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ひとしきり抱き合って、不意に良が顔を上げたので、それで裕司は己がまどろみつつあったことに気が付いた。
「ねえ、もう寝ちゃう?」
今まさに眠りそうだったとは言いづらくて、何だ、とだけ訊き返した。
「一緒に露天風呂入りたい。……もう一緒でもいいでしょ?」
裕司は瞬いて、それから先だって断った理由を思い出して気恥ずかしくなった。
「別に……いいけど、ほんとに眠くなんねぇのかお前」
「こんなに色々あったら眠気なんて来ないよ。お風呂上がったらいつもみたいに寝かせて」
躊躇のないわがままに、裕司は笑った。それは腕に抱いて眠るまで撫でていてほしいという意味だ。
「子どもか」
「あんただってイヤじゃないくせに」
つんとした声で返されて、よくわかってるな、と舌を巻く。裕司が良を甘やかしたくて仕方がないことを、良は少なからず理解していた。
「うわ、膝に力入らないんだけど」
立ち上がるなり良は驚いた声を上げて、裕司は苦笑しながらその背中に手を伸ばした。
「歩けるか?」
「歩けるけど……ていうかこれあんたのせいだよね」
まったくその通りだと思いながら、裕司はあえて答えなかった。つい数十分前の行為を思い出すと、風呂どころではなくなりそうで、存外自分もまだ若いようだと思われた。
すっかり夜になってしまうと、露天風呂の照明は幻想的で美しく、良に誘ってもらえてよかったと思った。
山なみはすっかり闇に溶けてなくなっていて、夕暮れ時とはまるで違う場所にいるようだった。
冷たい空気の中で温かい湯船に身を浸すと、目が覚めるようでもあり夢見心地になるようでもあり、強く非日常が感じられた。
「大丈夫か?」
足元のおぼつかないらしい良が危なっかしく湯に入ってくるのに手を伸ばすと、良はそれをどう捉えたのか、裕司の横にぴったりと身体を寄せてきた。柔らかい湯の中で触れる良の肌はたまらなく心地よくて、これはもう夢でもおかしくないなと思いながらその肩を抱いた。
「…………裕司さん」
ぽそ、と小さな声に呼ばれて良の横顔を見ると、良は空を仰いで目を丸くしていた。
「空が星でいっぱい…………」
良の呟きに天を仰ぐと、雲一つない夜空に、輝く砂を一面に撒いたような光景が広がっていた。
ああ、見せてやりたかった空だ、と思って、裕司はもう一度良の顔を見た。呆然としたように口を開けて、まだ感情らしい感情を自覚できていない顔をしていた。
「……よかったなぁ、晴れてて」
「うん……」
良の目は空を泳いで、地上に戻ってくる気配がなかった。初めて見るものに驚いたり、喜んだり、怖がったり、細やかに感動する彼の心が好きだと改めて思う。その心をそばで見つめていられることは、裕司にとって間違いなく幸福なことだった。
「ねえ……」
「んー?」
「こんなにいっぱい星があったら、どれがどれかわからないよ?」
あまりに素直な感想に、裕司は声を立てて笑った。
「そうだな、俺も詳しくないし……星座も学校で習ったっきりだなぁ」
そうだよ、と突然良は大きな声を出した。
「あんた中学で天体とかやってたとき、リアルでこれ見てたんでしょ? ずるい」
やっと裕司の方を見たかと思えば、そんな文句を言われて、裕司は苦笑した。
「ずるいって、そんなこと言われても俺も好きで田舎に住んでたんじゃねえぞ」
「俺は今初めて見たんだよこんなの」
湯をはねさせながら、良は絢爛たる夜空を指差した。
その仕草が小さな子どものようで、裕司は微笑む。良をここに連れて来てよかった、と思った。
「……綺麗だろ?」
そう訊いてやると、良は力が抜けたように首まで湯に沈んで、うん、と言った。
「……なんか、世界って、俺の思ってたのと違うみたい……」
「え?」
聞き返すと、良は星空を見上げながら言った。
「俺、狭いところをずっとぐるぐるしてた気がする……こんな広いなんて知らなかった……」
そう言う良の瞳はとても深くて、まだ裕司の知らない彼の思いがそこには層を成しているのだろうと思われた。
「……ちょっとは楽しみになったか?」
声を掛けると、良は丸い目で裕司を見返した。
「これからの人生、その広い世界で生きていくの、悪くなさそうだろ?」
良は裕司をじいと見つめて、そして少しだけ首を傾けた。
「……あんたも一緒だよね?」
裕司は返事より先に笑ってしまった。きっと当人にその気はないだろうに、良はすぐに裕司を喜ばせるようなことを言って、心をさらっていこうとする。
「そりゃあ、一緒に暮らすからな」
そう答えると、良は満足げな目をして、また夜空を眺め始めた。
「ねえ、もう寝ちゃう?」
今まさに眠りそうだったとは言いづらくて、何だ、とだけ訊き返した。
「一緒に露天風呂入りたい。……もう一緒でもいいでしょ?」
裕司は瞬いて、それから先だって断った理由を思い出して気恥ずかしくなった。
「別に……いいけど、ほんとに眠くなんねぇのかお前」
「こんなに色々あったら眠気なんて来ないよ。お風呂上がったらいつもみたいに寝かせて」
躊躇のないわがままに、裕司は笑った。それは腕に抱いて眠るまで撫でていてほしいという意味だ。
「子どもか」
「あんただってイヤじゃないくせに」
つんとした声で返されて、よくわかってるな、と舌を巻く。裕司が良を甘やかしたくて仕方がないことを、良は少なからず理解していた。
「うわ、膝に力入らないんだけど」
立ち上がるなり良は驚いた声を上げて、裕司は苦笑しながらその背中に手を伸ばした。
「歩けるか?」
「歩けるけど……ていうかこれあんたのせいだよね」
まったくその通りだと思いながら、裕司はあえて答えなかった。つい数十分前の行為を思い出すと、風呂どころではなくなりそうで、存外自分もまだ若いようだと思われた。
すっかり夜になってしまうと、露天風呂の照明は幻想的で美しく、良に誘ってもらえてよかったと思った。
山なみはすっかり闇に溶けてなくなっていて、夕暮れ時とはまるで違う場所にいるようだった。
冷たい空気の中で温かい湯船に身を浸すと、目が覚めるようでもあり夢見心地になるようでもあり、強く非日常が感じられた。
「大丈夫か?」
足元のおぼつかないらしい良が危なっかしく湯に入ってくるのに手を伸ばすと、良はそれをどう捉えたのか、裕司の横にぴったりと身体を寄せてきた。柔らかい湯の中で触れる良の肌はたまらなく心地よくて、これはもう夢でもおかしくないなと思いながらその肩を抱いた。
「…………裕司さん」
ぽそ、と小さな声に呼ばれて良の横顔を見ると、良は空を仰いで目を丸くしていた。
「空が星でいっぱい…………」
良の呟きに天を仰ぐと、雲一つない夜空に、輝く砂を一面に撒いたような光景が広がっていた。
ああ、見せてやりたかった空だ、と思って、裕司はもう一度良の顔を見た。呆然としたように口を開けて、まだ感情らしい感情を自覚できていない顔をしていた。
「……よかったなぁ、晴れてて」
「うん……」
良の目は空を泳いで、地上に戻ってくる気配がなかった。初めて見るものに驚いたり、喜んだり、怖がったり、細やかに感動する彼の心が好きだと改めて思う。その心をそばで見つめていられることは、裕司にとって間違いなく幸福なことだった。
「ねえ……」
「んー?」
「こんなにいっぱい星があったら、どれがどれかわからないよ?」
あまりに素直な感想に、裕司は声を立てて笑った。
「そうだな、俺も詳しくないし……星座も学校で習ったっきりだなぁ」
そうだよ、と突然良は大きな声を出した。
「あんた中学で天体とかやってたとき、リアルでこれ見てたんでしょ? ずるい」
やっと裕司の方を見たかと思えば、そんな文句を言われて、裕司は苦笑した。
「ずるいって、そんなこと言われても俺も好きで田舎に住んでたんじゃねえぞ」
「俺は今初めて見たんだよこんなの」
湯をはねさせながら、良は絢爛たる夜空を指差した。
その仕草が小さな子どものようで、裕司は微笑む。良をここに連れて来てよかった、と思った。
「……綺麗だろ?」
そう訊いてやると、良は力が抜けたように首まで湯に沈んで、うん、と言った。
「……なんか、世界って、俺の思ってたのと違うみたい……」
「え?」
聞き返すと、良は星空を見上げながら言った。
「俺、狭いところをずっとぐるぐるしてた気がする……こんな広いなんて知らなかった……」
そう言う良の瞳はとても深くて、まだ裕司の知らない彼の思いがそこには層を成しているのだろうと思われた。
「……ちょっとは楽しみになったか?」
声を掛けると、良は丸い目で裕司を見返した。
「これからの人生、その広い世界で生きていくの、悪くなさそうだろ?」
良は裕司をじいと見つめて、そして少しだけ首を傾けた。
「……あんたも一緒だよね?」
裕司は返事より先に笑ってしまった。きっと当人にその気はないだろうに、良はすぐに裕司を喜ばせるようなことを言って、心をさらっていこうとする。
「そりゃあ、一緒に暮らすからな」
そう答えると、良は満足げな目をして、また夜空を眺め始めた。
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