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三崎萌
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「ずいぶん手の込んだ仮装やね」
部屋に入ってきた俺を見て萌華がそう言った。それもそのはず、今の俺の姿はどこからどう見てもクオリティの低いミイラ男だ。
ドラッグストアで適当に買った消毒液とガーゼと湿布で応急処置を済ませたのだが自分がここまで不器用だとは思わなかった。その上食材でパンパンになったエコバッグを抱えている。仮装というよりただの不審者のような佇まいだ。
「バイクでこけた」
「どんなこけ方したらそうなるんよ。もしかして白バイと追いかけっこでもした?」
言葉とは裏腹に今にも泣き出しそうな表情で俺の怪我の具合を窺う。
「大丈夫。見た目ほどひどない。病院行くのめんどくて自分でやったからこんなんやねん。とりあえず、店には連絡しといたから」
俺は荷物をキッチンに置いた。萌華は不審そうな目でそれを見る。
「じゃあ、あたしも休む……あたしが急に休むのはいつものことやから、なんも怪しまれへんと思うし……ていうか、ほんまに大丈夫なん? 病院行った方がよくない? それ、誰かにやられたんちゃうん?」
「ほんまいけるって。ほんまにヤバかったらこんなに動かれへん。それより、はよ店に連絡入れや」
さらに訝しむ萌華の視線を避けながら、俺は調理に取り掛かった。
「どうしたんよ、いきなり。お腹すいてるんやったらあたし作るで」
「いいって。俺が作りたいだけ」
携帯電話を立てかけて画面が見えるようにセットする。レシピ動画を見ながらの調理だ。なんとかなることを祈りながら俺はオムライスを作り始めた。箸ではなくスプーンで食べられるもの、なんとなく簡単そう、そんな理由で選んだオムライスだったが出来上がりはどう見ても赤いチャーハンだった。
皿を二つ持って部屋にあるローテーブルへ運ぶ。ベッドの上で音楽を聴いていたらしい萌華は、イヤホンを外してテーブルを見つめた。
「どういうこと?」
「どうせ作るなら、一人分も二人分も一緒やし、いつも俺の分まで作ってもらったりしてて悪いから」
「こないだ、あたしに話聞いたから?」
怒りを帯びた声に俺は慎重に返す。
「関係ないって言ったら、嘘になる。ていうか、関係はありまくるけど、俺は、萌華に料理を作りたかった。一緒に食えるようになるのは、めっちゃ先になってもいい」
ベッドの上に座っていた彼女が降りてきて俺の向かい側に座った。不格好なオムライスをじっと見つめている。
「めっちゃ下手くそ」
「一緒に食えるようになる頃には、もっと上達してるよ。多分」
「そうなったら、いいね」
萌華がスプーンを手に取る。思わず見入ってしまいそうになったができるだけ気にしないようにして俺は食べ始める。
「うん、味は大丈夫。ほぼケチャップの味しかしやんけど」
スプーンを動かし続ける俺に対し萌華の手は中々動かない。俺はただ食べ続ける。すると、ようやく萌華が一口目を口に運んだ。それだけでもガッツポーズをしたくなったが俺は皿を見たまま「どう?」とさりげなく聞いてみた。
「うん、めっちゃおいしい」
その一言で今までのすべてのことがどうでもよくなった。橘川に殴られた傷の痛みすら忘れた。でも、萌華はその一口きりでスプーンを置いてしまう。顔色が悪い。
「ごめん、ほんまに味はおいしい。だから、このせいじゃなくて」
「うん、いいよ。分かってる。無理せんで」
彼女は口元を押さえて洗面所へと向かった。やはりいきなり無理をさせすぎたのかもしれない。でも、必死に俺の気持ちに応えようとしてくれた。今はそれで十分だ。
その時、ベッドの上に置きっぱなしにされていた彼女のスマホが震えた。ふと目をやる。てっきり店からかと思ったがそこに表示されていたのは『夢野ニア』の名前だった。
とうとう接触してきたか、と俺はスマホを手に取る。萌華はまだ洗面所から出てきていない。少し迷ったが俺は電話に出ることにした。通話状態にしたまま黙って耳を傾ける。
「あ、もしもし? あの、こないだのことなんですけど……」
ニアがそう切り出した。こないだ? 何の事だ?
「もしもし? えっと、聞こえてます?」
何か言うべきか判断しかねていると、俺の手からスマホが取り上げられた。萌華がいつの間にか戻って来ていた。彼女は通話を切ってそれを後ろ手に隠した。
「勝手に触るとか最低」
「今のあの女やんな? どういうこと? こないだとかなんとか言ってたけど俺に内緒で連絡取ってた?」
自分でも驚くほどの冷たい声が出た。彼女を責めたくない。まずは事情を聞くのが先なのに怒りがふつふつとこみ上げてくる。
「萌は気にしやんでいい」
「意味が分からん。気にせんでいいのはそっちやろ? 部外者なんやから」
「もう部外者じゃない。それを言うなら、部外者なんはあの子らなんよ。あたしが適当にあしらうから、萌はもう忘れて」
「あの子ら? あくつゆうとからも連絡あったん?」
萌華は答えない。さっきまでの空気が嘘のように、暗い沈んだ目で、じっとこちらを見つめてくる。
「なんか言ってきたんか? それって絶対俺に関係あることやんな? 何で隠すねん」
俺が立ち上がると、彼女は後退った。体の痛みも戻ってくる。
「何か言えや。お前何でいっつもそうやねん。あの先生の時も、勝手に決めつけて余計なことばっかして、それで今度はこれか。人の問題に首突っ込むのもいい加減にしろや」
「なにそれ、人の問題に首突っ込んでるのは、そっちも同じやろ? 先生のことは謝ったやんか。今さらどうでもいいこと持ち出してこんといて。それともやっぱりまだどうでもいいことじゃないん? 萌にとっては」
よくない流れだと思った。どちらも引っ込みがつかなくなっている。二月のあの時であれば、一旦引いて謝ることもできた。でも、今は引き返すことができないくらいに互いの事情に踏み込んでいる。
だから、許せなくなる。
首を突っ込みまくった結果である無様な料理を見下ろしながら、俺は自分のことを棚に上げて彼女を責めた。
途中から彼女が何も言わなくなっていることも、表情に何の感情も表れていないことにも気づいていたのに。
「俺と弟のことにはもう関わらんといて欲しい。お前には一生分からん。二度と余計なことすんな」
そう言って俺は彼女の部屋から去った。
顔の腫れが治るまでに十日ほどかかった。久し振りに出勤する俺に、ママはまったくといっていいほどに不機嫌さを隠さなかったが、それでも解雇になることはなく俺は仕事に復帰することができた。
彼女はまだ出勤してきていない。彼女と会うのも久し振りだ。
あれから連絡を取っていない。まだ怒っているのかもしれない。当然といえば当然だが彼女もプロだ。仕事中にそのことを持ち込んだりはしないだろう。
そろそろお互いに頭も冷えた頃だ。今日はきちんと話をしたい。
そして、来週の蓮の命日には、一緒に墓参りに行く。
橘川からはあれから何度も着信があったが、そのうちかかってこなくなった。様子を見ているだけか、諦めたのか。ただ、強行手段に出るのは自分にとってもリスクはでかいと判断したのか動画は出回っていなかった。俺が調べた限りではだが。
そんなことより萌華だ。
俺はいつもどおり開店準備をこなしていく。他のキャストたちが出勤し始めても彼女は姿を現さなかった。
閉店後再びネネさんを捕まえて問い質す。俺たちが付き合うことになったことを知っているのはネネさんだけだ。
「喧嘩したんやってねえ。だいぶお怒りやであの子」
ネネさんはにんまり笑って煙草に火をつけた。駐輪場で、俺のバイクに腰をかけて話し始める。
「病み期は今回も長引きそうやけど、まあ変なことはせえへんのとちゃうかな。なんか引っ越すとか言ってたから気分変えたいんかもしらんよ」
「引っ越す? え、どこにですか?」
「さあ? まだ決まってないとか言ってたから分からんけど、でもまあ近くやろ。店辞めるとまでは言ってなかったし、ここに来れる範囲やと思うけどね」
「そうですか……分かりました。すみません、お時間取らせて」
「いーよいーよ。でもまあ、あの子が嫌がったらあんまりしつこくしたらあかんで。そん時はすんなり引き下がり。レンくんなら他に女すぐ見つかるやろ」
いつもは携帯灰皿を持っているのに、ネネさんは煙草をその場に捨てヒールで踏みつぶした。
あくまで萌華の味方だ。その動作がそのことを物語っている。
ネネさんが帰ったあと俺はその場を掃除して萌華のマンションに向かった。だけど、部屋は引き払われていた。ネネさんはまだ決まっていないと言っていたが、あの態度から鑑みるに俺を警戒し教えなかっただけなのだろう。どうやらかなり怒っているようだ。店に出てくるまで待つしかないか。
電話は何度かかけてみたが、彼女が出ることはなかった。ただ、またもいつの間にやら俺のスマホは彼女の手に渡っていたようで、登録名が変更されていた。
『いちばん大切なモカちゃん』
そんな隙がいつあったのか分からないが、おそらく萌華が過去を語ってくれたあの日だと思われる。そして、さらに登録件数が増えていることにも気づいた。
『先生』
余計なことを。
あいつが何を考えているのか分からない。とにかく、今すぐにでも会いたかった。
だけど、それも叶わず、時間だけが過ぎていく。
業を煮やした俺は再度ネネさんを問い詰め見事にあしらわれ、疑われるのを覚悟でママにも聞いてみた。だけど「しばらく休むみたいやで」と素っ気ない返事が返ってきただけだった。
このまま、俺たちは終わってしまうのだろうか。明日は、とうとう蓮の命日だ。こんなことなら、あの日もっとちゃんと話し合うべきだった。
東大阪市にある長瀬駅に降り立った。結局、彼女とは連絡がつかないまま、俺は一人墓地へ向かう。
駅から徒歩五分ほどで着く霊園に蓮は眠っている。時刻は正午を少し過ぎた頃だ。
俺は墓地をゆっくり歩き蓮の墓の前へ辿り着いた。両親は午前中に来ていたようで、すでに掃除はされ花も替えられている。
「蓮、久し振り」
春風が音を立てる。まるで、蓮が返事をしたようだった。
「ごめんな、いまだに、こんな情けない兄ちゃんで」
しゃがんで手を合わせようとした時だった。
誰かが近づいてくる。思わず身構えそうになった。あれから橘川の影を恐れ、普段もナイフを仕込ませてある鞄をぐっと握りしめる。
「あの、三崎萌さんでしょうか?」
知らない男だった。二十代後半くらいだろうか。細い目をした気弱そうな男だ。
「どちら様ですか?」
「阿久津優希と申します。阿久津裕斗の兄です」
そう言って軽く頭を下げる。どう反応すればいいのか分からない。どうして、あいつの兄がこんなところにいるんだ。
「突然すみません。弟が、どうしてもあなたとお話がしたいと。それで、今日が蓮くんの命日やと聞いて、ここで待たせてもらってたんです」
「どういうことですか?」
墓の場所は両親に聞いたに違いない。同級生だったといえば、あの人のいい両親のことだから何の疑問も持たずに教えるだろう。
その男は言葉を濁し、視線を巡らせた。墓地には、もう一人いた。
あくつゆうとだ。
少し離れた場所でぼんやりと立っている。
「裕斗、三崎さんが来られたよ」
男が声をかけると、あいつはこっちを向いた。前に会った時と変わらない。ただ、不自然に腕を垂らしたまま、ゆっくりこちらに歩いてきた。
「兄ちゃん、なに?」
「何じゃないやろ? ほら、ご挨拶し」
しっかりと目が合う。眠そうだった目に、徐々に生気が宿っていく。
「あ……萌、さん?」
俺は何も答えずそいつを見据えた。
今さら何なんだ。もしかして、萌華と連絡を取っていたのは今日こうやって待ち伏せするためだったのか。萌華はそれを止めようとしていたのかもしれない。
「えっと、昨日は、失礼なことしてすみませんでした」
ぺこりと軽そうな頭を下げるあくつゆうと。昨日とは一体何の事だ?
「猫カフェで、俺、無神経にいろいろ聞いたから、本当はちゃんと謝らなあかんかったのに」
「は?」
猫カフェに行ったのはほぼ一年近く前の話だ。ここでようやくあくつゆうとの様子のおかしさに気づく。
視線はふらふらと落ち着かず、動かないままの右手に、肌の質感が欠けていること。そして、その手の甲に、俺がつけた火傷の痕がないこと。
「俺、蓮にひどいことゆったから」
「お前、急にどうした? 小学校の時のことゆってるんやったら、それはもういい」
「でも、子猫が」
「子猫?」
その言葉に、俺は胸を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
猫。蓮が、死ぬことになった理由の一つだ。
「うん、子猫がおって、蓮と拾った。拾ったっていうか、俺が見つけて、でも、そん時、俺、蓮と喧嘩して」
あくつゆうとの兄は、心配そうに弟の横顔を見つめている。すぐに支えられるように、こいつの右側に立って。
「萌、ゆってたやん? えっと、こないだやったかな。春休みに、話してくれたやん? それでな、俺、なんか喧嘩した時に腹立って、それを蓮にゆっちゃって」
こいつの頭の中の時系列はどうなっているんだ。それより、俺はこいつに何を話したのだっただろうか。蓮にちょっかいを出すなと釘を刺しただけだったはずでは。
「蓮に、萌がゆってたって。ほんまは、弟なんかおらん方が良かったってゆってたって、俺、その話を、蓮にした」
一瞬、すべての音が消え去ったようだった。
記憶の波が押し寄せる。
春休み、公園、蟻の巣、それから、何故かあくつうゆうとと二人で話したんだ。名前のこと、何気なく零してしまった愚痴のようなもの。
――正直、弟なんかおらんかったらいいのにって、思ったことも何回もある。
そうだ、あの日、俺はこいつにそう言った。
それを、こいつが伝えた? 蓮に?
「それ、謝りたくて」
ごめんなさい、と頭を下げたあくつゆうとは、顔を上げると同時に首を傾げた。
「あ、萌……さん?」
昨日は、失礼なことを……と、あくつゆうとは繰り返す。その異様な光景に、俺は何も言えなくなった。
「裕斗、もうそれは話したやろ? 三崎さん、すみません。弟はちょっと調子が悪くて……」
あくつゆうとの兄が前に出て膝をついた。そして、そのまま深く頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
俺は、状況がまったく飲み込めずにいた。兄の謝罪は尚も続く。
「弟さんを傷つけるようなことしてしまって。こいつから話を聞くまで、そんなことが起きていることも知らず、謝罪が遅くなって本当にすみません……裕斗の不用意な発言のせいで、弟さんには本当に申し訳ないことをしたと思ってます」
混乱したまま俺は鞄に手を入れた。鞄の底の冷たい感触に手が当たる。
蓮は、こいつからあの話を聞いて、それで、俺の為に、俺を突き放すようなことを言ったのか。
あの日、様子がおかしかったのは、そのせいだったのか。
こいつのせいで。
鞄の中のナイフを握る。
体温を吸い取られるように、指先が冷えていく。
兄は謝り続けている。
でも、どうだっていい。誰がどう謝ろうが、蓮はもう、戻ってこないんだ。ナイフを握る手の力を緩めない。
こいつのせいで。
ナイフを取り出そうとした時、鞄の底で何かが震えた。思わずそちらに指が伸びる。鞄からそれを取り出した。
『いちばん大切なモカちゃん』
そう表示されたスマホ。一度きりのコールでそれは途絶えた。だけどそれは俺にブレーキをかけるには十分な威力を持っていた。
あの日も、ニアと連絡を取り合っていたのは、こうすることを止めるためだったのだろうか。
あくつゆうとからこの話を聞いた後、俺が何をしようとするのか。彼女にはそれが分かっていたのかも知れない。
俺はスマホを仕舞うと頭を下げたままの男を見下ろした。
「頭上げてください。そんなことしてもらっても、もうどうにもならないんです。弟は戻って来ません」
許す。その言葉はけっして言わない。
蓮を殺したのは別の男だ。復讐したいならそいつを殺すべきだ。出所して、どこかでのうのうと生きているであろう殺人鬼を。
でも、俺はしない。できない。そんな熱量なんて端からない。
俺は結局不幸なくらいがちょうどいいんだ。
男がのっそりと立ち上がり、再び頭を下げる。あくつうゆうとはまたぼんやりと自分の世界に閉じこもってしまったようだ。
こいつにも、それなりの悲劇が降りかかり、不幸の最中にいるらしい。
でも、お前の物語なんか読んでやるか。
お前は俺にとっても蓮にとっても害悪だった。
もうその事実で十分だ。
贖罪も何も求めない。その代わり、俺はそのことを免罪符にかわいそうを続けようと思う。
俺がこれからの人生で何かを前向きに考えるとしたら、それは彼女のことだけだ。
「もう俺ら兄弟のことには関わらんでください。お願いします」
男は、最後まで顔を上げずにいた。肩がわずかに震えている。この男には何の罪もない。
でも、あくつゆうとに直接響かないのであれば、あんたが代わりに背負ってくれ。
兄貴なんだから。
俺は踵を返し、霊園を後にした。
もう振り返らない。
俺の名前には、蓮とは違って沈まない力はない。でも、地獄にいたままでも彩ることができるということを知ったから。
部屋に入ってきた俺を見て萌華がそう言った。それもそのはず、今の俺の姿はどこからどう見てもクオリティの低いミイラ男だ。
ドラッグストアで適当に買った消毒液とガーゼと湿布で応急処置を済ませたのだが自分がここまで不器用だとは思わなかった。その上食材でパンパンになったエコバッグを抱えている。仮装というよりただの不審者のような佇まいだ。
「バイクでこけた」
「どんなこけ方したらそうなるんよ。もしかして白バイと追いかけっこでもした?」
言葉とは裏腹に今にも泣き出しそうな表情で俺の怪我の具合を窺う。
「大丈夫。見た目ほどひどない。病院行くのめんどくて自分でやったからこんなんやねん。とりあえず、店には連絡しといたから」
俺は荷物をキッチンに置いた。萌華は不審そうな目でそれを見る。
「じゃあ、あたしも休む……あたしが急に休むのはいつものことやから、なんも怪しまれへんと思うし……ていうか、ほんまに大丈夫なん? 病院行った方がよくない? それ、誰かにやられたんちゃうん?」
「ほんまいけるって。ほんまにヤバかったらこんなに動かれへん。それより、はよ店に連絡入れや」
さらに訝しむ萌華の視線を避けながら、俺は調理に取り掛かった。
「どうしたんよ、いきなり。お腹すいてるんやったらあたし作るで」
「いいって。俺が作りたいだけ」
携帯電話を立てかけて画面が見えるようにセットする。レシピ動画を見ながらの調理だ。なんとかなることを祈りながら俺はオムライスを作り始めた。箸ではなくスプーンで食べられるもの、なんとなく簡単そう、そんな理由で選んだオムライスだったが出来上がりはどう見ても赤いチャーハンだった。
皿を二つ持って部屋にあるローテーブルへ運ぶ。ベッドの上で音楽を聴いていたらしい萌華は、イヤホンを外してテーブルを見つめた。
「どういうこと?」
「どうせ作るなら、一人分も二人分も一緒やし、いつも俺の分まで作ってもらったりしてて悪いから」
「こないだ、あたしに話聞いたから?」
怒りを帯びた声に俺は慎重に返す。
「関係ないって言ったら、嘘になる。ていうか、関係はありまくるけど、俺は、萌華に料理を作りたかった。一緒に食えるようになるのは、めっちゃ先になってもいい」
ベッドの上に座っていた彼女が降りてきて俺の向かい側に座った。不格好なオムライスをじっと見つめている。
「めっちゃ下手くそ」
「一緒に食えるようになる頃には、もっと上達してるよ。多分」
「そうなったら、いいね」
萌華がスプーンを手に取る。思わず見入ってしまいそうになったができるだけ気にしないようにして俺は食べ始める。
「うん、味は大丈夫。ほぼケチャップの味しかしやんけど」
スプーンを動かし続ける俺に対し萌華の手は中々動かない。俺はただ食べ続ける。すると、ようやく萌華が一口目を口に運んだ。それだけでもガッツポーズをしたくなったが俺は皿を見たまま「どう?」とさりげなく聞いてみた。
「うん、めっちゃおいしい」
その一言で今までのすべてのことがどうでもよくなった。橘川に殴られた傷の痛みすら忘れた。でも、萌華はその一口きりでスプーンを置いてしまう。顔色が悪い。
「ごめん、ほんまに味はおいしい。だから、このせいじゃなくて」
「うん、いいよ。分かってる。無理せんで」
彼女は口元を押さえて洗面所へと向かった。やはりいきなり無理をさせすぎたのかもしれない。でも、必死に俺の気持ちに応えようとしてくれた。今はそれで十分だ。
その時、ベッドの上に置きっぱなしにされていた彼女のスマホが震えた。ふと目をやる。てっきり店からかと思ったがそこに表示されていたのは『夢野ニア』の名前だった。
とうとう接触してきたか、と俺はスマホを手に取る。萌華はまだ洗面所から出てきていない。少し迷ったが俺は電話に出ることにした。通話状態にしたまま黙って耳を傾ける。
「あ、もしもし? あの、こないだのことなんですけど……」
ニアがそう切り出した。こないだ? 何の事だ?
「もしもし? えっと、聞こえてます?」
何か言うべきか判断しかねていると、俺の手からスマホが取り上げられた。萌華がいつの間にか戻って来ていた。彼女は通話を切ってそれを後ろ手に隠した。
「勝手に触るとか最低」
「今のあの女やんな? どういうこと? こないだとかなんとか言ってたけど俺に内緒で連絡取ってた?」
自分でも驚くほどの冷たい声が出た。彼女を責めたくない。まずは事情を聞くのが先なのに怒りがふつふつとこみ上げてくる。
「萌は気にしやんでいい」
「意味が分からん。気にせんでいいのはそっちやろ? 部外者なんやから」
「もう部外者じゃない。それを言うなら、部外者なんはあの子らなんよ。あたしが適当にあしらうから、萌はもう忘れて」
「あの子ら? あくつゆうとからも連絡あったん?」
萌華は答えない。さっきまでの空気が嘘のように、暗い沈んだ目で、じっとこちらを見つめてくる。
「なんか言ってきたんか? それって絶対俺に関係あることやんな? 何で隠すねん」
俺が立ち上がると、彼女は後退った。体の痛みも戻ってくる。
「何か言えや。お前何でいっつもそうやねん。あの先生の時も、勝手に決めつけて余計なことばっかして、それで今度はこれか。人の問題に首突っ込むのもいい加減にしろや」
「なにそれ、人の問題に首突っ込んでるのは、そっちも同じやろ? 先生のことは謝ったやんか。今さらどうでもいいこと持ち出してこんといて。それともやっぱりまだどうでもいいことじゃないん? 萌にとっては」
よくない流れだと思った。どちらも引っ込みがつかなくなっている。二月のあの時であれば、一旦引いて謝ることもできた。でも、今は引き返すことができないくらいに互いの事情に踏み込んでいる。
だから、許せなくなる。
首を突っ込みまくった結果である無様な料理を見下ろしながら、俺は自分のことを棚に上げて彼女を責めた。
途中から彼女が何も言わなくなっていることも、表情に何の感情も表れていないことにも気づいていたのに。
「俺と弟のことにはもう関わらんといて欲しい。お前には一生分からん。二度と余計なことすんな」
そう言って俺は彼女の部屋から去った。
顔の腫れが治るまでに十日ほどかかった。久し振りに出勤する俺に、ママはまったくといっていいほどに不機嫌さを隠さなかったが、それでも解雇になることはなく俺は仕事に復帰することができた。
彼女はまだ出勤してきていない。彼女と会うのも久し振りだ。
あれから連絡を取っていない。まだ怒っているのかもしれない。当然といえば当然だが彼女もプロだ。仕事中にそのことを持ち込んだりはしないだろう。
そろそろお互いに頭も冷えた頃だ。今日はきちんと話をしたい。
そして、来週の蓮の命日には、一緒に墓参りに行く。
橘川からはあれから何度も着信があったが、そのうちかかってこなくなった。様子を見ているだけか、諦めたのか。ただ、強行手段に出るのは自分にとってもリスクはでかいと判断したのか動画は出回っていなかった。俺が調べた限りではだが。
そんなことより萌華だ。
俺はいつもどおり開店準備をこなしていく。他のキャストたちが出勤し始めても彼女は姿を現さなかった。
閉店後再びネネさんを捕まえて問い質す。俺たちが付き合うことになったことを知っているのはネネさんだけだ。
「喧嘩したんやってねえ。だいぶお怒りやであの子」
ネネさんはにんまり笑って煙草に火をつけた。駐輪場で、俺のバイクに腰をかけて話し始める。
「病み期は今回も長引きそうやけど、まあ変なことはせえへんのとちゃうかな。なんか引っ越すとか言ってたから気分変えたいんかもしらんよ」
「引っ越す? え、どこにですか?」
「さあ? まだ決まってないとか言ってたから分からんけど、でもまあ近くやろ。店辞めるとまでは言ってなかったし、ここに来れる範囲やと思うけどね」
「そうですか……分かりました。すみません、お時間取らせて」
「いーよいーよ。でもまあ、あの子が嫌がったらあんまりしつこくしたらあかんで。そん時はすんなり引き下がり。レンくんなら他に女すぐ見つかるやろ」
いつもは携帯灰皿を持っているのに、ネネさんは煙草をその場に捨てヒールで踏みつぶした。
あくまで萌華の味方だ。その動作がそのことを物語っている。
ネネさんが帰ったあと俺はその場を掃除して萌華のマンションに向かった。だけど、部屋は引き払われていた。ネネさんはまだ決まっていないと言っていたが、あの態度から鑑みるに俺を警戒し教えなかっただけなのだろう。どうやらかなり怒っているようだ。店に出てくるまで待つしかないか。
電話は何度かかけてみたが、彼女が出ることはなかった。ただ、またもいつの間にやら俺のスマホは彼女の手に渡っていたようで、登録名が変更されていた。
『いちばん大切なモカちゃん』
そんな隙がいつあったのか分からないが、おそらく萌華が過去を語ってくれたあの日だと思われる。そして、さらに登録件数が増えていることにも気づいた。
『先生』
余計なことを。
あいつが何を考えているのか分からない。とにかく、今すぐにでも会いたかった。
だけど、それも叶わず、時間だけが過ぎていく。
業を煮やした俺は再度ネネさんを問い詰め見事にあしらわれ、疑われるのを覚悟でママにも聞いてみた。だけど「しばらく休むみたいやで」と素っ気ない返事が返ってきただけだった。
このまま、俺たちは終わってしまうのだろうか。明日は、とうとう蓮の命日だ。こんなことなら、あの日もっとちゃんと話し合うべきだった。
東大阪市にある長瀬駅に降り立った。結局、彼女とは連絡がつかないまま、俺は一人墓地へ向かう。
駅から徒歩五分ほどで着く霊園に蓮は眠っている。時刻は正午を少し過ぎた頃だ。
俺は墓地をゆっくり歩き蓮の墓の前へ辿り着いた。両親は午前中に来ていたようで、すでに掃除はされ花も替えられている。
「蓮、久し振り」
春風が音を立てる。まるで、蓮が返事をしたようだった。
「ごめんな、いまだに、こんな情けない兄ちゃんで」
しゃがんで手を合わせようとした時だった。
誰かが近づいてくる。思わず身構えそうになった。あれから橘川の影を恐れ、普段もナイフを仕込ませてある鞄をぐっと握りしめる。
「あの、三崎萌さんでしょうか?」
知らない男だった。二十代後半くらいだろうか。細い目をした気弱そうな男だ。
「どちら様ですか?」
「阿久津優希と申します。阿久津裕斗の兄です」
そう言って軽く頭を下げる。どう反応すればいいのか分からない。どうして、あいつの兄がこんなところにいるんだ。
「突然すみません。弟が、どうしてもあなたとお話がしたいと。それで、今日が蓮くんの命日やと聞いて、ここで待たせてもらってたんです」
「どういうことですか?」
墓の場所は両親に聞いたに違いない。同級生だったといえば、あの人のいい両親のことだから何の疑問も持たずに教えるだろう。
その男は言葉を濁し、視線を巡らせた。墓地には、もう一人いた。
あくつゆうとだ。
少し離れた場所でぼんやりと立っている。
「裕斗、三崎さんが来られたよ」
男が声をかけると、あいつはこっちを向いた。前に会った時と変わらない。ただ、不自然に腕を垂らしたまま、ゆっくりこちらに歩いてきた。
「兄ちゃん、なに?」
「何じゃないやろ? ほら、ご挨拶し」
しっかりと目が合う。眠そうだった目に、徐々に生気が宿っていく。
「あ……萌、さん?」
俺は何も答えずそいつを見据えた。
今さら何なんだ。もしかして、萌華と連絡を取っていたのは今日こうやって待ち伏せするためだったのか。萌華はそれを止めようとしていたのかもしれない。
「えっと、昨日は、失礼なことしてすみませんでした」
ぺこりと軽そうな頭を下げるあくつゆうと。昨日とは一体何の事だ?
「猫カフェで、俺、無神経にいろいろ聞いたから、本当はちゃんと謝らなあかんかったのに」
「は?」
猫カフェに行ったのはほぼ一年近く前の話だ。ここでようやくあくつゆうとの様子のおかしさに気づく。
視線はふらふらと落ち着かず、動かないままの右手に、肌の質感が欠けていること。そして、その手の甲に、俺がつけた火傷の痕がないこと。
「俺、蓮にひどいことゆったから」
「お前、急にどうした? 小学校の時のことゆってるんやったら、それはもういい」
「でも、子猫が」
「子猫?」
その言葉に、俺は胸を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
猫。蓮が、死ぬことになった理由の一つだ。
「うん、子猫がおって、蓮と拾った。拾ったっていうか、俺が見つけて、でも、そん時、俺、蓮と喧嘩して」
あくつゆうとの兄は、心配そうに弟の横顔を見つめている。すぐに支えられるように、こいつの右側に立って。
「萌、ゆってたやん? えっと、こないだやったかな。春休みに、話してくれたやん? それでな、俺、なんか喧嘩した時に腹立って、それを蓮にゆっちゃって」
こいつの頭の中の時系列はどうなっているんだ。それより、俺はこいつに何を話したのだっただろうか。蓮にちょっかいを出すなと釘を刺しただけだったはずでは。
「蓮に、萌がゆってたって。ほんまは、弟なんかおらん方が良かったってゆってたって、俺、その話を、蓮にした」
一瞬、すべての音が消え去ったようだった。
記憶の波が押し寄せる。
春休み、公園、蟻の巣、それから、何故かあくつうゆうとと二人で話したんだ。名前のこと、何気なく零してしまった愚痴のようなもの。
――正直、弟なんかおらんかったらいいのにって、思ったことも何回もある。
そうだ、あの日、俺はこいつにそう言った。
それを、こいつが伝えた? 蓮に?
「それ、謝りたくて」
ごめんなさい、と頭を下げたあくつゆうとは、顔を上げると同時に首を傾げた。
「あ、萌……さん?」
昨日は、失礼なことを……と、あくつゆうとは繰り返す。その異様な光景に、俺は何も言えなくなった。
「裕斗、もうそれは話したやろ? 三崎さん、すみません。弟はちょっと調子が悪くて……」
あくつゆうとの兄が前に出て膝をついた。そして、そのまま深く頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
俺は、状況がまったく飲み込めずにいた。兄の謝罪は尚も続く。
「弟さんを傷つけるようなことしてしまって。こいつから話を聞くまで、そんなことが起きていることも知らず、謝罪が遅くなって本当にすみません……裕斗の不用意な発言のせいで、弟さんには本当に申し訳ないことをしたと思ってます」
混乱したまま俺は鞄に手を入れた。鞄の底の冷たい感触に手が当たる。
蓮は、こいつからあの話を聞いて、それで、俺の為に、俺を突き放すようなことを言ったのか。
あの日、様子がおかしかったのは、そのせいだったのか。
こいつのせいで。
鞄の中のナイフを握る。
体温を吸い取られるように、指先が冷えていく。
兄は謝り続けている。
でも、どうだっていい。誰がどう謝ろうが、蓮はもう、戻ってこないんだ。ナイフを握る手の力を緩めない。
こいつのせいで。
ナイフを取り出そうとした時、鞄の底で何かが震えた。思わずそちらに指が伸びる。鞄からそれを取り出した。
『いちばん大切なモカちゃん』
そう表示されたスマホ。一度きりのコールでそれは途絶えた。だけどそれは俺にブレーキをかけるには十分な威力を持っていた。
あの日も、ニアと連絡を取り合っていたのは、こうすることを止めるためだったのだろうか。
あくつゆうとからこの話を聞いた後、俺が何をしようとするのか。彼女にはそれが分かっていたのかも知れない。
俺はスマホを仕舞うと頭を下げたままの男を見下ろした。
「頭上げてください。そんなことしてもらっても、もうどうにもならないんです。弟は戻って来ません」
許す。その言葉はけっして言わない。
蓮を殺したのは別の男だ。復讐したいならそいつを殺すべきだ。出所して、どこかでのうのうと生きているであろう殺人鬼を。
でも、俺はしない。できない。そんな熱量なんて端からない。
俺は結局不幸なくらいがちょうどいいんだ。
男がのっそりと立ち上がり、再び頭を下げる。あくつうゆうとはまたぼんやりと自分の世界に閉じこもってしまったようだ。
こいつにも、それなりの悲劇が降りかかり、不幸の最中にいるらしい。
でも、お前の物語なんか読んでやるか。
お前は俺にとっても蓮にとっても害悪だった。
もうその事実で十分だ。
贖罪も何も求めない。その代わり、俺はそのことを免罪符にかわいそうを続けようと思う。
俺がこれからの人生で何かを前向きに考えるとしたら、それは彼女のことだけだ。
「もう俺ら兄弟のことには関わらんでください。お願いします」
男は、最後まで顔を上げずにいた。肩がわずかに震えている。この男には何の罪もない。
でも、あくつゆうとに直接響かないのであれば、あんたが代わりに背負ってくれ。
兄貴なんだから。
俺は踵を返し、霊園を後にした。
もう振り返らない。
俺の名前には、蓮とは違って沈まない力はない。でも、地獄にいたままでも彩ることができるということを知ったから。
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