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1巻
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長かった自慢の髪は、腰にも掛からないほど短く切ってしまった。邪魔にならないよう、輪にして結ぶ。それから首に白布を巻き、目元も赤い薄布で隠す。
白蛇に選ばれた彼女の体には、蛇を思わせる白い鱗が生えている。初めは胸の下辺りにしかなかった鱗は、徐々に彼女の体を侵食していった。今では上は咽元、手足は肘と膝辺りまで覆う。
更に瞳も、紅玉のように赤く染められてしまった。
彼女の容姿は異質だ。周囲の者たちは気味悪がり、ますます受け入れられずにいる。
特に実母であるお万の方と、妹の菊香は、妖が化けているのだと思い込んだまま。睡蓮を目の敵にしている。
そして父である秀正も、快く思っていなかった。
呪われた娘がいるなどと噂が広まれば、近隣の国が、金川を攻める口実にしかねない。家臣たちの心だって、離れてしまう懸念がある。
そんな理由から、目や首に布を巻いて、隠すよう厳命した。
屋敷の敷地内であれば、屋外に出ることも許されている。だが人目に付くことは、控えなければならない。
もし誰かに瞳や鱗を見られれば、座敷牢に戻されるだろう。状況によっては、今度こそ、命を奪われる。
だから睡蓮は、まだ皆が眠っている間に、用事を済ませていた。
首に巻いた布が緩んでいないか確かめつつ、桶を手に、井戸へ急ぐ。釣瓶を下ろして水を汲み、桶に移す。その水面に、不自然な波紋が揺れた。
なんだろうかと目を凝らすと、井戸蛙が泳いでいる。透き通った蛙みたいな姿をしているけれど、現世の生き物ではない。井戸に住みつく、妖の一種だ。
睡蓮が変わったのは、外見だけではなかった。赤い瞳は、妖の姿を彼女に見せる。そして彼らの声までも、耳に届かせた。
「ごめんなさい。すぐに井戸へ戻すわね」
井戸蛙は逃げようとして、狭い桶の中を、ぽちゃぽちゃと泳ぐ。
怖がらせていることを申し訳なく思いながら、睡蓮は井戸蛙を両手ですくった。釣瓶に入れて、そっと井戸の底に戻す。
改めて桶を持とうとしたところで、彼女とは違う武骨な手が、軽々と桶を持ち上げる。小袖に袴姿という軽装の秀兼が、いつの間にか隣にいた。
「水を運ぶのも、よい鍛錬になるからな」
「充分にお強いでしょう?」
「まだまだ未熟だよ」
水が入った桶を運ぶ秀兼の隣を、睡蓮は弾む気持ちで歩く。
秀兼に余計な手間を取らせるのは、心苦しく思う。けれど、兄妹が気兼ねなく話せる時間は、限られる。
二人が会うことは、禁止されていない。しかし、あまりよく思われていなかった。朝の短い時間は、睡蓮にとって、幸せな時間だ。
離れ家に戻ると、土間に置いてある瓶に、秀兼が慣れた手付きで桶の水を移した。
「兄上様は、少し休んでいてくださいな」
「ありがとう」
秀兼が板の間に腰かけると、睡蓮は米と麦を取り出す。軽く研いでから、鍋に水と共に入れた。それから小さな籠が付いた紐を、腰に巻く。
睡蓮の様子を見て、秀兼が立ち上がる。二人は連れ立って離れ家から出ると、山裾に広がる雑木林に入った。
まだ踝ほどしか伸びていない下草を踏み分けながら、睡蓮と秀兼は進む。
「白蛇の嫁、こっち」
「白蛇の嫁、これがいい」
「ありがとう」
声を掛けてきたのは、鶏卵ほどの大きさの、蜂に似た姿の妖。草蜂という。
蜜蜂の黄色を緑色に塗り変えて、羽を卵形の葉と取り換えたような姿だ。植物に詳しい彼らに教わりながら、睡蓮は野草を摘んでいく。
最低限の米と麦は支給されている。けれど、野菜などまでは与えられない。だから山で野生の植物を摘んで、糧としていた。
嵩が増して腹が膨れるし、雑炊の味にも変化が付く。おまけに体にもよい。一石二鳥どころか三鳥だと、睡蓮は前向きに考える。
「わわ?」
草の葉に停まっていた草蜂が、慌てた声を上げながら飛び退いた。妖を見られない秀兼に、踏まれかけたらしい。
普通の人間は、彼らに触れられない。だから踏まれたところで、怪我をする恐れはない。それでも、踏まれたくはないのだろう。
それを視界の端に捉えた睡蓮は、苦笑を零す。
「また何かを踏んでしまったか?」
「いいえ。踏んではいませんから、安心してください」
「ならばよかった」
睡蓮の様子から状況を察した秀兼は、ほっと胸を撫で下ろして下を向く。
「すまないな。いつも睡蓮が世話になっているというのに。許してくれ」
「いーよー」
秀兼が自分の足下を見ながら謝罪すると、彼の肩に避難していた草蜂が、屈託なく返す。
睡蓮は、秀兼にだけは、妖が見えることを話している。
突然見聞きできるようになった、異形の存在たち。
自分しか見えない世界に怯え、訴えかけた睡蓮に対して、秀兼は疑う素振りさえ見せなかった。
睡蓮が嘘を吐くはずがないからと。傷を癒し人語を操る白蛇がいるのだから、他にも神や妖が存在していても、不思議ではないからと。
そして見えないながらも、睡蓮を助けてくれる妖たちに、敬意をもって接する。
だからだろうか。妖たちも、秀兼を気に入っているようだ。秀兼の肩に停まる草蜂が、楽しそうに羽を揺らす。
「これ、いいぞ。食べると笑い出す」
野草探しを再開した睡蓮に、草蜂が声を掛けてくる。
彼らが薦める植物は、食べられるものばかりとは限らなかった。時々、毒草が混じることがある。食料となる植物を探しているとは、理解していないのかもしれない。
睡蓮は毒草には手を出さず、他の食べられる野草を摘み取っていく。
置いていかれた草蜂は、毒草の上に留まったまま、じいっと睡蓮を見つめる。
「これ、いいぞ。お前の親と妹に、食わせてやれ」
いや、理解していた。
「駄目ですよ。父上様も母上様も、菊香も、悪い人ではないのです。ただ私の姿が変わってしまったことが、まだ受け入れられないだけで」
少し離れたところで枝を拾う、秀兼に聞かれないよう注意しつつ、睡蓮は毒草を薦める草蜂を小声でたしなめる。彼女は家族たちが苦しむのを望んでなどいなかった。
最初は辛くて、悲しくて。
どうして拒絶されるのかと、悩んだ。瞳の色が変わっても、彼女の中身は、以前と変わらないのだから。
血のつながった大切な家族。それが、こんなに脆く壊れてしまうほどの、浅い関係だったのか。
悔しくて、涙した。
荒れる感情が落ち着くと、急に変わった姿に戸惑っているだけだろうと考え出す。
時間が経って冷静になれば、睡蓮は何も変わっていないと、分かってくれるはずだ。そう信じることにした。
けれど、未だに彼らは、睡蓮を受け入れない。
本当に受け入れてもらえる日が来るのかと、希望は日に日に薄らいでいく。
睡蓮は目を閉じて、細く長い息を吐き出した。空を見上げ、気持ちを切り替える。
落ち込んでいても、状況はよくならない。むしろ、自分を取り巻く陰鬱な空気が、周囲まで暗くする。結果、余計に状況を悪化させるだけだ。
「大丈夫。きっと、分かってくださるわ」
木の枝から生え始めたばかりの、薄く小さな若葉に、陽光が降り注ぐ。生命の輝きを感じさせる新緑。眺めていると、落ち込みかけた気分が晴れていく。
「さ、もう少し、頑張りましょう」
歩き出した睡蓮を、草蜂たちが追いかけた。
充分な野草が採れると、睡蓮は秀兼に声を掛けて、家路に着く。枯れ枝を拾っていた秀兼も、睡蓮と共に離れ家に戻った。
「兄上様、いつもありがとうございます」
「大したことはしていないさ」
そう答えながら、秀兼は集めていた枝を囲炉裏にくべて、火を熾す。その間に、睡蓮は採ってきた野草を笊に移し、さっと洗う。
「今度、出かけないか?」
秀兼の声は淡々としていたけれど、表情は真剣だった。
「それは」
睡蓮は言葉を詰まらせる。
離れ家から出ることは許されているけれど、敷地の外に出ることまでは、許されていない。
「見つからなければ、何も言われないさ。もうすぐ桜が咲く。団子でも買って、花見に行こう。好きだっただろう?」
誘ってくれる秀兼に対して、睡蓮は曖昧に微笑む。
秀兼の気遣いを無下にするのは、心苦しい。
けれど睡蓮を庇い、父母に楯突いたことで、彼に対する評価は悪化していた。睡蓮に荷担しすぎれば、今以上に孤立してしまう。
そんな事情を、睡蓮だってわきまえている。
「兄上様、私のことは、お気になさらなくてよいのですよ?」
瀕死の秀兼を救うため、彼女は白蛇の嫁となる約束を結んだ。けれどそれは、彼女自身が選んだことで、秀兼が罪悪感を抱く必要はない。
そんな思いを込めて伝える睡蓮に、秀兼は困ったとばかりに眉を下げる。
「兄を気遣ってくれるのなら、どうか甘えておくれ。お前は私の可愛い妹だ。たまには兄らしいことを、させてくれないか?」
なおもためらう睡蓮の頭を、立ち上がった秀兼の手が、優しく撫でた。
武骨な手は、幼いころから、睡蓮の心を安心させてくれる。緩んだ心では、兄の優しさを拒絶し、自分の内に在る願望を押し留めることは、できなかった。
睡蓮だって、たまにはどこかに出かけたい。
「ありがとうございます。楽しみにしておきます」
素直に礼を述べると、秀兼は嬉しそうに笑う。
囲炉裏に掛けた鍋が、くつくつと音を立て、白い湯気を立ち昇らせていた。
二章
山に色を添えていた薄紅色が、若々しい緑に呑み込まれていく。城山の麓も緑が茂り、探し歩かずとも、蕗や蓬などはすぐに見つかった。堀の近くまで出れば、芹も採れる。
そんな春の暖かな日のこと。花見の時期は逃してしまったけれど、睡蓮は秀兼と共に、金川の町を歩いていた。
海が近い金川では、物売り小屋に、朝獲ってきたばかりの、新鮮な魚介類が並ぶ。壷からにょろりと出てきた蛸を見て、睡蓮は思わず秀兼の袖を握った。
彼女はいつものように、目元と首に、布を巻く。更に念のため、頭から小袖を深く被いて、顔を隠す。秀兼も直垂姿に笠を被り、顔を隠した。
「触らねば、害はないさ」
「触ると、害があるのですか?」
「足に触れると、吸い付かれる。お前の柔肌では、傷が付くかもしれない」
兄妹が喋っている間に、店番の女が蛸を壷の中に戻す。
市には女たちの姿が多く見られる。男たちが獲ってきた魚や、畑で収穫した野菜を、女たちが売りさばくのだ。時にはその場で下拵えをしてくれるなど、痒いところに手が届く気遣いを見せる。
「欲しいものがあれば、遠慮なく言うといい。お前が欲しがる程度のものであれば、幾らでも買えるだけの金を持ってきたからな」
「まあ。そんなことを仰るなら、綺麗な反物を、お願いしてしまいますよ?」
「これは手厳しい」
軽い冗談を交わしながら、兄妹は仲良く市を覗く。
「団子があるぞ。食べるか?」
「ご相伴にあずかります」
茶屋の床几台に腰かけた二人は、団子を食べながら、行き交う人々を眺めた。
「金川の町は、平和ですね」
「そうだな。弓木が手を広げているが、金川までは、まだ来ぬであろう」
弓木家は、金川の南方に列なる山を越えた先にある、小田和の地を支配する大名だ。二代に亘って卓越した当主が立ち、領地を拡大し続けている。特に当代の弓木伸近は、破竹の勢いで諸方を攻め落としていた。
金川と小田和は、地図の上で三十里ほど離れている。間には高い山々が列なり、越えるための道は、細く険しかった。
もしも進軍してきたならば、待ち伏せをすればいい。細い山道に列をなしている弓木軍に、高所から矢を放つのだ。弓木家のほうが強かろうとも、地の利が助けてくれる。
「そこまで苦労して攻めるほど、金川に価値はない。都方面に手を伸ばしたほうが、弓木家にとって、大きな利益になるからな」
だから弓木家が上洛するまでは、心配する必要はないだろうと、秀兼は言う。
「行ったことはないが、小田和の城下は、ずいぶんと栄えているらしい。都にも勝るのではないかという話だ」
「都よりもですか? 凄いですね」
「噂だがな」
素直に感心する睡蓮に、釘を刺した秀兼は、城山を振り仰ぐ。釣られて睡蓮も、目を向けた。
高くそびえる山の上方は、草木を削がれ、山肌が剥き出しになっている。斜面には堀や柵が無数にあり、敵の侵入を拒む。頂には、物見櫓や兵糧を詰めた小屋などが、設けられていた。他にもいざというときに立てこもる、掘立小屋もある。
山城は、あくまで戦のための設備。麓に造られた屋敷と違い、住みやすさなどは考慮されていない。
「弓木家が上洛してからでは遅い。今の内に弓木家と縁を結ぶよう、父上に進言しているのだが。若輩者の戯言と、耳をお貸しくださらない」
苦く歪められた秀兼の顔は、己の力不足を嘆いていた。
「遅いのですか?」
「遅いな。そのころには、弓木家は強くなりすぎている。余程の利益を提示できなければ、金川は、今のままというわけにはいかぬだろう」
今ならば、条件次第で、同盟を結ぶことも可能だ。しかし、加々巳家と弓木家の力の差が大きくなりすぎれば、属国になるか、一矢報いたとしても滅びの道を歩むことになる。そうなれば、領民たちにも苦労を強いることになるかもしれない。
秀兼は視線を城山から町に戻し、行き交う人々を眩しそうに見る。
「民たちの幸せを護るためには、今が最後の機会だと思う」
睡蓮に、時勢のことはよく分からない。ただ秀兼が領民たちを愛し、彼らの幸せを心から願っていることだけは、理解できた。
「兄上様は、物知りなのですね」
「跡を継がぬとはいえ、情勢を把握しておかなければ、家臣や民たちを路頭に迷わすことになってしまう。今は父上がいるが、松千代殿はまだ幼い。一人前の武将に育たれるまでは、支えてさしあげなければな」
団子を食べ終えると、睡蓮と秀兼は腰を上げる。
「兄上様は、私の自慢の兄です」
「どうした? 急に。何か欲しいものでも見つけたか?」
「そうではありません」
拗ねた顔を見せる睡蓮に対して、秀兼は愉快げに笑う。
「睡蓮も、私の自慢の妹だよ」
ぽつりと返された言葉が耳に届き、睡蓮は顔を真っ赤に染めた。
「もう! 知りません」
「待て待て。一人で先に行っては危ないぞ? 怒るな睡蓮」
「怒ってはおりませぬ」
「では照れておるのか? 可愛い奴め」
「兄上様!」
すぐに追いついた秀兼に捕まって、睡蓮は眉を張る。しかしそれも、束の間のこと。兄妹は仲良く並んで歩いた。
睡蓮は、秀兼と共に町の中を進む。ふと視線に気付いて顔を向けると、黒い狼と目が合った。
引き込まれるほどに深い、緋色の瞳。
睡蓮は目を逸らすことができず、足を止めて見つめてしまう。
「どうした? 睡蓮」
秀兼も足を止め、睡蓮の視線の先を追った。
「あの狼が、どうかしたのか?」
「見えるのですか?」
秀兼の言葉に驚いて、睡蓮は呪縛が解けたように動き出す。まじまじと秀兼を凝視すると、彼は戸惑った顔をした。
「何を言っているのだ?」
不思議そうに眉をひそめて、睡蓮と狼を見比べる。
「あの狼、瞳が赤いです」
「妖か?」
睡蓮に説明されて、秀兼は答えを弾き出す。
妖の外見は、それぞれ異なる。けれど、たった一つだけ、一致する部位があった。
妖たちは皆、赤い瞳を持つ。
多くの妖を見てきた睡蓮は、そのことに気付いていた。
黒い狼の瞳は、赤い。
「睡蓮でなくとも、見える妖がいるのか」
関心を寄せた秀兼が、狼に近付いていく。彼の後を追って、睡蓮も狼のほうに向かう。
狼の首には、縄が括られていた。その先は、近くの木に結ばれている。売りものとして並べられているのだ。
「妖が捕えられるとは。都のほうには、陰陽師なる者がいるとは聞いたが」
はてと首を捻った秀兼の視線は、近くで胡坐を組んでいる、黒ひげを蓄えた男に向かう。
筒袖に括袴まではいい。よく見かける、庶民の格好だ。
問題は、羽織物。猪の毛皮をまとうなど、町ではありえない。都の雅な街を歩いていたら、とてつもなく目を引きそうな装いである。
「思っていたのと違うな」
「兄上様」
「冗談だ。あの者は、山の民であろう」
睡蓮が呆れた眼差しを向けると、秀兼は即座に掌を返し、真面目に答えた。
山で獣や鳥を狩ることを生業としている山の民は、狩った獣の毛皮を衣や敷きものにする。そして肉や生捕った獣を、町へ売りに来ることがあった。
「初めて見ました。よく御存知ですね」
「道案内などで、時折世話になる」
秀兼は、山の民と思わしき男に近付いていく。
「この狼を捕えたのは、そなたか?」
山の民は鋭い目を、ぎょろりと向ける。そして秀兼と睡蓮を見定めるように、上から下へと動かした。
無遠慮な視線に、睡蓮は恐ろしさを覚える。秀兼の袖をつかみ、彼の陰に隠れた。
「そうだ」
白蛇に選ばれた彼女の体には、蛇を思わせる白い鱗が生えている。初めは胸の下辺りにしかなかった鱗は、徐々に彼女の体を侵食していった。今では上は咽元、手足は肘と膝辺りまで覆う。
更に瞳も、紅玉のように赤く染められてしまった。
彼女の容姿は異質だ。周囲の者たちは気味悪がり、ますます受け入れられずにいる。
特に実母であるお万の方と、妹の菊香は、妖が化けているのだと思い込んだまま。睡蓮を目の敵にしている。
そして父である秀正も、快く思っていなかった。
呪われた娘がいるなどと噂が広まれば、近隣の国が、金川を攻める口実にしかねない。家臣たちの心だって、離れてしまう懸念がある。
そんな理由から、目や首に布を巻いて、隠すよう厳命した。
屋敷の敷地内であれば、屋外に出ることも許されている。だが人目に付くことは、控えなければならない。
もし誰かに瞳や鱗を見られれば、座敷牢に戻されるだろう。状況によっては、今度こそ、命を奪われる。
だから睡蓮は、まだ皆が眠っている間に、用事を済ませていた。
首に巻いた布が緩んでいないか確かめつつ、桶を手に、井戸へ急ぐ。釣瓶を下ろして水を汲み、桶に移す。その水面に、不自然な波紋が揺れた。
なんだろうかと目を凝らすと、井戸蛙が泳いでいる。透き通った蛙みたいな姿をしているけれど、現世の生き物ではない。井戸に住みつく、妖の一種だ。
睡蓮が変わったのは、外見だけではなかった。赤い瞳は、妖の姿を彼女に見せる。そして彼らの声までも、耳に届かせた。
「ごめんなさい。すぐに井戸へ戻すわね」
井戸蛙は逃げようとして、狭い桶の中を、ぽちゃぽちゃと泳ぐ。
怖がらせていることを申し訳なく思いながら、睡蓮は井戸蛙を両手ですくった。釣瓶に入れて、そっと井戸の底に戻す。
改めて桶を持とうとしたところで、彼女とは違う武骨な手が、軽々と桶を持ち上げる。小袖に袴姿という軽装の秀兼が、いつの間にか隣にいた。
「水を運ぶのも、よい鍛錬になるからな」
「充分にお強いでしょう?」
「まだまだ未熟だよ」
水が入った桶を運ぶ秀兼の隣を、睡蓮は弾む気持ちで歩く。
秀兼に余計な手間を取らせるのは、心苦しく思う。けれど、兄妹が気兼ねなく話せる時間は、限られる。
二人が会うことは、禁止されていない。しかし、あまりよく思われていなかった。朝の短い時間は、睡蓮にとって、幸せな時間だ。
離れ家に戻ると、土間に置いてある瓶に、秀兼が慣れた手付きで桶の水を移した。
「兄上様は、少し休んでいてくださいな」
「ありがとう」
秀兼が板の間に腰かけると、睡蓮は米と麦を取り出す。軽く研いでから、鍋に水と共に入れた。それから小さな籠が付いた紐を、腰に巻く。
睡蓮の様子を見て、秀兼が立ち上がる。二人は連れ立って離れ家から出ると、山裾に広がる雑木林に入った。
まだ踝ほどしか伸びていない下草を踏み分けながら、睡蓮と秀兼は進む。
「白蛇の嫁、こっち」
「白蛇の嫁、これがいい」
「ありがとう」
声を掛けてきたのは、鶏卵ほどの大きさの、蜂に似た姿の妖。草蜂という。
蜜蜂の黄色を緑色に塗り変えて、羽を卵形の葉と取り換えたような姿だ。植物に詳しい彼らに教わりながら、睡蓮は野草を摘んでいく。
最低限の米と麦は支給されている。けれど、野菜などまでは与えられない。だから山で野生の植物を摘んで、糧としていた。
嵩が増して腹が膨れるし、雑炊の味にも変化が付く。おまけに体にもよい。一石二鳥どころか三鳥だと、睡蓮は前向きに考える。
「わわ?」
草の葉に停まっていた草蜂が、慌てた声を上げながら飛び退いた。妖を見られない秀兼に、踏まれかけたらしい。
普通の人間は、彼らに触れられない。だから踏まれたところで、怪我をする恐れはない。それでも、踏まれたくはないのだろう。
それを視界の端に捉えた睡蓮は、苦笑を零す。
「また何かを踏んでしまったか?」
「いいえ。踏んではいませんから、安心してください」
「ならばよかった」
睡蓮の様子から状況を察した秀兼は、ほっと胸を撫で下ろして下を向く。
「すまないな。いつも睡蓮が世話になっているというのに。許してくれ」
「いーよー」
秀兼が自分の足下を見ながら謝罪すると、彼の肩に避難していた草蜂が、屈託なく返す。
睡蓮は、秀兼にだけは、妖が見えることを話している。
突然見聞きできるようになった、異形の存在たち。
自分しか見えない世界に怯え、訴えかけた睡蓮に対して、秀兼は疑う素振りさえ見せなかった。
睡蓮が嘘を吐くはずがないからと。傷を癒し人語を操る白蛇がいるのだから、他にも神や妖が存在していても、不思議ではないからと。
そして見えないながらも、睡蓮を助けてくれる妖たちに、敬意をもって接する。
だからだろうか。妖たちも、秀兼を気に入っているようだ。秀兼の肩に停まる草蜂が、楽しそうに羽を揺らす。
「これ、いいぞ。食べると笑い出す」
野草探しを再開した睡蓮に、草蜂が声を掛けてくる。
彼らが薦める植物は、食べられるものばかりとは限らなかった。時々、毒草が混じることがある。食料となる植物を探しているとは、理解していないのかもしれない。
睡蓮は毒草には手を出さず、他の食べられる野草を摘み取っていく。
置いていかれた草蜂は、毒草の上に留まったまま、じいっと睡蓮を見つめる。
「これ、いいぞ。お前の親と妹に、食わせてやれ」
いや、理解していた。
「駄目ですよ。父上様も母上様も、菊香も、悪い人ではないのです。ただ私の姿が変わってしまったことが、まだ受け入れられないだけで」
少し離れたところで枝を拾う、秀兼に聞かれないよう注意しつつ、睡蓮は毒草を薦める草蜂を小声でたしなめる。彼女は家族たちが苦しむのを望んでなどいなかった。
最初は辛くて、悲しくて。
どうして拒絶されるのかと、悩んだ。瞳の色が変わっても、彼女の中身は、以前と変わらないのだから。
血のつながった大切な家族。それが、こんなに脆く壊れてしまうほどの、浅い関係だったのか。
悔しくて、涙した。
荒れる感情が落ち着くと、急に変わった姿に戸惑っているだけだろうと考え出す。
時間が経って冷静になれば、睡蓮は何も変わっていないと、分かってくれるはずだ。そう信じることにした。
けれど、未だに彼らは、睡蓮を受け入れない。
本当に受け入れてもらえる日が来るのかと、希望は日に日に薄らいでいく。
睡蓮は目を閉じて、細く長い息を吐き出した。空を見上げ、気持ちを切り替える。
落ち込んでいても、状況はよくならない。むしろ、自分を取り巻く陰鬱な空気が、周囲まで暗くする。結果、余計に状況を悪化させるだけだ。
「大丈夫。きっと、分かってくださるわ」
木の枝から生え始めたばかりの、薄く小さな若葉に、陽光が降り注ぐ。生命の輝きを感じさせる新緑。眺めていると、落ち込みかけた気分が晴れていく。
「さ、もう少し、頑張りましょう」
歩き出した睡蓮を、草蜂たちが追いかけた。
充分な野草が採れると、睡蓮は秀兼に声を掛けて、家路に着く。枯れ枝を拾っていた秀兼も、睡蓮と共に離れ家に戻った。
「兄上様、いつもありがとうございます」
「大したことはしていないさ」
そう答えながら、秀兼は集めていた枝を囲炉裏にくべて、火を熾す。その間に、睡蓮は採ってきた野草を笊に移し、さっと洗う。
「今度、出かけないか?」
秀兼の声は淡々としていたけれど、表情は真剣だった。
「それは」
睡蓮は言葉を詰まらせる。
離れ家から出ることは許されているけれど、敷地の外に出ることまでは、許されていない。
「見つからなければ、何も言われないさ。もうすぐ桜が咲く。団子でも買って、花見に行こう。好きだっただろう?」
誘ってくれる秀兼に対して、睡蓮は曖昧に微笑む。
秀兼の気遣いを無下にするのは、心苦しい。
けれど睡蓮を庇い、父母に楯突いたことで、彼に対する評価は悪化していた。睡蓮に荷担しすぎれば、今以上に孤立してしまう。
そんな事情を、睡蓮だってわきまえている。
「兄上様、私のことは、お気になさらなくてよいのですよ?」
瀕死の秀兼を救うため、彼女は白蛇の嫁となる約束を結んだ。けれどそれは、彼女自身が選んだことで、秀兼が罪悪感を抱く必要はない。
そんな思いを込めて伝える睡蓮に、秀兼は困ったとばかりに眉を下げる。
「兄を気遣ってくれるのなら、どうか甘えておくれ。お前は私の可愛い妹だ。たまには兄らしいことを、させてくれないか?」
なおもためらう睡蓮の頭を、立ち上がった秀兼の手が、優しく撫でた。
武骨な手は、幼いころから、睡蓮の心を安心させてくれる。緩んだ心では、兄の優しさを拒絶し、自分の内に在る願望を押し留めることは、できなかった。
睡蓮だって、たまにはどこかに出かけたい。
「ありがとうございます。楽しみにしておきます」
素直に礼を述べると、秀兼は嬉しそうに笑う。
囲炉裏に掛けた鍋が、くつくつと音を立て、白い湯気を立ち昇らせていた。
二章
山に色を添えていた薄紅色が、若々しい緑に呑み込まれていく。城山の麓も緑が茂り、探し歩かずとも、蕗や蓬などはすぐに見つかった。堀の近くまで出れば、芹も採れる。
そんな春の暖かな日のこと。花見の時期は逃してしまったけれど、睡蓮は秀兼と共に、金川の町を歩いていた。
海が近い金川では、物売り小屋に、朝獲ってきたばかりの、新鮮な魚介類が並ぶ。壷からにょろりと出てきた蛸を見て、睡蓮は思わず秀兼の袖を握った。
彼女はいつものように、目元と首に、布を巻く。更に念のため、頭から小袖を深く被いて、顔を隠す。秀兼も直垂姿に笠を被り、顔を隠した。
「触らねば、害はないさ」
「触ると、害があるのですか?」
「足に触れると、吸い付かれる。お前の柔肌では、傷が付くかもしれない」
兄妹が喋っている間に、店番の女が蛸を壷の中に戻す。
市には女たちの姿が多く見られる。男たちが獲ってきた魚や、畑で収穫した野菜を、女たちが売りさばくのだ。時にはその場で下拵えをしてくれるなど、痒いところに手が届く気遣いを見せる。
「欲しいものがあれば、遠慮なく言うといい。お前が欲しがる程度のものであれば、幾らでも買えるだけの金を持ってきたからな」
「まあ。そんなことを仰るなら、綺麗な反物を、お願いしてしまいますよ?」
「これは手厳しい」
軽い冗談を交わしながら、兄妹は仲良く市を覗く。
「団子があるぞ。食べるか?」
「ご相伴にあずかります」
茶屋の床几台に腰かけた二人は、団子を食べながら、行き交う人々を眺めた。
「金川の町は、平和ですね」
「そうだな。弓木が手を広げているが、金川までは、まだ来ぬであろう」
弓木家は、金川の南方に列なる山を越えた先にある、小田和の地を支配する大名だ。二代に亘って卓越した当主が立ち、領地を拡大し続けている。特に当代の弓木伸近は、破竹の勢いで諸方を攻め落としていた。
金川と小田和は、地図の上で三十里ほど離れている。間には高い山々が列なり、越えるための道は、細く険しかった。
もしも進軍してきたならば、待ち伏せをすればいい。細い山道に列をなしている弓木軍に、高所から矢を放つのだ。弓木家のほうが強かろうとも、地の利が助けてくれる。
「そこまで苦労して攻めるほど、金川に価値はない。都方面に手を伸ばしたほうが、弓木家にとって、大きな利益になるからな」
だから弓木家が上洛するまでは、心配する必要はないだろうと、秀兼は言う。
「行ったことはないが、小田和の城下は、ずいぶんと栄えているらしい。都にも勝るのではないかという話だ」
「都よりもですか? 凄いですね」
「噂だがな」
素直に感心する睡蓮に、釘を刺した秀兼は、城山を振り仰ぐ。釣られて睡蓮も、目を向けた。
高くそびえる山の上方は、草木を削がれ、山肌が剥き出しになっている。斜面には堀や柵が無数にあり、敵の侵入を拒む。頂には、物見櫓や兵糧を詰めた小屋などが、設けられていた。他にもいざというときに立てこもる、掘立小屋もある。
山城は、あくまで戦のための設備。麓に造られた屋敷と違い、住みやすさなどは考慮されていない。
「弓木家が上洛してからでは遅い。今の内に弓木家と縁を結ぶよう、父上に進言しているのだが。若輩者の戯言と、耳をお貸しくださらない」
苦く歪められた秀兼の顔は、己の力不足を嘆いていた。
「遅いのですか?」
「遅いな。そのころには、弓木家は強くなりすぎている。余程の利益を提示できなければ、金川は、今のままというわけにはいかぬだろう」
今ならば、条件次第で、同盟を結ぶことも可能だ。しかし、加々巳家と弓木家の力の差が大きくなりすぎれば、属国になるか、一矢報いたとしても滅びの道を歩むことになる。そうなれば、領民たちにも苦労を強いることになるかもしれない。
秀兼は視線を城山から町に戻し、行き交う人々を眩しそうに見る。
「民たちの幸せを護るためには、今が最後の機会だと思う」
睡蓮に、時勢のことはよく分からない。ただ秀兼が領民たちを愛し、彼らの幸せを心から願っていることだけは、理解できた。
「兄上様は、物知りなのですね」
「跡を継がぬとはいえ、情勢を把握しておかなければ、家臣や民たちを路頭に迷わすことになってしまう。今は父上がいるが、松千代殿はまだ幼い。一人前の武将に育たれるまでは、支えてさしあげなければな」
団子を食べ終えると、睡蓮と秀兼は腰を上げる。
「兄上様は、私の自慢の兄です」
「どうした? 急に。何か欲しいものでも見つけたか?」
「そうではありません」
拗ねた顔を見せる睡蓮に対して、秀兼は愉快げに笑う。
「睡蓮も、私の自慢の妹だよ」
ぽつりと返された言葉が耳に届き、睡蓮は顔を真っ赤に染めた。
「もう! 知りません」
「待て待て。一人で先に行っては危ないぞ? 怒るな睡蓮」
「怒ってはおりませぬ」
「では照れておるのか? 可愛い奴め」
「兄上様!」
すぐに追いついた秀兼に捕まって、睡蓮は眉を張る。しかしそれも、束の間のこと。兄妹は仲良く並んで歩いた。
睡蓮は、秀兼と共に町の中を進む。ふと視線に気付いて顔を向けると、黒い狼と目が合った。
引き込まれるほどに深い、緋色の瞳。
睡蓮は目を逸らすことができず、足を止めて見つめてしまう。
「どうした? 睡蓮」
秀兼も足を止め、睡蓮の視線の先を追った。
「あの狼が、どうかしたのか?」
「見えるのですか?」
秀兼の言葉に驚いて、睡蓮は呪縛が解けたように動き出す。まじまじと秀兼を凝視すると、彼は戸惑った顔をした。
「何を言っているのだ?」
不思議そうに眉をひそめて、睡蓮と狼を見比べる。
「あの狼、瞳が赤いです」
「妖か?」
睡蓮に説明されて、秀兼は答えを弾き出す。
妖の外見は、それぞれ異なる。けれど、たった一つだけ、一致する部位があった。
妖たちは皆、赤い瞳を持つ。
多くの妖を見てきた睡蓮は、そのことに気付いていた。
黒い狼の瞳は、赤い。
「睡蓮でなくとも、見える妖がいるのか」
関心を寄せた秀兼が、狼に近付いていく。彼の後を追って、睡蓮も狼のほうに向かう。
狼の首には、縄が括られていた。その先は、近くの木に結ばれている。売りものとして並べられているのだ。
「妖が捕えられるとは。都のほうには、陰陽師なる者がいるとは聞いたが」
はてと首を捻った秀兼の視線は、近くで胡坐を組んでいる、黒ひげを蓄えた男に向かう。
筒袖に括袴まではいい。よく見かける、庶民の格好だ。
問題は、羽織物。猪の毛皮をまとうなど、町ではありえない。都の雅な街を歩いていたら、とてつもなく目を引きそうな装いである。
「思っていたのと違うな」
「兄上様」
「冗談だ。あの者は、山の民であろう」
睡蓮が呆れた眼差しを向けると、秀兼は即座に掌を返し、真面目に答えた。
山で獣や鳥を狩ることを生業としている山の民は、狩った獣の毛皮を衣や敷きものにする。そして肉や生捕った獣を、町へ売りに来ることがあった。
「初めて見ました。よく御存知ですね」
「道案内などで、時折世話になる」
秀兼は、山の民と思わしき男に近付いていく。
「この狼を捕えたのは、そなたか?」
山の民は鋭い目を、ぎょろりと向ける。そして秀兼と睡蓮を見定めるように、上から下へと動かした。
無遠慮な視線に、睡蓮は恐ろしさを覚える。秀兼の袖をつかみ、彼の陰に隠れた。
「そうだ」
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