、なかなかに難しいことだった。
やがて、厨房から食欲をそそる香りが漂い、アリエッタの母がワゴンを押して食堂に現れた。母娘がきびきびと朝食の料理を並べていく。
いちごのジャムののったバケットと、ベーコンとスクランブルエッグと豆料理のワンプレート、温かいスープがテーブルに並べられた。
食事をするあいだ、父と母は嬉しそうに、エミリオの寄宿学校の話を聞いたり、ウルバーノの大学の話を聞いたりしていた。監督生の話も話題にのぼったけれど、エミリオは愚痴ひとつこぼさずに誇らしげにしていた。
朝食もあらかた食べ終わり、それぞれが紅茶やコーヒーで一服していると、思い出したようにエミリオに顔を向けて、父が口を開いた。
「そういえばエミリオ、お前、ベッティーニ家のヴィルジニア嬢を知っているか?」
「ベッティーニ……?」
呟いて、聞き覚えがあるようなないような、曖昧な記憶に首をひねる。澄ました顔で朝食のスクランブルエッグを食べていた兄が、エミリオと父の顔をちらりと窺い見た。
エミリオが頭を悩ませていると、父はどこか楽しそうに続けた。
「寄宿学校の創立記念パーティーで会っているはずなんだが」
「あぁ、パーティーで一曲踊った。その相手がそうだったかも」
この冬の長期休暇前に催された寄宿学校の創立記念パーティーで、国のあちこちから年頃の令嬢が招かれた。エミリオも一曲だけ踊ったけれど、相手の令嬢が何処の誰だかはよく知らなかったし、とくに興味もなかったので名前も顔も忘れかけていた。なにしろエミリオは踊っているあいだ、ずっと相手にアリエッタを重ねて妄想に耽っていたのだから。
「そのヴィルジニア嬢が、お前に気があるらしくてな。どうかな、今度家に……いや、遠回しな物言いは良くないな……」
勿体ぶった父の口振りに嫌な予感を覚える。眉を顰めたエミリオの、銀のナイフとフォークを握る両腕が小刻みに震えていた。
まさか、兄ですらまだなのに、そんなことあるはずがない。
そう自分に言い聞かせようとしたけれど、エミリオの嫌な予感は見事に的中してしまった。
「あー、つまり、ベッティーニ家から良いご縁を戴いたんだ。お前さえよければ、ヴィルジニア嬢との縁談を進めようと思っているんだが……」
軽く咳払いをして父がエミリオに告げる。父の向かいに座っていた母が、「まあ、素敵なお話ね」と言って朗らかに笑ってみせた。ふたりとも乗り気で、それはそれは嬉しそうだ。
エミリオが幼い頃、父が友人の借金を肩代わりして以来、エミリオの家族はずっと、貴族とは名ばかりの貧しい生活をしてきた。父は優しい人だったから、母も兄も父を責めなかった。プライドを捨てて家族に頭を下げた父に、兄は「僕がなんとかする」と約束して――寄宿学校を卒業した兄は、やがてその言葉を現実のものにした。
だから、エミリオはすっかり安心していたのだ。稀に耳にする、財産のある貴族令嬢との持参金目当ての結婚なんて、自分の身に起こり得るはずがないと。
「ウルバーノは結婚には消極的だからなぁ。お前がいてくれて良かった」
そう言うと、父はおおらかに笑い、食後のお茶をひとくち飲んだ。母も幸せそうに頷いて、エミリオに微笑みを向ける。ウルバーノはコーヒーをぐっと飲み干して、空のカップをソーサーに置いた。
「や、待ってよ。父さん、俺は……!」
がたりと椅子が鳴る。勢い良く立ちあがったエミリオは、テーブルに手をついたまま、ちらりとアリエッタに目を向けた。
部屋の隅に佇むアリエッタは平静を装ってはいたけれど、エプロンの前で組んだ両手をかたかたと震わせていた。
「ヴィルジニア嬢は綺麗な赤毛だし、エミリオ好みなんじゃない?」
ウルバーノが意味ありげにくすりと鼻で笑う。父と母は目を見開いて、呆然とエミリオをみつめていた。
どう説明をするべきか、エミリオは必死に考えていた。
ベッティーニ家がどの程度の地位に属する家柄なのかはわからないけれど、縁談を断るには理由が必要だ。しかしながら、エミリオがアリエッタとの関係を公にすることは許されない。次男とはいえ、貴族の男が使用人の娘と恋に落ちるなど醜聞以外の何物でもなく、場合によってはエミリオの家族まで貶めることになるのだから。
縁談さえなければ父と母に全てを打ち明けて、家を出て自立したあとにアリエッタと結婚するつもりだった。けれど、順調に思えた計画に、まさかこんな落とし穴があったなんて。
額に汗がにじむ。ぎりと奥歯を噛み締めて、エミリオは声を捻り出した。
「俺は……俺は、アリエッタと……」
「アリエッタ、コーヒーのおかわりを貰えるかな」
エミリオの声を遮って、ウルバーノがかちんとカップを鳴らす。弾かれたように顔をあげたアリエッタが、小さく頭を下げて厨房へと姿を消した。
目を丸くした父親と母親が、消えたアリエッタとエミリオを忙しなく見比べていた。
エミリオはそれ以上、何も言うことができなくて。ぐっと唇を噛み締めると、逃げるように食堂をあとにした。
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