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一部
◇二度目の満月と裏切り者 3◆
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訪れる静寂。
虫の声と、木々、夜風の音だけが周囲を満たしている。
「……あ、はは……」
シェラは小さく笑った。
その頬をいくつもの生暖かい雫が零れて落ちていく。
「あなただった、なんて……いまさら……こんな、気持ち、気づいたって……」
片想いだと彼は言った。
けれど、そうではない。
「あの、苦しさがこんな意味なら……もっと早く、気づけたら」
「シェラ」
ふと、うしろからかかった女性の声……アリシャ、否、エディアナの声に、身体が強張った。
「リヒトにも言ったけれど、ドミニクと真っ向からやりあっても、無駄よ」
そうだ。
ローレントが裏切り者であった以上、これからは敵同士なのだ。
「わたくしが手配はしたわ、人質になっていた彼の妹や他の者たちは今、王城の地下牢から出されて、僻地の処刑場に運ばれているはず。彼女を奪還すれば、ドミニクはこちらにつく」
シェラは薄紫の双眸を見開く。
そんなことをすれば、いくら王妃であってもただではすまないだろうに。
「……エディアナさん、あなた……なぜ……?」
ふりかえると、彼女は寂しそうに笑った。
その瞳は、シェラと同じ薄紫の色をしている。
「わたくし、けっして今の夫を愛していないの……だって、わたくしの愛しい人を殺したのだもの……あなたの、父親であったひとよ。何度も殺してやろうと思ったわ……だけど、一人では敵わなかったの、でもあのひと……わたくしには、甘いのよ」
ふふっと笑ったその顔は、馬鹿にするようなものだった。
「本当はね、ローレントとあなたを引き離すつもりだったわ。だって、それが一番シェラのためになるもの……彼は裏切り者、それに……彼は人狼で、あなたは少なくともまだ人間なんだもの……」
なるほどつまり、ぴったりとローレントにくっついていたのは、二人にさせないためだったのだろう。
エディアナには、最初からローレントに対して好意などないのだ。
シェラはようやく少しばかり冷静さを取り戻し、彼女に……母に対して問う。
「あの、それなんですけど……私はなぜ、ヴァンピールではないのです?」
親が魔族なのに、どうしてシェラは人間なのだろう?
そのことを問うと、エディアナは困ったように笑った。
「あなたはね……今の、わたくしの夫に疎まれて、ヴァンピールとしての素質を封じられてしまったの。きっと……どこぞでのたれ死ねば良いとでも思ったのね、そうしてあなたは人の世に捨て置かれた。それでもね? あなたがわたくしの娘であることには変わりないわ、吸血すれば、あなたは本来の力を取り戻せる……戻りたい? シェラ?」
その問いには、しばらく迷った。
きっとヴァンピールとして目覚めれば、シェラは今よりも良い戦力になるだろう。
だが……。
「いいえ……私が目覚めてしまったら、その、あなたの旦那様が許しておかないでしょう。仲間を危険にさらすことはできません。私一人では、全てを守りきるような力はないでしょうし、ローレントだって、敵わなかったんでしょう?」
ローレントも、エディアナも、一人では敵わなかったのだ。
そんな相手に、シェラが敵うはずもない。
けれどエディアナは首を横に振って、痛ましそうに表情をゆがめる。
「彼は……違うわ。妹を先に人質にとられてしまったからよ。夫にとって、彼は脅威だった。だって、とてもとても強いから……正面からぶつかったりしないわ、卑怯な男だもの」
「……そんなに、強いのですか?」
今のローレントは敵だ。相対するのを考えると気分が重い。
あの巨大な狼が彼の本性の一つであったとして、ミンチにされてしまうのはさすがに嫌だ。
「わたくしたちはね、あなたたちと違って血統で王が決まるわけではないわ……弱い王なんて、どんなに良い血を継いでいても……殺されてしまうものね? 人間同士なら、そんなに力の差がないけれど……わたくしたちは、別よ。弱すぎれば、騎士にさえ殺されてしまうわ」
ふふっと笑って、エディアナはシェラのすぐ傍までやって来る。
「ローレントは強い、けど、王というものに興味を持たなかっただけ。彼はただ、家族と幸せにすごしたかっただけ……そう、だから、その気持ちを逆手に取られたのね。あのひとにとって、ローレントは脅威であることに変わりない……妹を人質にとって、最後には……彼自身も処分するつもりだったわ」
「な……っ」
驚きに双眸を見開いたシェラに、エディアナは困ったように微笑む。
「こんなことでも、驚くのね、優しいわたくしの娘……けれどわたくしたちの世界では、当たり前のように起こることよ? ローレントだって、分かっていたはずだわ。だからきっと、妹を助け出す機会を窺ってはいたはず……本当なら、そんな機会、訪れるはずもなかった、だけど彼は、あなたを見つけた」
なぜここで自分が出てくるのか?
シェラが疑問に思ってエディアナを見つめると、彼女はシェラの頬に手を伸ばして微笑む。
「彼、わたくしに取引を持ちかけてきたの。エトワールを見つけたって……居場所を教える代わりに、どんな方法でも良いから、人質にとられている者たちを地下牢から連れ出してほしいって……わたくし、少しも迷わなかったわ。あなたが本物のエトワールでも、そうでなかったとしても……あの男に、復讐できる機会でもあったから」
シェラの頬を優しく撫でて、子供にするように額にキスをして、エディアナは薄紫の瞳でシェラを見つめる。
「処刑場はこの人間の世と、わたくしたちの国の境にある、孤島にあるわ。大勢では目立ちすぎて、人質を救うより先にローレントたちを援軍に呼ばれかねない。そうなったら死肉の山ができあがってしまうから……少数の精鋭で乗りこむことになる。激戦になるのは間違いないけれど、それでも行く? わたくしの愛しい娘」
どちらにしても、その卑怯な王が大軍を見逃すとは思えない。
少数であれば援軍を呼びはしないかもしれないが、大勢では間違いなく呼ぶだろう。
「行かないわけには、いかないでしょう……」
処刑場に運ばれているということは、人質は殺されるということだ。
そして、何も知らない者たちは最後まで駒として扱われ、最後には人質が居ることにして殺されるのだろう。
その件についてエディアナを責めるつもりはない、彼女の持てる権限では、それが最善だったのだろう。
とにかく、王城から引き離してくれたことには感謝しなければならない。
さすがに、敵本拠地の地下に居られては、助ける前にこちらがやられる。
エディアナはシェラの瞳を見つめて、静かに告げる。
「勝算は、あるわ……ローレントはすでにそのことを知っているし、彼の妹を助け出すことさえできれば、あとは……彼の助力も得られるでしょう」
ということは、その妹を助けられなければ最悪の窮地に陥るのかもしれない。
勘づかれれば、敵はきっとその人質たちをその場では殺さずにいて、シェラたちを殲滅するように命ずるだろう。
けれど、どんなに危険でも、成功すれば最小限の犠牲に留められる。
「行きますよ。どんなに危険だって、ローレントたちをほうっておくこともできませんし、それに、リヒト様もきっと……行くように命じますから」
頷いたシェラを見つめて、エディアナが考えるように言う。
「リヒト……彼、話の分かるひとね。わたくしの言葉を信じるかどうか、最初は疑っていたけれど。ローレントはあなたを殺せないって……だから、あなたに任せるのが一番良いと言ったの」
「それは……その……」
先ほどのことを思いだして、殺せない理由はそういうことだろうかと考える。
ローレントが、自分のことをそんなふうに思っていたなんて、想像したこともなかった。
恥ずかしさに頬が赤くなる。
「彼があなたを好いているのはすぐに分かったわ。ふふっ……わたくしも、昔は恋焦がれるときがあったもの……意外だったわ、ローレントは、どんな美人が言い寄ってきても気にしないひとだったから……だから、ね、吸血種の香りにあてられたかと最初は思っていたの」
「吸血種の……香り?」
シェラが首を傾げると、エディアナは小さく頷いて真剣な表情をした。
「捕食対象を誘い出すためにね、生来吸血種は相手を魅了する香りがするの。人間にも効果があるわ。上位の魔族になれば、さほど影響はないけれど……あなたはわたくしとあのひとの娘、特別強い力があるもの、ローレントだって影響なしとはいかないわ」
「え……じゃあ……」
彼がシェラを好きだと言ったのは、そのせいなのだろうか。そう思うと、胸が痛んだ。
だが、エディアナは首を横に振る。
「いいえ? 彼は本気だったのね。いつも涼しい顔をしている彼が、あなたのことになるとイラついたり悩んだりするのだもの、面白くて……つい、意地悪をしてしまったわ。そうそう、紳士的なほうだと思っていたけれど、ジェシカにもひどいことをしたのですってね。ぜひ見てみたかったわ……彼の怒りに染まった顔」
まさかそれも、ぴったりとくっついていた理由だろうか。
娘につく悪い虫を追い払おうとしたのもあるのだろうが、彼女は彼女で楽しんでいたのかもしれない。
「せっかく再会できたのに少し寂しいけれど、シェラ、あなたが彼と一緒に居たいのならわたくし、もう邪魔はしないわ。でも、たまには母のことも構ってちょうだいね」
そう言って、エディアナは子供のように微笑んだ。
虫の声と、木々、夜風の音だけが周囲を満たしている。
「……あ、はは……」
シェラは小さく笑った。
その頬をいくつもの生暖かい雫が零れて落ちていく。
「あなただった、なんて……いまさら……こんな、気持ち、気づいたって……」
片想いだと彼は言った。
けれど、そうではない。
「あの、苦しさがこんな意味なら……もっと早く、気づけたら」
「シェラ」
ふと、うしろからかかった女性の声……アリシャ、否、エディアナの声に、身体が強張った。
「リヒトにも言ったけれど、ドミニクと真っ向からやりあっても、無駄よ」
そうだ。
ローレントが裏切り者であった以上、これからは敵同士なのだ。
「わたくしが手配はしたわ、人質になっていた彼の妹や他の者たちは今、王城の地下牢から出されて、僻地の処刑場に運ばれているはず。彼女を奪還すれば、ドミニクはこちらにつく」
シェラは薄紫の双眸を見開く。
そんなことをすれば、いくら王妃であってもただではすまないだろうに。
「……エディアナさん、あなた……なぜ……?」
ふりかえると、彼女は寂しそうに笑った。
その瞳は、シェラと同じ薄紫の色をしている。
「わたくし、けっして今の夫を愛していないの……だって、わたくしの愛しい人を殺したのだもの……あなたの、父親であったひとよ。何度も殺してやろうと思ったわ……だけど、一人では敵わなかったの、でもあのひと……わたくしには、甘いのよ」
ふふっと笑ったその顔は、馬鹿にするようなものだった。
「本当はね、ローレントとあなたを引き離すつもりだったわ。だって、それが一番シェラのためになるもの……彼は裏切り者、それに……彼は人狼で、あなたは少なくともまだ人間なんだもの……」
なるほどつまり、ぴったりとローレントにくっついていたのは、二人にさせないためだったのだろう。
エディアナには、最初からローレントに対して好意などないのだ。
シェラはようやく少しばかり冷静さを取り戻し、彼女に……母に対して問う。
「あの、それなんですけど……私はなぜ、ヴァンピールではないのです?」
親が魔族なのに、どうしてシェラは人間なのだろう?
そのことを問うと、エディアナは困ったように笑った。
「あなたはね……今の、わたくしの夫に疎まれて、ヴァンピールとしての素質を封じられてしまったの。きっと……どこぞでのたれ死ねば良いとでも思ったのね、そうしてあなたは人の世に捨て置かれた。それでもね? あなたがわたくしの娘であることには変わりないわ、吸血すれば、あなたは本来の力を取り戻せる……戻りたい? シェラ?」
その問いには、しばらく迷った。
きっとヴァンピールとして目覚めれば、シェラは今よりも良い戦力になるだろう。
だが……。
「いいえ……私が目覚めてしまったら、その、あなたの旦那様が許しておかないでしょう。仲間を危険にさらすことはできません。私一人では、全てを守りきるような力はないでしょうし、ローレントだって、敵わなかったんでしょう?」
ローレントも、エディアナも、一人では敵わなかったのだ。
そんな相手に、シェラが敵うはずもない。
けれどエディアナは首を横に振って、痛ましそうに表情をゆがめる。
「彼は……違うわ。妹を先に人質にとられてしまったからよ。夫にとって、彼は脅威だった。だって、とてもとても強いから……正面からぶつかったりしないわ、卑怯な男だもの」
「……そんなに、強いのですか?」
今のローレントは敵だ。相対するのを考えると気分が重い。
あの巨大な狼が彼の本性の一つであったとして、ミンチにされてしまうのはさすがに嫌だ。
「わたくしたちはね、あなたたちと違って血統で王が決まるわけではないわ……弱い王なんて、どんなに良い血を継いでいても……殺されてしまうものね? 人間同士なら、そんなに力の差がないけれど……わたくしたちは、別よ。弱すぎれば、騎士にさえ殺されてしまうわ」
ふふっと笑って、エディアナはシェラのすぐ傍までやって来る。
「ローレントは強い、けど、王というものに興味を持たなかっただけ。彼はただ、家族と幸せにすごしたかっただけ……そう、だから、その気持ちを逆手に取られたのね。あのひとにとって、ローレントは脅威であることに変わりない……妹を人質にとって、最後には……彼自身も処分するつもりだったわ」
「な……っ」
驚きに双眸を見開いたシェラに、エディアナは困ったように微笑む。
「こんなことでも、驚くのね、優しいわたくしの娘……けれどわたくしたちの世界では、当たり前のように起こることよ? ローレントだって、分かっていたはずだわ。だからきっと、妹を助け出す機会を窺ってはいたはず……本当なら、そんな機会、訪れるはずもなかった、だけど彼は、あなたを見つけた」
なぜここで自分が出てくるのか?
シェラが疑問に思ってエディアナを見つめると、彼女はシェラの頬に手を伸ばして微笑む。
「彼、わたくしに取引を持ちかけてきたの。エトワールを見つけたって……居場所を教える代わりに、どんな方法でも良いから、人質にとられている者たちを地下牢から連れ出してほしいって……わたくし、少しも迷わなかったわ。あなたが本物のエトワールでも、そうでなかったとしても……あの男に、復讐できる機会でもあったから」
シェラの頬を優しく撫でて、子供にするように額にキスをして、エディアナは薄紫の瞳でシェラを見つめる。
「処刑場はこの人間の世と、わたくしたちの国の境にある、孤島にあるわ。大勢では目立ちすぎて、人質を救うより先にローレントたちを援軍に呼ばれかねない。そうなったら死肉の山ができあがってしまうから……少数の精鋭で乗りこむことになる。激戦になるのは間違いないけれど、それでも行く? わたくしの愛しい娘」
どちらにしても、その卑怯な王が大軍を見逃すとは思えない。
少数であれば援軍を呼びはしないかもしれないが、大勢では間違いなく呼ぶだろう。
「行かないわけには、いかないでしょう……」
処刑場に運ばれているということは、人質は殺されるということだ。
そして、何も知らない者たちは最後まで駒として扱われ、最後には人質が居ることにして殺されるのだろう。
その件についてエディアナを責めるつもりはない、彼女の持てる権限では、それが最善だったのだろう。
とにかく、王城から引き離してくれたことには感謝しなければならない。
さすがに、敵本拠地の地下に居られては、助ける前にこちらがやられる。
エディアナはシェラの瞳を見つめて、静かに告げる。
「勝算は、あるわ……ローレントはすでにそのことを知っているし、彼の妹を助け出すことさえできれば、あとは……彼の助力も得られるでしょう」
ということは、その妹を助けられなければ最悪の窮地に陥るのかもしれない。
勘づかれれば、敵はきっとその人質たちをその場では殺さずにいて、シェラたちを殲滅するように命ずるだろう。
けれど、どんなに危険でも、成功すれば最小限の犠牲に留められる。
「行きますよ。どんなに危険だって、ローレントたちをほうっておくこともできませんし、それに、リヒト様もきっと……行くように命じますから」
頷いたシェラを見つめて、エディアナが考えるように言う。
「リヒト……彼、話の分かるひとね。わたくしの言葉を信じるかどうか、最初は疑っていたけれど。ローレントはあなたを殺せないって……だから、あなたに任せるのが一番良いと言ったの」
「それは……その……」
先ほどのことを思いだして、殺せない理由はそういうことだろうかと考える。
ローレントが、自分のことをそんなふうに思っていたなんて、想像したこともなかった。
恥ずかしさに頬が赤くなる。
「彼があなたを好いているのはすぐに分かったわ。ふふっ……わたくしも、昔は恋焦がれるときがあったもの……意外だったわ、ローレントは、どんな美人が言い寄ってきても気にしないひとだったから……だから、ね、吸血種の香りにあてられたかと最初は思っていたの」
「吸血種の……香り?」
シェラが首を傾げると、エディアナは小さく頷いて真剣な表情をした。
「捕食対象を誘い出すためにね、生来吸血種は相手を魅了する香りがするの。人間にも効果があるわ。上位の魔族になれば、さほど影響はないけれど……あなたはわたくしとあのひとの娘、特別強い力があるもの、ローレントだって影響なしとはいかないわ」
「え……じゃあ……」
彼がシェラを好きだと言ったのは、そのせいなのだろうか。そう思うと、胸が痛んだ。
だが、エディアナは首を横に振る。
「いいえ? 彼は本気だったのね。いつも涼しい顔をしている彼が、あなたのことになるとイラついたり悩んだりするのだもの、面白くて……つい、意地悪をしてしまったわ。そうそう、紳士的なほうだと思っていたけれど、ジェシカにもひどいことをしたのですってね。ぜひ見てみたかったわ……彼の怒りに染まった顔」
まさかそれも、ぴったりとくっついていた理由だろうか。
娘につく悪い虫を追い払おうとしたのもあるのだろうが、彼女は彼女で楽しんでいたのかもしれない。
「せっかく再会できたのに少し寂しいけれど、シェラ、あなたが彼と一緒に居たいのならわたくし、もう邪魔はしないわ。でも、たまには母のことも構ってちょうだいね」
そう言って、エディアナは子供のように微笑んだ。
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