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しくじった(2回目)/秀ちゃんには敵わない。

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 最初から絶対に真白を手に入れるつもりで、無理やり同棲に持ち込んだ。
 真白が約束というものに固執する性格だと知った上で、そこにつけ入った。たとえ昔に作った紙切れでも、あいつは無下にはできないって知っていたから。その誠実さに付け込んだ罰が下ったのだろう。


 子供の遊びみたいな恋愛の戯れを真白と繰り返すのは楽しかった。
 正直、最初からかなり手応えを感じていた。真白は、理不尽な俺の命令にも顔を真っ赤にして従ってくれて。雫に潤んだ瞳にあるのは羞恥心だけで嫌悪感などは見られなかった。命令とはいえ、真白は誰にでもそんなことをするヤツじゃない。それならば、そこにあるのは俺への好意だろうと。もしかしたら、真白もずっと俺のことを想っていてくれたのかもしれない、そんな勝手すぎる期待に胸を膨らませ、そろそろ告白しようと思っていた。
 だから、他の男と食事に行き、告白されて断らなかったという事実に胸の内がドス黒い嫉妬で染まり、理不尽な怒りが湧いた。
 俺の顔を見ただけで、あんなに安心しきった顔をしておいて、他の男を見るのか?
 お前は命令されれば、なんとも思っていない男にキスをするのか?
 そんな胸中を察したかのように真白は涙を零した。

「秀ちゃん、私だってもう大人なんだよ? どうして『従兄の』秀ちゃんにそこまで、干渉されなきゃいけないの? 私だって、彼氏、ほしいよ……?」

 従兄、という言葉に殴られたようなショックを受けた。真白にとっては未だに俺は男ではなく、ただの兄だったのか。
 面と向かって彼氏がほしい、なんて。丸っ切り自分が真白の恋愛対象外だと言われているようなものじゃないか。
 風呂に入ると言って去っていく真白を追いかけたかった。だが、このままだと暴走して真白を傷つけてしまいそうで、ただただ大人しく見守ることしかできなかった。
 俺はこんなにガキくさくて不器用なヤツだったのか?
 こんなに感情がコントロールできない人間だったのか?
 従兄の秀ちゃん、か――真白の為を思うなら、身を引いて『話のわかる従兄』に戻るべきなんだろう。

「ハッ」

 無理だろ。自分はそんな殊勝な人間ではない。真白が他の男の横で幸せそうに笑っているのなんて絶対に許せない。――あいつは俺の手で幸せにしたい。


「あ、秀ちゃん、おはよう」

 翌日、真白は驚くぐらいにいつも通りだった。朝ごはんを用意して、笑顔で迎えてくれて。昨日のことが悪い夢だったのではないかと思えるほど。もちろん、夢なんかじゃない。

「真白、目が……」

 顔に向かってとそっと伸ばした手が、白い頬に触れる前にやんわりと阻まれた。

「それはさ、恋人に対する距離感だよ」

 明確な拒絶に心に波紋が広がる。瞬き一つで元に戻し、「悪かった」と腕を引っ込めた。
 本音を言えば抱きしめたかった。華奢な腰を抱き寄せ、好きだと伝えて、その腫れた瞼に口付けたかった。
 でも、それはだめだと理性が俺を押しとどめる。昨日の今日でこの反応は、やっぱり兄としか思っていないという答えを示してるのだろう。

「顔を洗ってきて。今日は秀ちゃんの好きな合わせ味噌のお味噌汁にしたの、一緒に食べよ」

「……分かった、ありがとう」

 いつも通りに振る舞う真白の方が、俺よりもよっぽど大人だ。
 焦っても仕方がない、もう一度ゆっくりと関係を縮めていけばいい。そう自分に言い聞かせて、俺もいつものように振る舞う事にした。

「昨日の人と次はいつ食事にいくんだ?」

 昨日の今日で突っ込むのはまずいと分かっていたが、聞かないわけにはいかない。なるべく冷静を装い普段の会話のように聞いた。

「え……?」

 強張った顔には『なんで誘われたって分かるの?』とありありと書いてある。そんなの、俺が相手だったら必ずそうするからだ。

「食事の準備とか、困るだろ」

 もっともらしい事を口にすると真白が目を泳がしながら「明日」と短く答える。

「明日、か」

 くそ、よりによって、外せない会食がある日だ。

「確か秀ちゃんも取引先と会食でしょ?」

「……ああ」

 自分は飲み会にのこのこ出かけておいて、行くなよ、なんてどの口が言えるだろう。
 悪いのは全て俺なのにイライラした気持ちが治らない。
 少しギクシャクとした空気のまま、いつも通り二人で家を出た。

 *

 いつもどおり仕事して、仕事終わりに伊吹さんに金曜の夜の食事は断った。

『そうか、残念。また誘わせてね』

『えっ』

『付き合ったわけじゃないんでしょ? なら、好きでいさせてよ』

 嫌な顔一つせず、笑ってくれる伊吹さんは大人だ。私は、どうだろう。秀ちゃんからはっきりと断られたら、こんな風には振る舞えない気がする。笑顔で、好きで居させて、なんて。

 昨日あれだけ傷ついて、泣いて、分かった事がある。やっぱりどうしようもなく秀ちゃんが好きだ。だから、不毛でも辛くても、頑張るしかないんだって。
 もし、この恋が叶わなかったとしても。秀ちゃんの記憶の中にある自分は少しでも可愛い子でありたい。一緒に一つ屋根の下で過ごした時間を、私にとっては宝物のような時間を、嫌な思い出になんかしてもらいたくない。だから、私は笑顔を貼り付けて、いつも通りに振る舞った。朝ごはんを用意して、笑顔で迎えた。
 家を出る前に、花瓶の中で寿命を迎えていた花をゴミ箱に捨てた。
 せっかく花を咲かせたのに――。
 萎れてゴミ箱に捨てられている姿を見て余計悲しくなって、もう当分新しいお花を買うのは止めることにした。
 秀ちゃんからは仕事で遅くなる連絡を受けていたので、一人でご飯を食べてお風呂に入る。秀ちゃんと顔を合わせなくてすんでホッとしてるくせに、寂しいだなんて本当に自分の心はわがままだ。
 現実逃避するみたいに、クッションを抱えてスマホを眺めて……浮遊感で目が覚めた。

「寝てろよ。ベッドまで運んでやるから」

「ん……」

 昨日の夜はほとんど眠れなかったせいか、瞼が重くて、心地いい揺れを感じながら、再び意識を手放した。


 そんな金曜の朝、起きたら家の花瓶に白いチューリップの花が飾ってあった。
 お洒落で可愛い。ついでに花言葉を調べてみたりなんかして――、

『失われた愛』

 どういうこと……?
 いや、絶対に秀ちゃんは花言葉なんか知らないはずだ。私だって知らなかったし。チューリップ全般の花言葉は『思いやり』らしいし、いい方に解釈しておこう。

「いたっ」

 包丁が滑って指先を浅く切ってしまった。思っていた以上に自分は動揺していたようだ。

「真白、どうした?」

「あ……ごめん、起こしちゃった?」

 私の指に血が滲んでいるのを見た秀ちゃんが眉間に皺を寄せる。

「浅いから、心配しなくても大丈夫だよ」

「全然大丈夫じゃねぇよ。救急箱どこ?」

 救急箱を開けた秀ちゃんが手際よく消毒液を取り出す。角張った大きな手が優しく私の手に触れ、「ちょっと痛いぞ」と消毒液をかけた。子供の頃と全く変わらない声かけに、思わず笑ってしまう。

「……昔も、こうやってよく手当してくれてたよね」

 真剣な顔で手を動かし続ける彼を見つめながら呟くと、絆創膏を貼ってくれていた秀ちゃんが小さく笑った。

「誰かさんがめちゃくちゃ小さい傷でも、すぐに俺に絆創膏を貼ってくれってねだったからな」

 子供の頃の私は、秀ちゃんが今みたいに触れて心配してくれるのが嬉しくって、よくお願いしてた。片膝をついてしゃがんで手当てしてくれていた秀ちゃんを見て、王子様みたいだなんて思っていた。

「秀ちゃんに絆創膏を貼ってもらうの、好きだったから」

 手当てを終えた秀ちゃんの黒い瞳がこちらを向く。

「なんで?」

 強く真剣な眼差しにドクンと心臓が音を立てる。
 答えなんて、決まってる。
 だけど、今の自分が言うのは辛くて、そっと視線を逸らすと、ハッという笑いを含んだ吐息の音がした。

「分かってるよ。真白、俺のこと好きだったもんな」

 好き、という過去形に胸が締め付けられる。過去形なんかじゃない。今も――。
 でも、どうして秀ちゃんがそんな苦しそうな顔をしているんだろう。

「……うん」

 過去形なんかじゃないよ、なんて本人に向かって言えなくて。痛む胸を無視して笑顔で誤魔化す。

「手当てしてくれてありがと。あと、お花も。可愛いね」

「ああ」と頷く秀ちゃんを見て、やっぱり花言葉とか知らなかったんだな、と思う。
 
「今日は野菜たっぷりのピザトーストにするつもりなんだ」

 空気を明るくするためにとわざと明るい声を出して、朝食を作り終えてしまおうと後ろを振り返った。瞬間、ギュッと身体が温もりに包まれる。
 背中に感じるゴツゴツした逞しい身体と、お腹と肩に回った腕。

「こ、こういうのはもう……」

「今日、行くなよ」

 切羽詰まったような切実な声音に肩がぴくんと跳ねる。
 後頭部にかかる甘い吐息。密着する熱い身体。

「頼むから……」

 ますます強く抱きしめられながらの囁きに、息が止まる。
 ドキドキと心臓が暴れて「秀ちゃん」と零した自分の声が震える。
 首だけで振り返ると、濡れたように光る黒い瞳に囚われて、いよいよ瞬き一つできなくなった。

「俺、半端なくダサいな。ほんと……お前の前だと、全然格好良く振る舞えない」

 眉間にほんの少し皺を寄せて、自嘲するような表情を浮かべて。それでもなお、私を見つめる視線は強くて。

「……行くなよ」

 こんなの、ずるい。彼にこんな懇願するみたいな表情をされたら、世の女性のほとんどは二つ返事をするに決まってる。

「……私に、行って欲しくない?」

「そうだって言ってるだろ」

 ますます眉間に皺を寄せて、どこか恥ずかしそうに言う秀ちゃんに、笑みが零れる。

「じゃぁ、お願いがあるの」

「……なに?」

 自分を羽交い絞めにする血管の浮いた男らしい腕に視線を落として、そっと両手を添える。私を抱きしめる腕にぎゅっと力が込められて、お互いの体温が熱くなる。
 ねえ、秀ちゃん。私も彼氏は作らないから――だから、お願い。

「ここにいる間は……彼女、作らないで」

 ――お願い。まだ、そばにいて。まだ、好きでいさせて。

 密着する身体から、秀ちゃんが息を飲んだのが、分かった。
 ほんの数秒が何十倍にも長く感じる沈黙を、低い掠れた声が切り裂いた。

「……なんだよ、それ」

 しまった、と思った。
 ごめん、うそだよ、そう言おうと顔を上げて、あ、と思った。
 焼け焦げそうなほどの視線。昂った瞳。男の顔。
 角度を傾げてゆっくりと美麗な顔が近づく。頭の片隅でだめだと思うのに、拒否できなかった。
 だって、帰国初日以外で、初めて秀ちゃんからしてくれるキスだったから。
 唇の柔らかさを堪能するようなキス。お互いの柔らかい肉が形を変える。
 触れて、離れて、触れて、食まれて。擦りつけられて。とびきり甘ったるいキスに、今はもう何も考えたくなくなる。今だけは、この幸せに酔いしれたくなる。
 最後に、「今日は、なるべく早く帰って来るから」と唇の上で囁かれて、淡く唇が重なり、離れていった。

「……待ってるね」

 細まる瞳に、どうしようもなく胸が高鳴る。


 やっぱり、私は永遠に秀ちゃんには敵わない。
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