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ここにいてくれないか?(4)
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◇◆◇◆
ある日、彼女は困っていた。
遠目からであっても、机の上の彼女の手が動いていないことにランスロットも気がついた。
『どうかしたのか?』
見かねたランスロットが声をかけると、シャーリーはやはり困ったように顔を向けた。
『ええと、こちらの書類の修正内容が。少し細かいところがありまして。文章で説明するよりも、口で説明した方が早いかと思っているのですが……』
そこで彼女の悩みを察した。
『わかった。そこのソファで聞こう。俺は君から離れて座るから』
困惑したような笑みを浮かべたシャーリーであったが、彼女は頷き、書類を手にして席を立った。
彼女はソファの隅っこにちょこんと座り、テーブルの上にランスロットによく見えるように書類を広げた。ランスロットは彼女の対角線上に座った。
『このくらいなら、大丈夫か?』
『あ、はい』
彼女の身体が強張っていることにランスロットは気づいたが、これ以上はどうしようもないため、平静を装うことにした。
『こちらの資料なのですが……』
彼女は書類の上に指を滑らせながら説明を始める。ランスロットは、彼女のことを一文字も聞き逃さないように、真剣に耳を傾けた。
『すまない。この部分が理解できなかった。もう少し、わかりやすく説明してもらってもいいだろうか』
彼女は頷くと、今度はかみ砕いた表現で説明をする。だが、話に熱が入っているのか、彼女の腰が浮いていた。
『わかりましたか?』
ランスロットがその言葉に頷き顔をあげると、目の前に彼女の顔があった。
『も、申し訳ありません……』
かっと顔を赤く染め上げて、また対角線上に座り直した。
むしろ驚いたのはランスロットの方だ。何しろ目の前に彼女の顔があったのだから。距離で言えば、一歩の距離だ。触れるほど近かったわけではない。
だけど、いつも六歩以上離れなければならない。それが一歩の距離まで一気に近づいたのは、大進展だと思っている。
『シャーリー。喋ったから喉が渇いただろう? いつもより時間は早いが、休憩にしないか?』
ランスロットの言葉に、シャーリーは真っ赤な顔のまま頷いた。
◇◇◇◇
シャーリーは地下の事務室へと向かった。
扉の外にはアンナが立っていて、どうやらシャーリーがここに来るのを待っていたようだ。
「おはよう、シャーリー」
「おはよう、アンナ……」
「身体の方はもう大丈夫なの?」
「ええ」
「そう。よかったわ。あなたが事務官として復帰してくれるのを、私たちも待っていたから」
アンナに好意的な声をかけられて、シャーリーはやっと口元を緩めることができた。
長く休んでいたこと。記憶を失ってしまったこと。
どこか後ろめたい気持ちがあったのだ。
「シャーリー。とりあえず中に入りましょう。あなたからいくつか話を聞きたいし」
アンナの言葉に頷いたシャーリーは、彼女の後を追う。
案内された場所は、打ち合わせなどで使うガラス張りの小部屋だった。
「記憶を失ったって聞いたけれど?」
アンナはお茶を淹れながら、そう尋ねた。
「ええ。そうみたい。二年分の記憶が無くて。驚いたことに、ハーデン団長と結婚していたの」
「そうね。だけど、その結婚式には私も参列したから、それは間違いなく本当の話よ」
アンナはシャーリーの前にカップを置いた。シャーリーは驚いて目を開き、アンナの顔を見た。
「もう、本当に覚えていないの? 嬉しそうに団長と付き合うことになったって、私に報告したことも?」
シャーリーは小刻みに首を横に振る。
「そう……。別にあなたが嘘をついているって思っていたわけではないけれど。そうであったらよかったなって思っているのかもしれない……」
アンナの複雑な気持ちが伝わってくる。どことなく睫毛が震えていた。
「ごめん、なさい」
シャーリーの口からは、思わずその言葉が漏れていた。記憶を失ったことでたくさんの人に迷惑をかけている。そしてこれから、アンナにも迷惑をかける。
「ううん。シャーリーに謝ってほしいわけじゃないの。ただ……。こっちこそごめん。記憶を失って不安なのはシャーリーの方よね。記憶が戻るように、私も協力するから。ね」
シャーリーはただ頷くことしかできなかった。
「じゃ、シャーリー。早速だけど、簡単なテストをさせて。二年分の記憶を失っているとなると、事務官として仕事をこなすことができるかどうかを確認する必要がある。ここの責任者としてね」
「わかった」
シャーリーは、力強く頷いた。
ある日、彼女は困っていた。
遠目からであっても、机の上の彼女の手が動いていないことにランスロットも気がついた。
『どうかしたのか?』
見かねたランスロットが声をかけると、シャーリーはやはり困ったように顔を向けた。
『ええと、こちらの書類の修正内容が。少し細かいところがありまして。文章で説明するよりも、口で説明した方が早いかと思っているのですが……』
そこで彼女の悩みを察した。
『わかった。そこのソファで聞こう。俺は君から離れて座るから』
困惑したような笑みを浮かべたシャーリーであったが、彼女は頷き、書類を手にして席を立った。
彼女はソファの隅っこにちょこんと座り、テーブルの上にランスロットによく見えるように書類を広げた。ランスロットは彼女の対角線上に座った。
『このくらいなら、大丈夫か?』
『あ、はい』
彼女の身体が強張っていることにランスロットは気づいたが、これ以上はどうしようもないため、平静を装うことにした。
『こちらの資料なのですが……』
彼女は書類の上に指を滑らせながら説明を始める。ランスロットは、彼女のことを一文字も聞き逃さないように、真剣に耳を傾けた。
『すまない。この部分が理解できなかった。もう少し、わかりやすく説明してもらってもいいだろうか』
彼女は頷くと、今度はかみ砕いた表現で説明をする。だが、話に熱が入っているのか、彼女の腰が浮いていた。
『わかりましたか?』
ランスロットがその言葉に頷き顔をあげると、目の前に彼女の顔があった。
『も、申し訳ありません……』
かっと顔を赤く染め上げて、また対角線上に座り直した。
むしろ驚いたのはランスロットの方だ。何しろ目の前に彼女の顔があったのだから。距離で言えば、一歩の距離だ。触れるほど近かったわけではない。
だけど、いつも六歩以上離れなければならない。それが一歩の距離まで一気に近づいたのは、大進展だと思っている。
『シャーリー。喋ったから喉が渇いただろう? いつもより時間は早いが、休憩にしないか?』
ランスロットの言葉に、シャーリーは真っ赤な顔のまま頷いた。
◇◇◇◇
シャーリーは地下の事務室へと向かった。
扉の外にはアンナが立っていて、どうやらシャーリーがここに来るのを待っていたようだ。
「おはよう、シャーリー」
「おはよう、アンナ……」
「身体の方はもう大丈夫なの?」
「ええ」
「そう。よかったわ。あなたが事務官として復帰してくれるのを、私たちも待っていたから」
アンナに好意的な声をかけられて、シャーリーはやっと口元を緩めることができた。
長く休んでいたこと。記憶を失ってしまったこと。
どこか後ろめたい気持ちがあったのだ。
「シャーリー。とりあえず中に入りましょう。あなたからいくつか話を聞きたいし」
アンナの言葉に頷いたシャーリーは、彼女の後を追う。
案内された場所は、打ち合わせなどで使うガラス張りの小部屋だった。
「記憶を失ったって聞いたけれど?」
アンナはお茶を淹れながら、そう尋ねた。
「ええ。そうみたい。二年分の記憶が無くて。驚いたことに、ハーデン団長と結婚していたの」
「そうね。だけど、その結婚式には私も参列したから、それは間違いなく本当の話よ」
アンナはシャーリーの前にカップを置いた。シャーリーは驚いて目を開き、アンナの顔を見た。
「もう、本当に覚えていないの? 嬉しそうに団長と付き合うことになったって、私に報告したことも?」
シャーリーは小刻みに首を横に振る。
「そう……。別にあなたが嘘をついているって思っていたわけではないけれど。そうであったらよかったなって思っているのかもしれない……」
アンナの複雑な気持ちが伝わってくる。どことなく睫毛が震えていた。
「ごめん、なさい」
シャーリーの口からは、思わずその言葉が漏れていた。記憶を失ったことでたくさんの人に迷惑をかけている。そしてこれから、アンナにも迷惑をかける。
「ううん。シャーリーに謝ってほしいわけじゃないの。ただ……。こっちこそごめん。記憶を失って不安なのはシャーリーの方よね。記憶が戻るように、私も協力するから。ね」
シャーリーはただ頷くことしかできなかった。
「じゃ、シャーリー。早速だけど、簡単なテストをさせて。二年分の記憶を失っているとなると、事務官として仕事をこなすことができるかどうかを確認する必要がある。ここの責任者としてね」
「わかった」
シャーリーは、力強く頷いた。
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