上 下
23 / 35
一部

◇二度目の満月と裏切り者 3◆

しおりを挟む
 訪れる静寂。
 虫の声と、木々、夜風の音だけが周囲を満たしている。
「……あ、はは……」
 シェラは小さく笑った。
 その頬をいくつもの生暖かい雫が零れて落ちていく。
「あなただった、なんて……いまさら……こんな、気持ち、気づいたって……」
 片想いだと彼は言った。
 けれど、そうではない。

「あの、苦しさがこんな意味なら……もっと早く、気づけたら」
「シェラ」
 ふと、うしろからかかった女性の声……アリシャ、否、エディアナの声に、身体が強張った。
「リヒトにも言ったけれど、ドミニクと真っ向からやりあっても、無駄よ」
 そうだ。
 ローレントが裏切り者であった以上、これからは敵同士なのだ。

「わたくしが手配はしたわ、人質になっていた彼の妹や他の者たちは今、王城の地下牢から出されて、僻地の処刑場に運ばれているはず。彼女を奪還すれば、ドミニクはこちらにつく」
 シェラは薄紫の双眸を見開く。
 そんなことをすれば、いくら王妃であってもただではすまないだろうに。
「……エディアナさん、あなた……なぜ……?」
 ふりかえると、彼女は寂しそうに笑った。
 その瞳は、シェラと同じ薄紫の色をしている。

「わたくし、けっして今の夫を愛していないの……だって、わたくしの愛しい人を殺したのだもの……あなたの、父親であったひとよ。何度も殺してやろうと思ったわ……だけど、一人では敵わなかったの、でもあのひと……わたくしには、甘いのよ」
 ふふっと笑ったその顔は、馬鹿にするようなものだった。
「本当はね、ローレントとあなたを引き離すつもりだったわ。だって、それが一番シェラのためになるもの……彼は裏切り者、それに……彼は人狼で、あなたは少なくともまだ人間なんだもの……」
 なるほどつまり、ぴったりとローレントにくっついていたのは、二人にさせないためだったのだろう。
 エディアナには、最初からローレントに対して好意などないのだ。
 シェラはようやく少しばかり冷静さを取り戻し、彼女に……母に対して問う。

「あの、それなんですけど……私はなぜ、ヴァンピールではないのです?」
 親が魔族なのに、どうしてシェラは人間なのだろう?
 そのことを問うと、エディアナは困ったように笑った。
「あなたはね……今の、わたくしの夫に疎まれて、ヴァンピールとしての素質を封じられてしまったの。きっと……どこぞでのたれ死ねば良いとでも思ったのね、そうしてあなたは人の世に捨て置かれた。それでもね? あなたがわたくしの娘であることには変わりないわ、吸血すれば、あなたは本来の力を取り戻せる……戻りたい? シェラ?」
 その問いには、しばらく迷った。
 きっとヴァンピールとして目覚めれば、シェラは今よりも良い戦力になるだろう。
 だが……。

「いいえ……私が目覚めてしまったら、その、あなたの旦那様が許しておかないでしょう。仲間を危険にさらすことはできません。私一人では、全てを守りきるような力はないでしょうし、ローレントだって、敵わなかったんでしょう?」
 ローレントも、エディアナも、一人では敵わなかったのだ。
 そんな相手に、シェラが敵うはずもない。
 けれどエディアナは首を横に振って、痛ましそうに表情をゆがめる。
「彼は……違うわ。妹を先に人質にとられてしまったからよ。夫にとって、彼は脅威だった。だって、とてもとても強いから……正面からぶつかったりしないわ、卑怯な男だもの」
「……そんなに、強いのですか?」
 今のローレントは敵だ。相対するのを考えると気分が重い。
 あの巨大な狼が彼の本性の一つであったとして、ミンチにされてしまうのはさすがに嫌だ。

「わたくしたちはね、あなたたちと違って血統で王が決まるわけではないわ……弱い王なんて、どんなに良い血を継いでいても……殺されてしまうものね? 人間同士なら、そんなに力の差がないけれど……わたくしたちは、別よ。弱すぎれば、騎士にさえ殺されてしまうわ」
 ふふっと笑って、エディアナはシェラのすぐ傍までやって来る。
「ローレントは強い、けど、王というものに興味を持たなかっただけ。彼はただ、家族と幸せにすごしたかっただけ……そう、だから、その気持ちを逆手に取られたのね。あのひとにとって、ローレントは脅威であることに変わりない……妹を人質にとって、最後には……彼自身も処分するつもりだったわ」
「な……っ」
 驚きに双眸を見開いたシェラに、エディアナは困ったように微笑む。

「こんなことでも、驚くのね、優しいわたくしの娘……けれどわたくしたちの世界では、当たり前のように起こることよ? ローレントだって、分かっていたはずだわ。だからきっと、妹を助け出す機会を窺ってはいたはず……本当なら、そんな機会、訪れるはずもなかった、だけど彼は、あなたを見つけた」
 なぜここで自分が出てくるのか?
 シェラが疑問に思ってエディアナを見つめると、彼女はシェラの頬に手を伸ばして微笑む。
「彼、わたくしに取引を持ちかけてきたの。エトワールを見つけたって……居場所を教える代わりに、どんな方法でも良いから、人質にとられている者たちを地下牢から連れ出してほしいって……わたくし、少しも迷わなかったわ。あなたが本物のエトワールでも、そうでなかったとしても……あの男に、復讐できる機会でもあったから」
 シェラの頬を優しく撫でて、子供にするように額にキスをして、エディアナは薄紫の瞳でシェラを見つめる。

「処刑場はこの人間の世と、わたくしたちの国の境にある、孤島にあるわ。大勢では目立ちすぎて、人質を救うより先にローレントたちを援軍に呼ばれかねない。そうなったら死肉の山ができあがってしまうから……少数の精鋭で乗りこむことになる。激戦になるのは間違いないけれど、それでも行く? わたくしの愛しい娘」
 どちらにしても、その卑怯な王が大軍を見逃すとは思えない。
 少数であれば援軍を呼びはしないかもしれないが、大勢では間違いなく呼ぶだろう。

「行かないわけには、いかないでしょう……」
 処刑場に運ばれているということは、人質は殺されるということだ。
 そして、何も知らない者たちは最後まで駒として扱われ、最後には人質が居ることにして殺されるのだろう。
 その件についてエディアナを責めるつもりはない、彼女の持てる権限では、それが最善だったのだろう。
 とにかく、王城から引き離してくれたことには感謝しなければならない。
 さすがに、敵本拠地の地下に居られては、助ける前にこちらがやられる。
 エディアナはシェラの瞳を見つめて、静かに告げる。

「勝算は、あるわ……ローレントはすでにそのことを知っているし、彼の妹を助け出すことさえできれば、あとは……彼の助力も得られるでしょう」
 ということは、その妹を助けられなければ最悪の窮地に陥るのかもしれない。
 勘づかれれば、敵はきっとその人質たちをその場では殺さずにいて、シェラたちを殲滅するように命ずるだろう。
 けれど、どんなに危険でも、成功すれば最小限の犠牲に留められる。

「行きますよ。どんなに危険だって、ローレントたちをほうっておくこともできませんし、それに、リヒト様もきっと……行くように命じますから」
 頷いたシェラを見つめて、エディアナが考えるように言う。
「リヒト……彼、話の分かるひとね。わたくしの言葉を信じるかどうか、最初は疑っていたけれど。ローレントはあなたを殺せないって……だから、あなたに任せるのが一番良いと言ったの」
「それは……その……」
 先ほどのことを思いだして、殺せない理由はそういうことだろうかと考える。
 ローレントが、自分のことをそんなふうに思っていたなんて、想像したこともなかった。
 恥ずかしさに頬が赤くなる。

「彼があなたを好いているのはすぐに分かったわ。ふふっ……わたくしも、昔は恋焦がれるときがあったもの……意外だったわ、ローレントは、どんな美人が言い寄ってきても気にしないひとだったから……だから、ね、吸血種の香りにあてられたかと最初は思っていたの」
「吸血種の……香り?」
 シェラが首を傾げると、エディアナは小さく頷いて真剣な表情をした。
「捕食対象を誘い出すためにね、生来吸血種は相手を魅了する香りがするの。人間にも効果があるわ。上位の魔族になれば、さほど影響はないけれど……あなたはわたくしとあのひとの娘、特別強い力があるもの、ローレントだって影響なしとはいかないわ」

「え……じゃあ……」
 彼がシェラを好きだと言ったのは、そのせいなのだろうか。そう思うと、胸が痛んだ。
 だが、エディアナは首を横に振る。
「いいえ? 彼は本気だったのね。いつも涼しい顔をしている彼が、あなたのことになるとイラついたり悩んだりするのだもの、面白くて……つい、意地悪をしてしまったわ。そうそう、紳士的なほうだと思っていたけれど、ジェシカにもひどいことをしたのですってね。ぜひ見てみたかったわ……彼の怒りに染まった顔」
 まさかそれも、ぴったりとくっついていた理由だろうか。
 娘につく悪い虫を追い払おうとしたのもあるのだろうが、彼女は彼女で楽しんでいたのかもしれない。

「せっかく再会できたのに少し寂しいけれど、シェラ、あなたが彼と一緒に居たいのならわたくし、もう邪魔はしないわ。でも、たまには母のことも構ってちょうだいね」
 そう言って、エディアナは子供のように微笑んだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

アパートの一室

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:11

鶏頭

青春 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

元悪役令嬢の娘に転生しました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:219

祖父と竹とんぼ

現代文学 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

帝国の珠玉

BL / 完結 24h.ポイント:56pt お気に入り:393

太助と魔王

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:349pt お気に入り:5

他人のそら似

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

ミステリー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...