エミリオとアリエッタ

柴咲もも

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 年が明け、やがて雪が溶けて、あっという間にときが過ぎた。
 首席ではなかったものの、優秀な成績で寄宿学校を卒業したエミリオは、この秋から街の大学に通うことが決まっていた。

 その日は天高く雲は晴れ、夏も終わりだというのに陽の光がじりじりと肌を焼き付ける真夏日だった。部屋の窓を開け放ち、廊下へと続く扉も開いたまま、エミリオは新生活に向けての荷造りをしていた。
 陽の当たらない室内を満たすうだるような暑さに、エミリオはシャツの襟をくつろげて袖を腕の付け根まで捲っていた。ときおり吹き抜ける生ぬるい風が汗ばんだ肌を掠めていく。大学生活に必要なものを見繕い、大型のトランクに衣類や小物類、学術書を詰め込んで、本棚や机の中身をあらかた片付け終えたところで、開いたままの部屋の扉をノックする音が聞こえた。
 エミリオが振り返ると、クロシュを被せた皿の載ったワゴンを引いて、アリエッタが顔を覗かせていた。

「エミリオ様、荷造りはお済みですか」
「もうちょっとかな」
「すこし休憩なさいませんか」
「いいね」

 エミリオが笑ってみせると、アリエッタもにっこりと微笑んで部屋に入ってきた。
 サイドテーブルのそばでワゴンを停めて、皿に被せたクロシュを開けて、アリエッタは小さな器にブラマンジェを取り分けた。手渡された濡れタオルがひんやりと冷たくて、アリエッタの細やかな気遣いに癒される。
 ガラスの器に盛られたブラマンジェは真っ白でぷるんとして冷たくて、一口食べてみると舌のうえでとろりと溶け、まろやかな甘みが口のなかに広がった。日中の暑さに参っていたことも相まって、その冷たいスイーツはエミリオにとって、まさに天の恵みのように感じられた。

「アリエッタが作ったの?」
「はい。今朝は氷がたくさん買えたので、奮発してしまいました」

 はにかむように笑うアリエッタに、エミリオは空になった器を差し出しておかわりを頼んだ。
 アリエッタは嬉しそうにエミリオがブラマンジェを食べる様子を眺めていたけれど、その表情はときおり陰りを帯びているように見えた。

「どうしたの、アリエッタ、元気ないじゃん」

 何気ない風を装って、エミリオがぱくりとスプーンを咥える。アリエッタはふるふると首を振ると、

「いえ……エミリオ様も秋から大学に通われるのだと思うと、感慨深くて」

そう言ってしょんぼりと肩を落とし、うつむいた。
 いじらしいアリエッタの振る舞いに、唇が否応なく弧を描いてしまう。

「淋しいんだ?」

 エミリオが意地悪な質問をすると、アリエッタは素直にこくりと頷いた。胸の奥がきゅんとときめくのと同時に、エミリオはスプーンの柄をぎゅっと握りしめた。
 ここ数日、エミリオはアリエッタに何度も声を掛けようとしたけれど、決まってタイミングが悪く時間を作れずにいた。大切な話があったのに、なかなか打ち明けられずにいたのだ。

 重要な決断を迫るような話には適切なタイミングがあるものだとエミリオは考える。この瞬間、今がそのときなのだと、エミリオは確信した。
 うつむいたままのアリエッタの手を取って、両手でそっと包み込むと、エミリオは椅子に掛けたままアリエッタの顔を見上げて言った。

「あのさ、アリエッタ。よかったら、今から散歩に行かない?」


***


 青々と茂る木の葉が樹々の枝を覆い、煉瓦造りの遊歩道に長い陰を落としていた。
 シャツにベストだけのラフな格好で頭に帽子をのせたエミリオは、夏物の地味なデイドレスを着たアリエッタと並んで道を歩いていた。

「良いお天気ですね」

 そう言って、アリエッタが幸せそうに瞳を細める。
 母のお下がりの日傘をさすアリエッタは立ち居振る舞いが淑やかで、エミリオの目にはそこらの良家の令嬢よりも、よほど輝いてみえる。傍目に見てもきっと、今のふたりはれっきとした恋人同士に見えるはずだ。
 アリエッタを置いて行かないように歩調を緩め、ちらりとアリエッタに目を向けると、エミリオは意を決して話を切り出した。

「……俺、秋から大学に通うだろ。それで、教授の研究室に通いやすいように、街に家を借りることにしたんだ」
「お屋敷から毎日大学に通うのは無理がありますものね」

 にっこりとアリエッタが笑う。その笑顔がとても純粋で無邪気なものだったから、エミリオは話の続きを口にするのを僅かばかり躊躇った。

「それでさ、もし嫌じゃなければ、アリエッタに一緒に来て欲しいんだけど」
「わたし、ですか……?」
「他に誰がいるの」
「……そうですよね。家を借りるなら、身の回りのお世話を誰かに任せなければいけませんよね」

 呟いて、アリエッタが考え込む。
 この反応からして、アリエッタは今の会話の本当の意味を理解していないのだろう。肝心な部分で全く意識されていないことが、エミリオにはちょっぴり悔しく思えた。
 生真面目なアリエッタは後任の雑役婦のことで頭を悩ませているようで、口を尖らせて拗ねているエミリオには全く気が付いていないようだった。
 しばらくすると、彼女らしい真面目な顔でアリエッタが口を開いた。

「お任せください。エミリオ様のお世話は」
「あのさ、アリエッタ。何か勘違いしてない?」

 アリエッタが最後まで言い切る前に、エミリオがアリエッタの言葉を遮った。エミリオの不機嫌にようやく気が付いたのか、アリエッタが翠の瞳を丸くする。

「……勘違い、していますか?」

 そう訊ねる口調も少しおどおどしたものになっていた。けれど、エミリオはそんなことには御構い無しに力強く頷いて、彼女の言葉を肯定した。

「家政婦が必要だというお話では……?」
「そうじゃなくてさ。つまり……」

 言い掛けて、エミリオはほんの少し躊躇した。けれどもはっきりと、伝えるべき言葉を口にした。

「結婚してほしい、ってことなんだけど」

 アリエッタの歩みが止まる。
 翠の目をまん丸く見開いて顔を真っ赤に染めたアリエッタは、口元を手のひらで覆い隠し、まっすぐにエミリオを見上げて固まっていた。
 ゆっくりとアリエッタに歩み寄り、左手の指先に触れて、エミリオはポケットから指輪を取り出した。指輪を持つ指が震えてしまい、わずかに手間取ったけれど、エミリオの手を離れた銀の指輪はアリエッタのほっそりとした薬指で煌めいていた。

「アリエッタ、俺と結婚してくれる?」

 もう一度、アリエッタの瞳をまっすぐに覗き込んで告げる。
 エミリオのプロポーズをようやく認識できたのだろう。アリエッタの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
 アリエッタの濡れた頬を指先で拭い、エミリオはアリエッタを抱き寄せた。

「結婚してよ、アリエッタ。そばにいて欲しいんだ」
「貴方と結婚します、エミリオ様。……ずっとおそばに置いてください」

 エミリオの胸に頬を寄せ、祈るように囁いたアリエッタは、これまでに見せたことのない幸せな笑みを浮かべていた。



 夕暮れの丘から、教会の鐘の音が聞こえる。
 エミリオの腕に黙って寄り添っていたアリエッタが、ふと思い出したようにエミリオに言った。

「あの、お訊ねしてもよろしいですか?」
「なに?」
「大学に通って、エミリオ様は何のお勉強をなさるのですか?」
「一応、医学を学ぶつもりなんだけど」
「では、大学を卒業したらお医者様に?」

 アリエッタが意外だと言うように小首を傾げる。我ながら「らしくない」と思っていたエミリオの口から、微かな笑いが洩れた。

「おかしい?」
「いいえ。ですが、わたしはてっきり、エミリオ様は弁護士を目指しているものだと思っていましたので」
「お前が怪我したり病気したりしても、医者になれば安心じゃん。それにほら、子供って怪我が多いし」
「子供……」

 呟いてぱちくりと目を瞬かせたアリエッタの顔が、瞬時に真っ赤に染まる。

「あ、いや、いずれはって意味で。き、気が早いとか言うなよ!?」

 取り繕うようにそう言うと、エミリオはぷいと前を向いて、片方の手をポケットに突っ込んで、ぶんぶんと首を振るアリエッタの手を取って歩き出した。
 そっと手を握り返す柔らかなぬくもりが、たまらなく愛おしい。

 夕闇に染まる空に、銀色の月が浮かんでいた。
 夜空を見上げる幸福なふたりの瞳には、満月からはほど遠いその姿が、まるで空に浮かぶ銀の指輪のように見えた。


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