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30.僕が知らないとでも
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「僕が知らないとでも思っているの? 領地で逢引きを繰り返していたそうだね?」
くすくすと、クピードは哂う。
「アポロンがよくこぼしていたよ? アルテミスは王都に憧れているのに、領地から出ようとしないって。何度誘っても、頑なに領地に残ってしまう」
違う、とアルテミスは否定したかった。
何度お願いしても、父と母はアルテミスに王都への同行を許してくれなかったのだ。
「派閥の違う伯爵家から、婚約を申し込む釣書が来たそうだね? フルムーン家と縁を結んだところで、エナリオス家にはほとんど恩恵が無い。それなのにどうして? 王都に出てこない令嬢を、どこで見初めた?」
くすくすと、不快な笑い声が耳から侵入して、頭の中でこだまする。
「そのようにお考えなのならば、私は殿下には相応しくないのではありませんか?」
異性の影がある女性を婚約者に据えたとあっては、クピードの体面に関わる。アルテミスには瑕疵があると判断し、避けるべき縁談だ。
クピードから表情が抜け落ちる。目が厭らしく三日月を描き、口は嘲るよう半月を模る。
「決まっているだろう? 媚を売ってくる女狐を狩るよりも、逃げ回る鹿を狩る方が何倍も面白い」
くすくすと、彼は嗤った。
アルテミスは手を握りしめて、今にも噴火しそうな頭を何とか抑える。叫びたかった。目の前にいる不快な生き物の頬を、思いっきり引っぱたいてやりたかった。
けれどそれは許されない。相手は王族だ。公爵家の娘よりも、ずっと尊い地位の人間。そんなことをしてしまえば、自分だけの罪では済まなくなる。
ゆっくりと呼吸を繰り返して、アルテミスは怒りを飲み込み、オライオンを想う心に何度目かの蓋をする。貼りつけていた微笑に和らぎを与え、薄紅色の花びらのような口を綻ばせた。
「殿下、お戯れが過ぎますわ。王城の花より素晴らしい花など、この国に在りましょうか? 自慢の庭園を持つ貴族でも、王城の薔薇を目にすれば己の傲慢さを恥じ、膝を突きましょう」
じとりとした眼差しがアルテミスを捉えて離さない。大蛇に巻き付かれたような気持ち悪さと恐怖に吐き気さえ覚えながら、アルテミスは微笑を浮かべたまま耐えた。
「その言葉、忘れるな? 我が城の薔薇以外の蜜を吸おうなどと考えれば、その花は庭園ごと枯れることになるだろう」
「まあ、怖い。ですがそのようなことは、ありえませんわ」
ふふっと、おかしそうにアルテミスは笑ってみせる。
そんなことは決してさせるものかと、彼女は笑顔の下で強い決意の火を燃やす。
「ではそろそろお時間ですので、失礼いたします」
「ああ」
クピードの私室から退室したアルテミスは、王城の中を進む。張り付けられた表情が変わることはない。
たとえクピードがいなくとも、城内の至る所に人の目がある。そのほとんどが王族の目であり耳である以上、隙を見せるわけにはいかなかった。
「今日は古代語だったわね」
意識を切り替えるために、わざと声に出して呟く。
王国の歴史や神学を、王族に連なる者は貴族たちよりも深く知っておく必要がある。そのためには、使われなくなって久しい古代語も読み解けなければならない。
貴族たちに公表されていない真実を、より詳しい出来事を、次の王族に伝えるために学ぶ。だたし、本当に重要なことは、ただの王子の婚約者に知らされることはない。
廊下を歩いていると、敬礼する騎士にどうしても目が行ってしまう。
誰にも気づかれないように、目を動かさないように、視界の端にそっと捉えてその顔を確認する。けれど、騎士になると言っていたオライオンの姿は見つからなかった。
くすくすと、クピードは哂う。
「アポロンがよくこぼしていたよ? アルテミスは王都に憧れているのに、領地から出ようとしないって。何度誘っても、頑なに領地に残ってしまう」
違う、とアルテミスは否定したかった。
何度お願いしても、父と母はアルテミスに王都への同行を許してくれなかったのだ。
「派閥の違う伯爵家から、婚約を申し込む釣書が来たそうだね? フルムーン家と縁を結んだところで、エナリオス家にはほとんど恩恵が無い。それなのにどうして? 王都に出てこない令嬢を、どこで見初めた?」
くすくすと、不快な笑い声が耳から侵入して、頭の中でこだまする。
「そのようにお考えなのならば、私は殿下には相応しくないのではありませんか?」
異性の影がある女性を婚約者に据えたとあっては、クピードの体面に関わる。アルテミスには瑕疵があると判断し、避けるべき縁談だ。
クピードから表情が抜け落ちる。目が厭らしく三日月を描き、口は嘲るよう半月を模る。
「決まっているだろう? 媚を売ってくる女狐を狩るよりも、逃げ回る鹿を狩る方が何倍も面白い」
くすくすと、彼は嗤った。
アルテミスは手を握りしめて、今にも噴火しそうな頭を何とか抑える。叫びたかった。目の前にいる不快な生き物の頬を、思いっきり引っぱたいてやりたかった。
けれどそれは許されない。相手は王族だ。公爵家の娘よりも、ずっと尊い地位の人間。そんなことをしてしまえば、自分だけの罪では済まなくなる。
ゆっくりと呼吸を繰り返して、アルテミスは怒りを飲み込み、オライオンを想う心に何度目かの蓋をする。貼りつけていた微笑に和らぎを与え、薄紅色の花びらのような口を綻ばせた。
「殿下、お戯れが過ぎますわ。王城の花より素晴らしい花など、この国に在りましょうか? 自慢の庭園を持つ貴族でも、王城の薔薇を目にすれば己の傲慢さを恥じ、膝を突きましょう」
じとりとした眼差しがアルテミスを捉えて離さない。大蛇に巻き付かれたような気持ち悪さと恐怖に吐き気さえ覚えながら、アルテミスは微笑を浮かべたまま耐えた。
「その言葉、忘れるな? 我が城の薔薇以外の蜜を吸おうなどと考えれば、その花は庭園ごと枯れることになるだろう」
「まあ、怖い。ですがそのようなことは、ありえませんわ」
ふふっと、おかしそうにアルテミスは笑ってみせる。
そんなことは決してさせるものかと、彼女は笑顔の下で強い決意の火を燃やす。
「ではそろそろお時間ですので、失礼いたします」
「ああ」
クピードの私室から退室したアルテミスは、王城の中を進む。張り付けられた表情が変わることはない。
たとえクピードがいなくとも、城内の至る所に人の目がある。そのほとんどが王族の目であり耳である以上、隙を見せるわけにはいかなかった。
「今日は古代語だったわね」
意識を切り替えるために、わざと声に出して呟く。
王国の歴史や神学を、王族に連なる者は貴族たちよりも深く知っておく必要がある。そのためには、使われなくなって久しい古代語も読み解けなければならない。
貴族たちに公表されていない真実を、より詳しい出来事を、次の王族に伝えるために学ぶ。だたし、本当に重要なことは、ただの王子の婚約者に知らされることはない。
廊下を歩いていると、敬礼する騎士にどうしても目が行ってしまう。
誰にも気づかれないように、目を動かさないように、視界の端にそっと捉えてその顔を確認する。けれど、騎士になると言っていたオライオンの姿は見つからなかった。
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