Cat walK【完結】

Lucas

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萌と萌華

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 あの男、横田倭よこたやまとは律儀に店へやってきた。
 イベントの日はすべての席が予約で埋まる。横田はカウンター席へと案内されイロハがつくことになった。
 二人とも煙草を吸わないうえに店は忙しく、俺が席へ近づく回数は少ない。次の日も朝が早いからという理由で横田は八時過ぎに席を立った。オーダー票を持っていくと横田は現金だからといってレジの方へ移動した。イロハも後ろをついてくる。そこへママもやってきて横田と挨拶を交わした。ママにしては珍しく新規客である横田に好感を持っているようだった。この男の人柄がそうさせるのかもしれない。
 店先まで見送る。これは接客したキャストの仕事だ。ママが席に戻っていくのを確認したあとイロハは俺の背中を押して一緒に店を出た。
「ちょっと、イロハさん」
「大丈夫大丈夫。横田先生、今日はありがとう! 絶対また来てね」
「うん、こちらこそ。あんまりおられんくてごめんやで」
 おやすみなさい、と言ってイロハが店に戻る。とりあえず、店の前まで見送ることにした。
「本日はありがとうございました。イロハさんが無理を言ったようで……」
「んーん、全然! いい息抜きになったよ。みんな色んな恰好してて綺麗やったし。お兄さんとママさんはそのまんまなんやね」
「はい、まあ……」
 早く店に戻らなければいけない。その焦りからか、気の利いた言葉一つ出てこない。夜風が冷たく、目にも染みるようだった。
「今日も目キラキラ」
「え?」
「カラコン! かっこいいね」
 まただ。鼻の奥がつんとするような、一気に体温が上がるような、そんな感覚。俺は横田から顔を逸らして目を伏せた。
「ありがとうございます。まあ、乾きやすいのが難点ですけど」
「あー、コンタクトはやっぱそうなんやね。生徒もよく目薬差してるわ。あ、てかごめんごめん! 仕事戻らなあかんよね! 見送りありがとう」
 横田は大きく手を振ると、駆けていくような軽い足取りで行ってしまった。俺はその後ろ姿が見えなくなるまで見送る。
 何を期待していたのか。
 その後も店は目が回るような忙しさだった。あっという間に閉店時刻を迎え、キャストたちは次々とアフターへと繰り出す。宮野みやのさんもさすがに疲れているようだったので、俺はキッチンの片づけを申し出た。最初は遠慮していたが、よほど疲れていたのかグラスを片付けたあと宮野さんも帰って行った。それを見計らっていたかのように、更衣室からイロハが顔を出す。
「お疲れーもえちゃん!」
 さすがに花魁ルックでは自転車に乗れないのだろう。今日はちゃんと着替えていた。暖かそうなニットのワンピースに、髪を緩く束ねている。
「お疲れ様です」
「宮野さん帰らしてあげたんやね。気遣いのできるいい子やね、萌ちゃんは」
「こちらこそ。今日は余計な気遣いどうも」
 灰皿を洗いながら答える。昨日の今日でよくもあんな余計なことができたものだ。
「何か喋った?」
「何も」
「そっかあ、萌ちゃんのこと褒めてたのになあ。黒服さん一人で頑張っててすごいねえって」
「そうすか」
「萌ちゃん、今日うち泊まっていけへん?」
「結構です」
「萌ちゃん一人暮らしやろ? いいやん」
「イロハさんも一人暮らしでしょ。簡単に男を部屋に上げん方がいいですよ」
「今さら」
 たしかに、今さら何を言っているんだという話だ。
 すぐ隣までイロハがやってくる。店の照明とは違って、洗い場の白々とした蛍光灯の下で見ると、派手な化粧は不自然なほど浮いて見える。
「一人でいたくない夜って、ない?」
 そう言ってイロハが俺の体を引き寄せる。俺たちは、昨日と同じように唇を重ねた。
 一人でいたくない夜。今までは橘川きっかわのところへ行っていたのが、今度はイロハになっただけだった。


 彼女、萌華もかの家に入り浸るようになって分かったのは、本当に人前では一切物を食べないという事と『不安定』になる時間が実はとても多いこと。
 俺自身も人のことは言えないが、萌華はほとんど眠っておらず、仕事の時も元気に振る舞っているのはどうやら酒の影響も強いように思えた。眠れない時に飲んでいたという薬は例の心療内科から処方されていたものらしいが、酒と一緒に飲まない方がいいという俺の忠告を聞き入れてくれたのか、はたまた心療内科に行かなくなったので薬が切れただけなのか、その薬を飲まなくなったせいで症状は余計に悪化した。
 こういう状態に陥った人間のそばにいることがどれほど大変なのかを知った。結局体を重ね合うことでしか安息を得られなくなっていく。お互いに辛くあたってしまう時も、そのことで埋め合わせができているかのように思えてしまう。
 家では『萌華』、『萌』と互いを呼び合うようになっても、店で『イロハさん』、『レンくん』と呼び合っている時の方が楽だと感じていること。すでにそういう関係になっているのに、弱さを知ってしまった負い目から、離れていくことができないでいた。
 とくに、三月の萌華は荒れた。
 雛祭りの日も、ドレスイベント(普段ならばスーツドレスでも可だが、この日は全員カクテルドレス着用となる)があるので、てっきりまたあの先生を呼ぶのかと思って何気なく聞いてみたことがきっかけだ。
「結局、あの先生のことの方が気になるんやろ!」
 そう言って暴れる萌華を宥めるのに苦労した。俺たちのこういった喧嘩はもはや日常茶飯事と化し、隣人からの壁ドンすらされなくなった。その代わり管理会社へ苦情を入れることにしたのか、ほぼ毎週騒音注意のチラシがポストに投函された。
 俺としては、最初からあの男とどうこうなりたいとかそういった感情はない。自分でもよく分からないままに惹かれていたのは事実だが、それを彼女が大袈裟に捉えただけだ。でも、こういう状態になってしまった彼女には何を言っても無駄だった。それでも、二人でぬくもりを分け合う時間が俺たちには必要だった。
「萌には、分からん」
 そう呟いて、腕の中で眠る萌華を見つめる。いつも喧嘩をした後に後悔する。もっと余裕が欲しい。俺は一体何をしてやれるのだろう。
 そんな時、思い出したのが橘川の言葉だった。
 ――僕にとっても幸せやから。こうやってレンくんに何かしてあげることが。
 久しぶりに会いに行ってみよう。
 そう思い立ったのが、四月。春休みを満喫する学生たちの姿が街から消え始める頃だった。四月、蓮の命日がある月だ。
 俺は、彼女を連れて墓参りに行きたかった。過去の『レン』と決別して、『萌』として生きていくために。蓮にも、俺の人生の言い訳として付き合わせてしまったことを詫びるために。
 そのくらいの想いを抱くほどには、彼女を愛しているつもりだった。傷の舐めあいをしているようなこの関係に終止符を打つためにも必要なことに思えた。


 退勤後、俺は茶屋町のマンションに向かった。一ヶ月以上連絡もしていなかったのに、連絡を入れるとすぐに以前と変わらぬ返事が来た。
 そのことがどこか不安を覚えさせたが、俺は流れる景色を目に映しながら、この先のことを考えた。  
 あれから、彼女の携帯にあくつゆうとやニアからの連絡は一度もなかった。登録外の番号を着信拒否にしていても通知は残るが知らない番号からの着信はなく、あくつゆうとがかけてきた形跡はないらしい。
 結局、その程度のものだったのか。最後にお灸を据えたことが効いたのか、ニアがあくつゆうとに伝えなかったのかもしれない。ただ、このまま会わないでいられるのなら俺としてはその方がいい。もう面倒事はごめんだ。
 橘川のマンションに着くと、彼はいつもどおり俺をロビーで出迎え、部屋に入るなりすぐに抱いた。予想はして来ていたが、久し振りだったため体への負担が大きく、早々に眠ってしまいそうになった俺の髪を、橘川はずっと撫で続けていた。
 あまり干渉しないとはいえ、さすがに今回は気になったのか珍しく橘川から話を振ってきた。
「仕事忙しかったん?」
「うん、まあそれなりに。連絡あんまりしなくてごめん」
「ううん、元気そうでよかった」
 ぐったりと腕に抱かれている俺は、どうやらこの男からは元気に見えるらしい。俺は眠気と格闘しながら話を続けた。
「バーテンダーの仕事やったよね? あんまり無理はせんようにね」
「うん。あの、明日なんやけど。朝、俺も一緒に料理手伝っていい?」
 橘川が目を丸くして、穴が開きそうなほどにこちらを見つめてくる。
「なに? あかんかった?」
「ううん、なんかビックリ。レンくんからそういうの言ってくるのって初めてやね」
「そういうのって?」
「歩み寄ってくれること。全然いいよ、明日は一緒にご飯作ろう」
 やはり深くは踏み入ってこない。理由を聞かないまま、おやすみといって目を閉じた。
 料理なんて覚えようと思ったのは、一昨日萌華から話を聞いたからだった。
 それは突然のカミングアウトから始まった。
  萌華は年齢を偽って働いていた。実際は二十一歳になったばかりだという。若く見えるとは思っていたがまさか年下だったとは。
 その日はいつもより穏やかな夜だった。喧嘩続きでお互い疲れ切っていたこともある。深夜眠れずにいると彼女もそうだったのかぽつりぽつりと過去を語り始めたのだ。
「うちの家な、お父さんとお母さんがなんか交互に入れ替わっとって」
「なにそれ? どういうこと?」
「最初は両親揃っててん。保育園くらいまでかな。でも、小学校上がるくらいには、常にどっちかがおらんくなる時期があって。仲悪いから、喧嘩するたびにどっちか出て行ってんかなって思ってたんやけど。なんか、帰ってくる人がだんだん違う人になっていって、あたし結局どれが本物の親やったかよう分からんくなってきてた」
 彼女がいうには不仲である両親だったが経済的な事情から離婚はせず、住所だけはそのままにそれぞれ別の場所で相手を作り生活していたらしい。そして、たまに思い出したかのように相手を連れて家に帰ってきて、しばらくしたらまた出て行き新しい相手を連れて帰って来た。
 そのうちそのシャッフルに混乱して誰が親でもいいやと思うようになった。そう思うのも仕方ないのかもしれない。本物の両親含め、誰一人萌華の世話をしようとしなかったからだ。
「それで、まあいっちゃん困るのは食べ物とか、学校でかかるお金とかやね。給食がほんま頼りやったし、それ以外でもノートも鉛筆も服も買えんような状況で」
 そんな萌華だったが持ち前の明るさで友達を多く作り、複数の子の家を渡り歩くことで夕食をご馳走になったり、姉妹のいる子たちからはお下がりの服を貰っていた。
「あたし昔から可愛かったから。よく着せ替え人形にされてて、それでめっちゃ喜んだりしたらその服そのままくれたりしたんよね」
「自分で可愛いとかいう?」
「えー、人のこと言える? 萌も絶対自覚あるタイプやろ?」
 しばらく聞いていなかった萌華の軽口が嬉しくて、俺は「まあな」と言って話に乗る。萌華はおかしそうに声を立てて笑った。
「それで、筆記用具は学校の落とし物入れから貰うねん。いつもどうせ持ち主現れへんし、運いい時は上靴とかもあるんよね」
 サイズの合っていない上靴を履いて、同じ服を着回している萌華を、教師たちはどういう気持ちで見ていたのだろうか。
 萌華がいうには、両親が入れ替わり連れてくる相手には、あまりよくない筋の人間がいて、教師ですら口を出せないような状況にあったらしい。
 ――突っ込まん方がいい世界はいーっぱいあるんやでってこと。
 いつだったか、そう話していた萌華の声を思い出す。
「それでまあ、しばらくやってこれたんよね。給食の残りとか持って帰って次の日の朝ご飯にしたり、その辺になってたびわとかぐみとか食べたり」
「びわとぐみ?」
「うん。近所にいっぱいびわの木があって春先くらいから夏くらいまで実がなってんねん。あとちっちゃい植え込みみたいな木に赤い丸い実がなってて、みんなぐみって呼んでたけど正式名は知らん。とりあえずそれ食べてなんとかしてた。んー、今思ったらあれ野生のびわじゃなくて誰か栽培してたんかなあ、まあ分からんけど」
 思った以上にハードな生活環境だった。にもかかわらず、萌華はただの昔話をするようなトーンで続ける。
「やけど、毎回毎回ご飯よばれていってたら、いい気はせんやろうね。うちの親からはもちろんお礼の電話一本もないわけやし。色んな友達の家回ってたけど、だんだんそれも行きづらくなってきてた」
 それでも生きるために必死やった、と萌華は天井を見つめたまま囁くように言った。
「子どもなりに色々考えたんよ。誰か一人くらい、異常に気付いてくれへんかなって。こうやっていっつもご飯食べにきてたら、なんでやろう、この子のお母さんはご飯作ってくれへんのかなって。なんか聞いてくれへんかなって。できるだけ気に入られようとして、世界一おいしい、こんなん初めて食べたとか、毎回毎回ご機嫌取りに必死やった。友達の家の親は、みんなすごい優しくて、ご飯もお菓子もおもちゃも家にいっぱいあって、そんな家の親やったら、かわいそうな子ども見たらきっと助けてくれるんちゃうかなって、なんかすごい期待してたんよ」
 直接訴えることができなかったのは、恥ずかしかったからだ。震える声で彼女は言う。
「うちには食器もない。箸の持ち方も教えてもらえん。外に生えてる果物食べて、そんな生き方してる自分が、本当はめっちゃ恥ずかしかった。みじめな子じゃなくて、かわいそうな子って、同情してもらいたかった」
 彼女のささやかでいて切実な願いは結局誰にも届かなかった。
「たまには、自分のお家でご飯食べたら? お母さんとか心配してるんちゃう?」
 なんの抑揚もない声でそう言ったあと、萌華は声を詰まらせた。
「そう言われた。いつもみたいに、夕方なっても帰らんあたしに、顔は笑ってたけど、めっちゃ苛ついた声でそう言われた。それで、分かった。もうあかんわって」
 幼い彼女にとって、友達の親は身近にいる唯一のまともな大人で、たったひとつの希望だった。
「それが、二年生くらいの時やったかな。すごいショックで、それだけでもだいぶダメージでかい。明日からご飯どうしようとか、そういう心配もあったけど、それ以上になんかすごいみじめな気持ちになって、ご飯目当てで来てたいやしい子としか見られてなかったんやなあって。そんな風に思った。それでも、今までは嫌な顔せんとご飯食べさしてくれてたわけやん? やから、もうこれ以上は頼ったらあかんかなって、自分でもちゃんと考えてたんよ、それやのに」
 翌日から彼女はクラスでいじめに遭うことになる。畳みかけるように、不幸が襲う。
「いつもみたいに一緒に遊ぼって友達に言ったら、その子が言ったんよ。萌華ちゃんはあつかましいから、もうあんまり遊んだらあかんってお母さんに言われたって」
 得意気に親の言うことはすべて正しいと信じて疑わない子どもらしい残酷さで。
 そして、彼らは親のお墨付きを貰った格下のおもちゃを手に入れた。
 そこからは、同級生からの迫害にも耐えながら、必死に生きる方法を探した。
 両親の連れてくる人間の中には気まぐれで食べ物や小遣いをくれる者もいたという。その金でたまった給食費を支払い靴を買う。家に脱ぎ捨てられた洋服の裾を切ってそれを着て登校する。まさかそんな生活で小学校を卒業するまで持つとは思わなかったと、彼女は語る。
「人間って意外としぶといねえ」
 無理やり作る笑顔が蓮と重なった。横を向いて彼女を抱き寄せる。話すことで彼女が楽になるならいくらでも聞こうと思った。朝までかかったっていい。
「それでね、中学入って、制服になったし、外部からも生徒上がってくるし、いじめもちょっと落ち着いたんよね。家は相変わらずやったけど、でも、そん時くらいから、なんか上手く物食べれんくなって、他の小学校から来た子とかが、一緒に食べよってゆってくれても、人から見られると、指震えて、めっちゃ汗が出る。緊張して上がってる時みたいな感じ。心臓バクバクやねん。箸の持ち方キモいとか、食べ方汚いとか思われんちゃうかなとか、とにかく恥ずかしくてどうしようもなくなる」
 それが、萌華の抱える会食恐怖症。原因は幼少時の生活と、その後のいじめによるものだった。
「ほとんど不登校になって、学校行ってる振りだけしとって、そしたらまあ案の定ていうか悪いお友達ができちゃうんよね」
 その中の一人が、ネネさんだった。三つ年上のネネさんも、ネグレクトによって半ば家出状態。自分と似た境遇の萌華に深く同情してくれたらしい。二人は、萌華が中学を卒業したと同時に完全に家を飛び出し、夜の世界へと入った。
「でも、あたしまだ十五とか十六やから働かれへんやん? それで年ごまかしてたんよ。最初はそういう家出少女とかも雇っちゃうようなグレーな店で働いてた。今みたいないい店ちゃうで。それこそ組の人や、チンピラみたいな人しか来えへんし、やりたい放題の店やった」
 萌華たちが最初にいた店は、照明が全部薄暗く、ホールの奥に螺旋階段があり、そこにロフト状の小部屋があった。それがVIPルームで、ホールからも中の様子は確認できずそこに呼ばれたキャストは何をされても文句は言えなかったそうだ。
 そんな環境をネネさんが良しとするはずもなく、二人はなんとか逃げ出し別の店へと移った。
「そこはちっちゃいカラオケスナックでね。お昼は喫茶店やねん。やから、あたしは十八になるまで喫茶店で働いて、ネネちゃんが夜スナックに出てたんよ。でも、そこのママせこいっていうか、なんやかんや給料から天引きしていくんよね」
 二人はいわゆるネカフェ難民で住所を持たない。雇ってくれる場所も少なく、そんな所でも我慢するしかなかった。そして、現在まで一度も親が探しにきたことはなかったそうだ。
「なんやかんやあって、たまたま面接に来たユイネちゃんと意気投合して、店移ることにした。ユイネちゃん、風しか経験ないってゆってて面接でそれもペロッと言っちゃったから落とされたんよね。で、ネネちゃんが帰り際に元気出しやーって声かけたら『次はここ行くんで大丈夫です!』って、なんかケロッと答えて携帯見せてきたんやって」
 その携帯に映っていたのが、今の店の求人情報だった。ユイネさんを、面白い奴だと気に入ったネネさんは、萌華を連れて半ば無理やり同行した。だが、そのおかげでユイネさんはネネさんと口裏を合わせて経歴を誤魔化し、採用となった。
 ただ、ママはおそらく見抜いていたようで、それでも放り出せなかったのか、萌華にだけは本当に二十歳になるまでは酒を飲むなと強く言い聞かせたらしい。
 こうして話を聞くと、人生の後半は幸運が巡ってきたように思えるが、元々しなくてもよかった苦労と不幸に見舞われている。そんな過去の傷が、いまだ彼女を苦しめている。
「今やっと落ち着いた場所におって、こんな風になっても、後悔しかない」
 萌華の唇から何度も「疲れた」という言葉が零れる。
 疲れた。本当にそうだ。
「萌はさ、明日死ぬって決めたら、最後に何する?」
 話が急に風向きを変えた。俺が答えないでいると萌華は枕元に置いておいたスマホを取って、画面に指を滑らせた。
「あたしはね、誰かに後悔させたい。だからね、閻魔帳リストは消せへん。ロシアンルーレット」
 画面が、高速で流れていく。萌華は「もしも明日死ぬって分かったら」などという言い回しではなく「明日死ぬって決めたら」とハッキリ言った。俺はスマホを取り上げて、また枕元に置く。気の利いた言葉が、何も出てこない。
 死ぬ瞬間に、誰かに電話をかける。自分が何を選んだのかを、思い知らせる。
「ごめん、冗談。別に死ねへんよ」
 だから、そんな顔せんといて。
 そう言って、萌華は俺の頬を撫でた。彼女がどんな想いで、過去のことや本当の気持ちを俺なんかに語ってくれたのか。
 萌華の物語は、誰にも読まれるべきじゃなかった。彼女の人生は、見世物なんかじゃない。   


 俺の料理の腕はお世辞にも褒められたものではなかった。それでも、橘川は嫌な顔一つせずに全部食べた。
「ちゃんと作ったの初めてなんやろ? それやったら上出来やって。良かったら今日の晩御飯も一緒に作らん?」
「今日?」
 豪快に味噌の量を間違えた辛い味噌汁をすすりながら橘川を見る。
「夜は俺仕事あるし」
「その後でおいでよ。いつも通りの時間で僕は全然かめへんよ」
「いや、でも」
「しんどいんやったらご飯だけでもいいよ。それやったらいいやろ?」
 今までここまで強引に誘ってきたことはなかった。雲行きが怪しくなってきたので俺はなんとか話を逸らそうとする。
「来週、また来るよ。それまでに、自分でも料理ちょっと練習してくるし」
「その料理は誰に食べさせるん?」
 男が箸を置いた。
 あ、マズイ。
 そう思った。目が、持ってきた自分の鞄を探す。ナイフは、鞄の奥だ。
 自分の愚かさを呪うしかない。こういう事態を危惧してわざわざ用意していたというのに、なんの役にも立たない。
 そこからの記憶は曖昧だ。橘川は人が変わったように俺を殴り続けた。もちろん抵抗はした。だけど、いくらこちらの方が若かろうが、体格差や経験値でその程度のものはすぐに覆されてしまう。ろくに喧嘩をしたこともないような俺だったから、ナイフを買うことでしか身を守れないと思ったんだ。
 朦朧としたままだが、ようやく嵐は去ったようで、俺はベッドに寝かされていることに気づいた。
 痛みよりも疲れがひどい気がする。殴られる側もかなり体力を消耗するんだな。そんなことを考えながら、目の前の男を見つめる。いつもと同じ手つきで俺の髪を撫でている。 
「バーテンダーっていうのも嘘ってバレバレやで。いっつもあんなに色んな香水の匂いプンプンさせてて誤魔化せるわけないやろ? レンくん、ホストでもしてるんか? 足りひんのやったらお小遣いもっと渡すし、もうずっとここにおり」
 怖いくらいに穏やかな声。さっきまで俺を殴っていたことなんて、まるでこの男の中ではなかったことのようだ。
「こんなにしてもらっておいて、さすがにそれは不義理ってもんやで。別にこれからも自由に出かけるのはいいし、監禁なんてしたら犯罪やからそこまではせえへんから安心して。レンくん困らせたいわけじゃないし、この先もいい関係続けられたらって思ってるんよ。お互いもういい大人なんやし、分かるやろ? まあ、せめてもうちょっと誠意を見せてくれてもいいんちゃうかなって話」
 監禁は犯罪で、暴行は犯罪ではない。この男の倫理観はどうなっているんだか。不義理だというのは事実かもしれない。でも、クサいかも知れないが、心まで売ったつもりはなかった。
「今日は病院代もプラスしてお金置いとくね。あー、顔腫れてるけど鼻折れたりとかはしてへんね。良かった。まあ、なんかあっても僕が治療してあげるよ。腕には自信あるし」
 男は立ち上がると、ベッドサイドのテーブルに置かれた自分のスマホを持ち上げゆっくりとこちらに画面を見せた。
「レンくんも色々あるやろうから、まあ大丈夫やとは思うんやけど、念の為の保険。何回か撮影させてもらってるから。変なことは考えへんようにね。これもきっと普通にいい思い出になるよ」
 動画が流れ続ける。今俺がいるこの部屋だ。
「理解してもらえたかな。じゃあ、僕仕事行かなあかんから、ちゃんと病院行くんやで。『三崎萌みさきもえ』くん」
 倫理観がまったく仕事していない癖に、その男は颯爽と仕事へ出向いてしまった。
 俺はため息をつく。肺までもがひどく痛む。喉の奥もヒリヒリとした。起き上がると腹に重い痛みを感じる。顔面は熱い。自分が今どういう状態なのか確認するのが怖い。とにかく俺はなんとか歩いてリビングへ向かった。いつものようにテーブルに金が置かれている。十万。本当にこれで病院へ行けと言うことらしい。どう説明するんだよ、この怪我。
 病院よりも厄介なのは、萌華や職場への説明だ。触るだけで激痛が走るほどの顔の怪我は隠しようがない。職場へは早目に連絡を入れておいた方がいいかもしれない。たしか、宮野さんの息子さんがどうしてもの時は臨時で入ってくれると言っていた。バイクで転んだことにしておくか。萌華にはそんな下手な言い訳通用しないだろうな。
 十万を握りしめながら俺はできるだけ平常心を保つためにそんなことを考え続けた。
 食材を買って帰らなければ。結局ほとんど料理できないままだけど。でも、萌華に料理を作ってやりたい。
 少しずつでいい。恐怖を克服できるように。
 今まで誰も萌華のためだけに食事を用意してくれる人がいなかった。自分のための料理をあいつは食べたことがないんだ。だから、俺があいつだけのために飯を作る。一緒に食べられる日がすぐには来なくてもいい。それでも、これからも一緒にいたいから。
 俺はクローゼットを漁り手頃な帽子を見つけそれを被る。鞄の中身が何もなくなっていないか確認し手早くママに連絡を入れる。特に疑われた様子はなかったができるだけ早めに復帰して欲しいと言われた。これを機にもう一人黒服を雇ってもらえないものなのだろうか。
 店への連絡を済ませた俺は、覚束ない足取りでマンションを出る。もうここには二度と戻らない。
 橘川のドヤ顔が脳裏に過るが構うものか。動画なんて好きなだけばらまけばいい。住所も名前も職場もバレているのはあちらの方だ。俺がなり振り構わず反撃したら、どちらの方が代償が大きいのかくらいあの男なら分かるはず。
 それでもあんな脅しをかけてきたのは、俺が怯えて言う事を聞くと思ったのだろう。随分となめられたものだ。どちらにせよ、もうこちらからは関わらない。
 大通りへ出てタクシーを拾う。帽子を深く被ったまま俺は行き先を告げた。
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