桑の実のみのる頃に

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第2話

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 自在鉤に吊るされた鍋の蓋を上げると、温かい湯気が立ち昇り、味噌の豊かな香りが家の中に広がった。

「すみません、こんなものしかなくて」

 おすみは、鍋の汁を椀に盛り、二人に差し出した。

「いやいや、とんでもない。屋根の下で一晩過ごせるだけでもありがたいのに、このような馳走まで、忝い」

 目玉の大きな男が頭を下げ、椀を受け取った。

 もう一人の男も、椀を押し戴きながら受け取った。

 その格好が、あまりにも仰々しかったので、おすみは思わず噴出しそうになった。

「ほう、これは美味そうだ。うどんを味噌で煮込んであるのですな」

 大きな目をした男が、美味そうな音を立てながらうどんを啜った。

「うむ、美味い。ほう、野菜もたくさん入っておりますな」

「すみません、野菜といっても皆さんが捨てるような屑野菜ですから」

「いや、いや、食べられるだけでもありがたい」

 もう一人の男は、黙々と椀を啜っていた。

 おすみは、湯気の隙間から二人をじっくりと観察した。

 おすみの右隣にいる目の大きな男は、と名乗った。

 年は四十手前ぐらいだろうか。

 目も大きいが、その他の部分も大きな人だった。

 顔と鼻が縦に長く、眉は太くて、唇も分厚かった。

 黒目勝ちな大きな瞳を見開いて、かかかっと特徴ある大きな声で笑う人だった。

 左吉は、刀売りの行商だといった。

「江戸で、金に困ったお侍さまから買い上げてきたのです。それを甲州で売りさばこうかと。この辺の人は、なかなか勇ましい人柄と聞きますし」

 弥平と名乗った男が担いでいたのは、筵に撒いた十本近い刀だった。

 弥平は佐吉と違って、いたって無口だった。

 顔の作りは小さく、彫りが深い。

 切れ長の涼しげな目元と端整な細い眉が男ぶりを上げている。

 声を上げて笑うことはなかったが、右の頬に小さい笑窪が出てきて、それがなんともこの男には似つかわしくなく、可愛らしかった。

 佐吉よりも若いようだ。

 年齢からいっても、外見からいっても、弥平はおすみの好みにぴったりだった。

 おすみは、正面に座る弥平の食べっぷりを気持ち良く眺めた。

 ―― そういえば、あの人も、こんなにいい音をさせて汁を啜ってたっけ。

 弥平と目が合って、おすみは慌てて目を伏せた。

 ―― いやだよ、あたしは。何考えてんだよ。

 頬が熱いのは、囲炉裏の炎のせいだけではないようだ。

「いや、ご老体、大変馳走になりました。美味しゅうございました」

 三杯の汁を食べきって、左吉は礼を述べた。

「お粗末でござました」

「とんでもない、大変美味でございました」

 人心地付いたところで、左吉が訊いた。

「ご老体は、ここで娘さんと二人暮らしですか」

「いえ、三人です」

「はて、もう一方見えぬようじゃが、娘さんの亭主ですかな?」

 おすみは、針のような細いもので、胸の奥を刺されたような痛みを感じた。

「いえ、これの息子でございます」と、老人は草鞋を編みながら、おすみのほうを見た、「私の息子は昨年の冬になくなりました」

 左吉は、「これはいらぬことを訊いてしまった。許されい」と頭を下げた。

「昨年の冬というと、郡内騒動の件か何かですか」

「いえ、それとは全く関係がございません」

「左様ですか。しかし、ご老体も、あの騒動の渦中にいらっしゃったのでは?」

 老人は、神妙な面持ちで首を振った。

「百姓は、田畑を耕すのが本分でございますから」

 昨年の天保七(一八三六)年八月、幕府の天領である甲斐一国を揺るがす一揆が起こった。

 おすみの住む犬目村があった郡内地方の農民が、米穀の貸しつけを要求して蜂起した。

 原因は、天保の大飢饉とそれを見越した米穀商が買い占めを行い、米価が急騰したことにあった。

 凶作で米が取れないのはどこも同じであるが、郡内地方の特色が、さらに事を複雑にした。

 富士山の麓に位置するこの地方は、高地であるが故の低い気温と火山性土壌のために、農地には不向きな場所であった。

「それでこの地は、むかしから蚕を養い、絹を作ってまいりました」

「おお、知っております。甲斐絹という光沢を帯びた美しい絹ですな」

「左様でございます。それはそれは美しい絹でござまいす。その絹を売ったお金で米を買い、それを年貢として納めております」

 郡内地方では、農民の間にも貨幣経済が浸透していた。

 即ち、経済の動向が農民たちの生活に直結し、物価の上下によって利益を得ることもあれば、大損害を被ることもあった。

 それによって、ますます富む一部の強者と、ますます貧しくなる多数の弱者の格差社会が生み出された。

 天保四年には、蚕の餌となる桑が高値になり、蚕も病気が発生して良い繭が取れなかった。

 絹が作れなくては、銭が稼げない。

 銭がなければ、米が買えない。

 米が買えなくては、年貢を納められない状況になった。

 加えて、ここ数年は天候不良のため、凶作である。

 郡内の農民たちは、未曾有の危機に陥った。

 そこで、犬目村の兵助ひょうすけ下和田しもわだ村の治左衛門じざえもんが頭取となって蜂起したのであった。

「ですが、当初は打ちこわしなどするつもりはなかったと聞いております」

「うむ、そうらしいですな」

 おすみは、椀の片づけをしながら、義父と左吉の話を黙って聞いていた。

 清吉も、皆と行動をともにしていた。

 ―― そういや、おとっつぁんは、清吉さんが仲間に加わるのを許さなかったっけ。あの時も、百姓は田畑を耕すのが本分だって反対したよね。

 それでも、清吉は行った。

 そして数日後、彼は青い顔をして戻ってきて、「おやじの言うとおりだった」と呟いた。

「数百人程度の百姓が、翌日には数千人に膨れ上がっておりました。人がそれだけ集まれば、隅々まで触れが行き渡らなくなります。後は、手綱の切れた暴れ馬と一緒でございます」

 統制をなくした群衆は暴徒と化し、打ちこわしが始まった。

「百姓だけではありませんでした。博徒ややくざ者までもが打つこわしに加わりました」

 郡内地方のもう一つの特徴に、人の流入が多かったことがあげられる。

 甲州街道が通っていることもあって、富士山への参拝の客や織物業者が多く出入りしていた。

 良い人間ばかりが動けばいいが、世の中そんなに甘くはない。

 逆に、悪い人間ほど良く動き回るものだ。

 山間部が多いので無宿人や犯罪者、やくざ者が入り込んだり、絹で儲けた金目当てに博徒が入り込んだりしていた。

「そういった連中が、日頃の憂さ晴らしや、金目的で加わって来たのでございますよ」

「なるほどな、それであんなに被害が拡大したのですか」

 左吉は、数度頷いた。

 弥平のほうは会話に加わることなく、おすみが差し出した白湯を啜っていた。

「事が大事になって郡内の農民は驚いたようでございます。熊野堂くまのどう村から引き返してきました。ですが、一揆はさらに大きくなりまして………………」

「やがて、甲斐国全体に広がっていったとういうことでございますか」

 甲府代官はこれを抑えきれず、幕府が出兵命令を出した沼津藩と高島藩によって、ようやく鎮圧するに至った。

「それでは、宿場に屯している素性よろしからぬ方々は、もしややくざ者か何かで?」

 左吉が訊いた。

「ええ、下宿には虎八という博徒が下りまして、これが幅を利かせております」

「下宿というと、あと上宿かみじゅくとかあるのですか?」

「ええ、犬目の宿は、上宿と中宿なかじゅく、そして下宿の三つの宿に分かれております。下宿には虎八が、上宿には『隻眼の竜』とか名乗っております竜蔵たつぞうという男が土場を持っております」

 虎八同様、竜蔵も喧嘩っ早い男で、数人の子分を従えて犬目の上宿を塒にしていた。

『隻眼の竜』とは、彼の左目は、刀傷で塞がっているために付けられたあだ名であった。

「しかし、お上がそんな連中をよく野放しにしてますな。先の騒動で捕まえてもいいはずですが」

 左吉が不思議そうな顔をして訊いた。

「いえ、なに、蛇の道は蛇でございますよ。虎八も、竜蔵も、陣屋からお手札をいただいておりますので」

「ああ、目明しですか、なるほど、それで宿場でも、ああしてのさばっておるのですね」

 木を隠すには森の中、人を隠すには人の中、悪人を隠すには悪人の中である。

 犯罪者や流れ者は、虎八や竜蔵のような人間のところに集まってくる。

 また、そういった連中は、恐ろしいほど優秀な情報網を持っている。

 奉行所や陣屋としては、そういった連中に密偵のようなことをやらせて、犯罪者を取り締まっていた。

 これが目明しであるが、この目明し全員が銭形平次のような正義の味方なら、庶民も大喜びである。

 しかし大抵は、お上を後ろ盾に、強請り、たかりとやりたい放題していたので、庶民は肩身を狭くして暮らさなければならない。

 陣屋も、見て見ぬふりを決め込んでいた。

「この二人が、『竜虎相搏つ』とか馬鹿なことを申して、中宿を挟んで縄張り争いをしているのでございます。ですが、陣屋は知らん顔でございます。お陰で、宿場の者や、周辺の村の者は大弱りです」

 左吉が、あの独特の乾いた笑い声を上げた。一頻り笑うと、一つ咳払いをした。

「いや、これは失礼、笑い事ではなかったな。しかし、ご老体が、『竜虎相搏つ』などと申すから………………」

 左吉は、咽喉の奥を押し殺して笑いを堪えた。

 弥平も、笑いを噛み殺しているらしい。

 その薄い唇が、ふるふると震えていた。

「いや、ご老体、百姓にしておくには勿体ないほどの学をもっておられるな」

「とんでもない。百姓でもこれぐらいのことは知っております」

 老人は、相貌を崩すことなく草鞋を編み続けた。

「そうか、そうでござったか。うむ、『竜虎相搏つ』か」

 左吉は、よほど感に入ったようで、何度も頷いていた。

「いや、これは好都合かもしれないぞ、弥平さん」と、左吉は弥平に目を向けて言った、「縄張り争いをしているということは、それぞれ得物が欲しいはずだ。とすれば、こいつは刀が高く売れるかもしれませんよ」

 多分、そうだろうとおすみも思った。

 血気盛んな虎八と竜蔵だ、得物は幾つあっても足らないぐらいだろう。

 江戸の侍が使っていた刀と聞けば、飛びつくかも知れない。

 だが、そうなれば、どうなるか………………

 ―― 虎八一家と竜蔵一家の争いが大きくなって、酷いことになっちまうよ。ことによると死人が出るかもしれない。ああ、金次だって、刀を持って竜蔵一家の若い者と喧嘩をするかも。そしたらあの子、あの子………………

 おすみは、金次の哀れな姿を想像して、背筋が寒くなるような感覚に捉われた。

 その姿が、夫の哀れな最後と重なった。

 ―― 嫌だよ、これ以上辛い思いをするのは嫌だよ。

 義父を見た。

 老人は、黙って草鞋を編み続けていた。

 それが分かっていないのか、それとも分かっていながら敢えて口にしないのか、窪んだ目からは、老人の表情を読み取ることはできなかった。

 ―― おとっつぁんが言わないんなら、あたしが………………

 と思ったが、何と言っていいのか分からない。

 まさか、うちの息子が虎八の子分だから、刀を売るのはよしてくれとは言えない。

 それに、左吉だって生活があるだろう。

 おすみが思い悩んでいると、それを察したように弥平が口を開いた。

「確かに、私たちは儲かるでしょうが、それで虎八一家と竜蔵一家が争いにでもなれば、迷惑するのは宿場や村の者たちではございませんか」

 初めて聞いた弥平の声は、まるで観音様のように澄んだ声と、おすみは心を打ち震わせた。

 ―― そう、そうでございますよ。弥平さんの言うとおりでございます。やっぱり弥平さんだわ。

 弥平の何を知っているわけでもないのに、弥平を贔屓するのは、単に好みの問題だった。

「いや、いや、その点は私も考えておりますから」

 左吉は何か考えているようだったが、それは言わずに、草鞋を編んでいる老人に、「ここに二、三日逗留させてくれまいか」と願い出た。

 商売をするとなると、ここに二、三日逗留しなくてはならない。

 虎八と竜蔵の両方に刀を売るとなると命がけだ。

 交渉が決裂して、殺される可能性だってある。

 そうならないためにも、子分が屯している宿場ではなく、ちょっと離れたこの家が都合いいのだが、という話であった。

 おすみは、そんなに命が大切なら初めから刀を売らなければいいのにと思った。

 ―― まあ、それが商人ってものだろうね。あたしだって、旅籠でたくさん、こんな男たちを見てきたじゃないかい。金のためなら、何でもござれっていうのが商人だろう。

 確かに金は大事だ。

 おすみだって、桑田屋で働いて、銭を稼いでいる。

 だがそれは、あくまで田畑からの恵みが少ないためである。

 ―― 一年、生きいけるだけの米と野菜がとれたら、女中なんていますぐ辞めてやるよ。

 ここに住んでいる限りは、それは夢のまた夢であろうが。

 おすみは、老人を見た。

 老人は、手を止めることなく、「狭いところですが、どうぞお好きなだけお止まりください、娘と孫の三人暮らしですので、遠慮はいりません」と返答した。

 その言葉を聞いて、左吉は忝いと頭を下げ、弥平は片笑窪を作った。

 その笑窪を見て、おすみは胸を熱くした。

 弥平と目が合うと、体全体が熱くなり、逆上せ上がりそうだった。

「ところで」と左吉が訊いた、「先程から三人住まいと窺っておるのですが、そのお孫さん姿が見えませんな」

 男たちは、家の中を見回した。

 家の中といっても、囲炉裏端と土間の簡素な造りである。

 小屋に、草葺の屋根をつけた程度のものだ。

 家財道具だって、自在鉤にぶら下がっている鍋と椀ぐらいしかない。

 男一人が隠れるところなど何処にもない。

 ああ、やっぱりきたか、とおすみは思った。

「ええ、息子はちょっと………………」

 おすみは、そのままお茶を濁すつもりでいたが、これを義父がぶち壊した。

「孫の金次は、いまは家を出て、虎八のところで使い走りのようなことをしておるようです」

 左吉と弥平は、あっと顔を見合わせた。

 おすみは義父を睨みつけた。

 老人は、黙って藁を縒っている。

「そ、それは、それは………………」

 男二人は、神妙な顔をして白湯を啜った。

 おすみは、弥平と目があった。

 居心地が悪かった。

 囲炉裏の薪が、ぱちりと燃え爆ぜた。
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